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第89話 三ツ谷精肉店②

 甘酸っぱい「いちごミルクキャンディー」が舌の上で溶けていく。悠真はレジカウンターの椅子に深く背を預け、先ほどまでいたエデンベルクの喧騒を思い出していた。


 鼻腔の奥には、まだあの芳醇なカレーの香りが残っている。

「……そういえば」

 悠真はふと思い出した。奏多が作ったあのカレー、どこか日本の家庭の味に近い安心感がありながら、驚くほど深みのある「和」のコクが隠れていた。

「悠真さん、このルーの仕上げに、あんたの店で買った『醤油』を垂らしてみたんだ。こっちのスパイスは尖ってるのが多いが、日本の醸造技術ってのは凄いな。一気に味がまとまって、肉の脂の甘みを引き立てやがる」


 別れ際に奏多がボソリと教えてくれた「隠し味」。自分の店で売っている、何の変哲もないはずの地元の醸造醤油が、異世界で和牛と出会い、子供たちの笑顔を作る魔法の調味料に化けたのだ。


「商売って、ただ物を右から左へ流すだけじゃないんだな」

 悠真は、金貨から日本円へと姿を変えた売上伝票を眺めながら、独りごちた。異世界の金貨を自分のスキルで換金し、正式な「店の売上」として処理する。一見すれば単なるデータ上の数字だが、その裏には、苦労して運んだオークや、三ツ谷さんが魂を込めて捌いた和牛の重みが詰まっている。


 時計の針は、日本の午前11時を回ったところだ。

「……さて、午後は少し外に出ようか」

 異世界では一日が経過していても、こちらではまだ半分も終わっていない。この時間のズレにも、最近ようやく慣れてきた。悠真はエデンベルクの石畳で大活躍した赤いキャリーワゴンのタイヤを丁寧に拭き、店の片隅に畳んで置いた。


「もっとバリエーションがあれば、ギルドのバルガスさんも喜ぶだろうし」

 次の仕入れの構想を練りながら、悠真はふと、地元の「三ツ谷精肉店」の顔ぶれを思い出した。


 同じ頃、商店街の端にある『三ツ谷精肉店』では、昼時のピークを前にした活気があふれていた。

「いらっしゃい! 今日のおすすめは鶏の唐揚げだよ!」

 威勢のいい声を上げているのは、店主の息子、真翔だ。白衣の下に隠れた引き締まった体格は、かつての「横に大きかった」面影を微塵も感じさせない。

 そこへ、一人の女性が幼い女の子の手を引いて店に入ってきた。悠真の妹、希実と、その娘の結衣だ。


「こんにちはー。真翔くん、予約してたコロッケ10個、いけるかな?」

 希実が親しげに声をかけると、真翔の顔がパッと明るくなった。

「おう、希実ちゃん! ちょうど揚げたてだ。……っていうか、お前、相変わらず電話予約からの受取るタイミングが完璧だな」

 真翔が手際よく、紙袋に黄金色のコロッケを詰めていく。

 実はこの二人、高校時代の同級生であり、同じ「アニメ同好会」に所属していた筋金入りのオタク仲間でもあった。


「そりゃあね。三ツ谷のコロッケは、揚げてから15分以内に食べるのがジャスティスだって、高校の部室で何度も議論したじゃない」

 希実がいたずらっぽく笑うと、真翔は「よく覚えてるな、そんなマニアックな掟」と苦笑した。


 三ツ谷精肉店のコロッケは地元でも大人気で、昼過ぎには完売してしまうことが多い。だが、希実には特権がある。高校時代、部室で一緒に深夜アニメの熱い展開を語り合い、未だに真翔が買ったBDボックスを借りて観ている仲だ。当時、少し内気で太っていた真翔にとって、明るく物怖じしない希実は、数少ない「同志」だった。

「おにくのにおいー!」とはしゃいでいる結衣に

「はい、結衣ちゃん。これはおまけの鶏の唐揚げ。内緒だぞ?」

 真翔が小さな結衣に優しく微笑みかける。

「ありがとう、おじちゃん!」

「お、おじちゃんって……」

 真翔は照れくさそうに頭を掻いた。


「あ、そうそう。昨日と今日、悠真さんが店に来てさ。親父にものすごく熱心に『いい肉の選び方』とか『煮込みに適した部位』とかを聞いていったんだよ。何か大きな仕事があるのか、それとも新しい料理でも始めるのか?」


 希実は驚いたように目を丸くした。

「お兄ちゃんが? 料理なんて全然しないのに。……あ、でも最近、お店が繁盛してるみたいだから、新しい『目玉商品』でも考えてるのかな」

 「だろうな。悠真さんのあの真剣な目……。ありゃあ、ただの趣味じゃない。誰か大切な客に、最高のものを食わせたいっていう『料理人の目』だったぜ。親父もさ、最初は『お土産屋に肉を売るのか?』って訝しんでたけど、悠真さんの熱意に押されて、一番いいA5和牛を卸したんだ」希実は意外そうに目を丸くした。


「へぇ……。あのお兄ちゃんがね。最近、お店の景気がいいみたいで、なんだか生き生きしてるのよね」

 希実たちが店を出ていくのを見送りながら、真翔はふと、高校時代の放課後を思い出した。

 部室の片隅で、希実が持ってきたコンビニのお菓子を分け合いながら、「いつか自分たちも、アニメに出てくるような、世界を救うヒーローになれるかな」なんて青臭い話をしていた。

(……世界を救う、か。そんな大袈裟なことはできないけど、悠真さんが買ったあの肉が、どこかの誰かを笑顔にしてるなら、俺の仕事も捨てたもんじゃないな)

 真翔は、作業場の奥で巨大な牛の枝肉を捌き始めた。その包丁さばきは正確で、迷いがない。

 異世界アルテミシアで、奏多がその肉を使って最高のカレーを作り、子供たちが「人生で一番の味」だと感動していることなど、真翔は知る由もない。

 だが、彼が真心込めて整えた肉は、次元の壁を越え、確かに一人の料理人の魂と響き合い、遠い異界の子供たちに「希望」という名のスパイスを届けていた。

「よし、次のロット揚げるぞ! 親父、ラードの温度、いい感じだ!」

 三ツ谷精肉店に、再び香ばしい匂いが立ち上る。

 それは、エデンベルクの宿屋で悠真が感じた、あの「幸せな香り」と全く同じ、日本の商店街が誇る「誠実な仕事」の匂いだった。

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