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第84話 ローレンツとの交渉

 悠真の言葉は、静かな波紋のように豪華な応接室の空気を震わせた。

 ローレンツは口の中で転がされる「いちごミルクキャンディー」の、驚くほど滑らかな舌触りと、異世界の技術では到達し得ない芳醇な香りに圧倒されていた。


 商業ギルド長として、彼は数多の贅沢品、王族に献上される秘蔵の酒や、エルフの里からもたらされる精緻な細工物を見てきた。だが、この小さな「一粒」に凝縮された圧倒的な『完成度』は、既存の概念を軽々と超越している。


 「……ユウマ殿。あなたは、これをただの『菓子』だと言い切るのか?」

 ローレンツの声から、先ほどまでの傲慢な色が消えた。代わりに宿ったのは、狡猾な商人のどろりとした好奇心だ。


 「ええ。僕の故郷では、子供たちが買うようなありふれたものです。ですが、ここアルテミシアにおいて、この『品質の安定』と『未知の製法』がどれほどの価値を生むか、ギルド長ならお分かりのはずだ」

 悠真は畳みかけるように、赤いキャリーワゴンの中から次の一手を取り出した。


 今度は、和央さんの店で仕入れた『厚手の革手袋』の予備だ。それを無造作に、最高級の黒檀で作られたテーブルに置く。

 「先ほど冒険者ギルドのバルガスさんにも納品してきたものです。魔導具ではない、このアルテミシアでは一日かけても数組しか作れないような頑丈さと、絹のような指の動きを両立させている。これを、僕は『消耗品』として供給できる」


 ローレンツが震える手でその革手袋を手に取った。縫い目のあまりの細かさと正確さ、そして裏地の起毛の心地よさに、彼は思わず椅子から腰を浮かせた。

「馬鹿な……。これを、消耗品だと? この精緻な縫製を、魔法も使わずに数多く用意できるというのか?」

 「それが、僕の背負っている『背景』……つまり、商圏の力です」


 悠真は、あえて「日本」という名前は出さず、自分の背後に巨大な生産背景があることを匂わせた。これはハッタリではない。駅前の商店街、そしてその先に繋がる日本の産業界は、異世界から見れば神の領域の工場群に等しいのだから。


 リリエッタが隣で、悠真の堂々とした交渉ぶりに目を見張っていた。彼女の知る悠真は、どこか頼りなく、オークの死体に腰を抜かすような青年だったはずだ。しかし、今ここで「商売」という戦場に立つ彼は、まるで戦場を支配する名将のような風格を漂わせている。


 「……リリエッタ、ユウマの精神状態はどうだ?」

 フィアネスが念話で尋ねると、リリエッタは銀色の瞳を細め、驚きを隠せずに答えた。

「……信じられません。全く『澱み』がありません。彼は、ローレンツの威圧を恐れるどころか、彼を『自分の顧客』として完全に掌握しようとしています。商魂……とでも言うのでしょうか、凄まじい意志の力です」


 ローレンツは、口の中のキャンディーを惜しそうに飲み込み、深くソファに背を預けた。

「……認めよう。あんたはただの行商人ではない。この街に、全く新しい『富の潮流』を持ち込む特異点だ。50%の治安維持費……あれは撤回しよう。だがな、商業ギルドとしても、何の利益もなくあんたを野放しにするわけにはいかん」


 「条件を提示してください」

 悠真は一歩も引かない。

 「第一に、店舗の場所だ。北の城壁沿いの路地、あそこは本来、商業区ではない。だが、あんたの店を特別に『保税特区』として認可しよう。その代わり、売上の15%を流通税としてギルドに納めること。これは既存の加盟商人への示しでもある」

 「……15%。冒険者ギルドを通じた優遇税率と同じですね。受け入れましょう」

 「第二に……」ローレンツは指を一本立て、目を細めた。「あんたが扱う『菓子』や『日用品』のうち、特定の数品目について、商業ギルドへの優先供給権を認めろ。あんたの店は個人客を相手にすればいい。だが、それを大量に卸し、再分配する権利は我がギルドが握る」


 「それは無理です」

 悠真は即答した。応接室が、凍りついたような静寂に包まれる。ゼノスとガルドが、無意識に武器の柄に手をかけた。

 「……何だと?」ローレンツの顔が、再び赤黒く上気する。

 「卸売の権利を独占されるのは困ります。僕の店は、あくまで『おみやげのながもり』。誰に何を売るかは、店主である僕が決めます。……ですが、ローレンツさん。あなたが信頼に値するパートナーだと証明してくれるなら、商業ギルドを『優先的な卸先の一つ』として契約することは

 検討しますよ。独占ではなく、優先です」

 悠真は、商店街で見てきた「義理人情のバランス」を思い返していた。一方的な支配は、いつか破綻する。互いに利益を享受し、かつ対等な立場でなければ、異世界での商売は長く続かない。


 ローレンツは、しばらくの間、悠真の瞳をじっと見つめていた。やがて、彼は突然、天を仰いで大笑いし始めた。

「カッカッカ! 愉快だ! バルガスが惚れ込むわけだ。ただの魔法使いや戦士なら、私の50%という言葉に震えて命乞いをするか、力で解決しようとしただろう。だが、あんたは『言葉』と『価値』で、私の首を絞めながら握手を求めてきた!」

 ローレンツは立ち上がり、指輪だらけの右手を差し出した。

「いいだろう。売上15%、独占なしの優先契約。これであんたの店に『エデンベルク商業ギルド公式認定』の盾を出してやる。これがあれば、小役人や姑息な商人があんたの店に嫌がらせをすることは不可能だ」


 悠真はその手をしっかりと握り返した。

「ありがとうございます。……あ、ローレンツさん。契約の祝儀代わりに、これをどうぞ」

 悠真がワゴンから取り出したのは、地元の銘菓のまんじゅうだ。

 「我が故郷の銘菓『停車場まんじゅう』です。職員の皆さんとティータイムにでもお召し上がりください」

 「……『停車場まんじゅう』だと? ほう、面白い。どこまでも底の見えない男だな、ユウマ」

 一連の交渉を終え、白亜のギルドビルを出た頃、エデンベルクの空には再び三つの月が昇り始めていた。

「……ふぅ。心臓が止まるかと思った」

 悠真はワゴンのハンドルを握りながら、大きく息を吐いた。

 「驚いたぜ、悠真。あんた、あの狸親父相手に一歩も引かなかったな」

 ゼノスが、心底感心したように悠真の肩を叩いた。

「商業ギルドの認定証と冒険者ギルドの庇護……。これで、ユウマの店はこの街で『不可侵の聖域』に等しい地位を得ましたね」

 フィアネスも、どこか誇らしげに微笑んでいる。

 「さて、今日は大成功だ! 「守護の炎(ガーディアン)」でパーティーといこうぜ!」

 ガルドの声に促され、一行は宿屋『守護の炎』へと向かった。


 赤いワゴンのタイヤは、石畳の上で「ゴロゴロ」とこれまでで一番軽やかな音を立てている。

 その道中、悠真は自分の腕に巻かれた黒い『会話の腕輪』に触れた。


「……パトロールの連絡係も、お土産屋の店主も、やることは同じなんだな。大切な場所を守るために、誠実に向き合う。ただそれだけだ」

 ふと見上げた夜空。三つの月の光に照らされたエデンベルクの街並みは、日本で美咲と見た月夜とは全く違う景色だが、今の悠真には、ここもまた自分の「商店街」の一部であるように感じられていた。

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