第72話 幸せの匂い
エデンベルクの夜空を渡る冷たい風も、孤児院『慈愛の灯』の重い樫の木の門をくぐれば、子供たちの熱気にかき消される。
「シスター、ただいま戻りました! 遅くなってごめんなさい!」
ミミリアは、弟レオの手を引きながら、当直のシスター・マーサに深々と頭を下げた。
シスター・マーサは眼鏡の奥の目を険しくさせ、腰に手を当てる。
「もう、ミミリア。概念工房へ行くだけのはずが戻ってきたと思ったら、夕食もいらないなんて言って今度はレオまで連れ出して。帰って来ないから心配で心臓が縮まる思いだったわよ。夜がどれほど危ないか貴女なら分かっているでしょう?」
「ごめんなさい、シスター。でも……どうしても外せない用事があって。その代わり、マダム・レイナから孤児院の皆んなにって、とびきりの『ご褒美』を預かってきたんです」
ミミリアが抱えた大きな袋を少しだけ持ち上げると、中から「カサッ」という、アルテミシアの紙袋とは違う、乾いたポリ袋の音が響いた。
その音に反応したのは、食堂にいた子供たちだ。
「あ、ミミ姉ちゃんだ!」「おかえり! 二人だけずるいぞ、いい匂いがする!」
食いしん坊の虎獣人の少年、タイガが鼻をひくつかせながら突進してくる。犬獣人の少女、ハナも「お肉と……嗅いだことのない甘い匂いがする!」と尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「二人だけ美味しいもの食べたなー!」と野次が飛ぶ中、ミミリアは優しく笑った。
「皆んな、ごめんね。でも、明日の朝には驚くようなプレゼントがあるから。今日は遅いからもう寝よう?」
その夜、ミミリアとレオは自分たちのベッドに入っても、なかなか寝付けなかった。胃袋に残る和牛の幸福な重み。そして、袋の中に詰まった「日本」という名の魔法。
「ねえ、ミミリア。あのすき焼き、夢じゃないよね?」
「夢じゃないわよ、レオ。あのお菓子も、明日皆で食べるんだから」
二人は暗闇の中で手を繋ぎ、異世界の月明かりを眺めながら安らかな眠りに落ちた。
翌朝、孤児院の食堂はかつてない緊張感と興奮に包まれていた。
ミミリアは院長先生とシスター・マーサに事情を話し、昨夜持ち帰ったお土産をテーブルに広げた。
「……何、これ。見たこともないほど鮮やかな色だわ」
シスター・マーサが絶句する。
テーブルの上には、悠真の店からやってきた「日本のお菓子」たちが並んでいた。
青い箱の船を型どったチョコがビスケットにのっている『アル〇ォート』、動物の絵が描かれた『たべっ〇どうぶつ』、個包装の『カ〇トリーマア〇ム』、そして『う〇い棒』や『〇蒻ゼリー』など。
「皆んな聞いて。今日は特別に、一人5個ずつ、好きなものを選んでいいわよ!」
ミミリアの宣言と共に、子供たちの歓声が屋根を突き破らんばかりに響いた。
「アタシ、この猫の絵のクッキーがいい!」「俺は、この長い棒! 魔法の杖みたいだ!」
タイガは『う〇い棒』の明太子味を、ハナは『チ〇ッパチ〇プス』を大事そうに選んでいく。
「残った分は、シスターが預かっておくわ。また内職の休憩時間や、お祝いの時の楽しみにしましょう」
院長先生の言葉に、子供たちは「はーい!」と元気よく返事をした。
あくる日の朝食後、孤児院の広い作業場には、日常の「仕事」の風景が広がっていた。
現在、概念工房から依頼されているのは、『抱きしめる声』の製作。
玲奈が魔力を定着させた型紙『縫製の魔羊皮』を土台に、子供たちが一針ずつ丁寧に布をぬいぐるみの形に縫い綿を詰めて、玲奈が開発した録音の魔道具を中に入れ縫い合わせて完成だ。
このぬいぐるみは『抱きしめる声』という魔道具で、ぬいぐるみに話しかけると声が録音される。そして、抱きしめた瞬間に「録音した音声」が流れるという癒しの道具だ。
「皆、針先をよく見て。魔道具を傷つけないように、優しく縫うのよ」
ミミリアの指導を受けながら、裁縫が出来る子供たちは真剣な表情で作業を進める。
とは言えア〇パ〇マンを本当に知ってるミミリアからは細かい修正や注文を言われ半ば嫌々やっていた内職だった。だが今は違う休憩時間に、あの「魔法のお菓子」を食べられるという希望があるからだ。
「よし、みんな休憩よ!」
ミミリアの声がかかると、作業場は一転してティータイムの会場になった。
シスターたちが淹れたハーブティーと共に、それぞれ選んだお菓子が封を切られる。
「……っ、おいしい……っ!」
タイガが『う〇い棒』を齧り、そのサクサクとした食感と濃厚な味に震えた。
「なんだこれ、空気みたいに軽いのに、味がすごく濃い! 止まらないよ!」
ハナは『アル〇ォート』のチョコを舐めるようにして食べている。
「この黒い板……口の中でとろける。ビスケットのサクサクと混ざって、お口の中が天国みたい」
院長先生もシスター・マーサと一緒に『カ〇トリーマ〇ム』を口にした。
「……驚きました。このしっとりとした質感、そして中のチョコの甘み。アルテミシアの名門貴族が食べるような茶菓子でも、これほど繊細なものはありません」
『〇蒻ゼリー』を食べた子供たちは、そのプルプルとした食感に「生きたスライムを食べてるみたい!」とはしゃぎ、最後にはそのフルーティーな甘さに虜になっていた。
子供たちの笑い声と、甘い香りが、古い孤児院を満たしていく。
ミミリアは、その光景を眩しそうに見つめていた。
(この小さな一粒のお菓子が、この子たちの過酷な現実に一筋の光を差してくれている)
前世の美嘉だった頃、自分が好きだったお菓子。それらが次元を超えて、今こうして子供たちの瞳を輝かせている。
「ねえ、ミミリア。あの店には、もっとたくさんこういうのがあるの?」
レオが、指についたチョコの跡を惜しそうに舐めながら尋ねた。
「ええ、きっとたくさんあるわ。だから、アタシたちがもっと頑張って、あの店を……あの平和な場所を守っていかなきゃいけないのよ」
アルテミシアの三つの月が消え、太陽が昇る日常の中で、猫獣人の元デザイナーは決意を新たにする。
あの店がもたらした「日本」という名の救いを、この世界の闇に決して食わせはしないと。
その日の『慈愛の灯』は、夕暮れ時まで幸せな甘い香りに包まれていた。
内職の手はいつもより早く、出来上がった『抱きしめる声』からは、どことなく子供たちの幸福な吐息が混じっているような、優しい音が漏れていた。




