第70話 異世界風すき焼きの味
『守護の炎』の食堂には、かつてないほど濃密で、暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満していた。
「……いい、レオ。これはただの肉じゃないのよ。伝説の『和牛』なんだから。心して食べなさいよ」
ミミリアが、隣に座る弟のレオに、まるでお伽話でも聞かせるような厳粛な口調で言い聞かせている。
レオは、目の前でグツグツと音を立てる鉄鍋を、神聖な儀式でも見るような目で見つめていた。
「ミミリア、これ、本当に食べていいの? 宝石みたいに脂が光ってるよ……」
奏多は鉄鍋の中で、薄切りの和牛が醤油、砂糖、酒を合わせた「割り下」を吸い、鮮やかな桃色から深い茶色へと色を変えていく様を見守っていた。
アルテミシアの魔物の肉は、念入りに血抜きをしてもどこか野性味という名の臭みが残る。だが、悠真からもたらされたこの肉は、熱を通せば通すほど、甘く上品な香りを放つのだ。
「よし、食べ頃だ。肉が硬くなる前にいけ!」
奏多の合図と共に、箸とフォークが一斉に動いた。
まずは、主役の肉からだ。
「……っ!!」
ミミリアの動きが止まった。
咀嚼した瞬間、彼女の瞳が極限まで見開かれ、猫耳がピンと直立する。
「な、なにこれ……噛んでないのに、勝手に溶けていく……。脂が、脂が甘いっ! 記憶にあるどの御馳走よりも、今、アタシの舌が『幸せだ』って叫んでるわ!」
レオはといえば、口いっぱいに肉を放り込み、あまりの衝撃に言葉も出せず、ただただブンブンと首を縦に振って涙を流していた。
玲奈は、娘の奏音のために肉を器に取って冷ましてから食べさせる。小さな口を開け美味しそうに食べる奏音と、夢中で頬張る姉弟の様子を微笑ましく見守りながら、自らも一切れの肉を口にした。
『……美味しい。奏多さんの腕と、日本の肉。この組み合わせは、魔法そのものね』
卓上には、「概念工房」で開発中のIHコンロを魔道石に置換した「魔道コンロ(仮)」の卓上サイズが置かれ、鍋からは絶え間なく湯気と美味しそうな音が響いている。
「代用の野菜も悪くないな」
奏多は、割り下をたっぷりと吸った「アルテミシア産のハクサイとネギ(に似た野草)」や、悠真の店で買った地元産大豆を使った豆腐、そしてお湯で戻した干しシイタケを口にした。
「春菊やしらたきがあれば最高だが、この肉の圧倒的な旨みが、こっちの世界の荒削りな素材を一つにまとめ上げてやがる。……これだよ。素材が良ければ、料理人はどこまでも高みに行けるんだ」
祝宴の後半、奏多はそっと、悠真から「明日は定休日だから」とサービスでもらった4個入りの『卵』のパックをテーブルに出した。
「……生でいくのか? カナタ」
この世界では、卵を加熱せずに食べるのは自殺行為に近い。日本人の転生者であり、「無病息災」のスキルを持つミミリアでさえ、少し身構える。
「安心しろ。日本の卵は、生食を前提に管理されてるんだ。これが、すき焼きの『完成形』だぞ」
溶き卵にくぐらせた肉を口にした瞬間、ミミリアは椅子の背もたれに倒れ込み、天井を見上げた。
「……あぁ、もうダメ。アタシ、もうアルテミシアの干し肉(孤児院の質素な食事)には戻れない。これで日本の『オコメ』があれば最高なのに。ねえカナタ、ユウマって人、神様なの? それとも、アタシたちを贅沢で殺しに来た死神なの?」
「ハハハ、あそこはただのお土産屋だよ。米のことも聞いたら、同じ商店街に米屋があるから、いずれ取り扱うかもってさ」
奏多は笑いながら、自分も卵を絡めた肉を啜った。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、レオが膨れたお腹をさすりながら眠たげに目をこすり始めた頃。ミミリアは空になった鍋を見つめ、少し真剣な表情を浮かべた。
「玲奈、レオと一緒に作ってる新商品の『発光式モグラ叩き』、ようやく完成しそうなの。衝撃センサーの感度調整が大変だったけど、試作品ができたから、また明日にでも孤児院に見に来て」
そして、奏多に向き直る。
「……ねえ。あの店のこと、金持ちや貴族連中には隠しておければいいのにね。あんな『本物』、欲深い連中に見つかったら、それこそ戦争になるわよ」
「ああ、分かっている」
奏多は頷き、玲奈の肩を抱き寄せた。
「だからこそ、俺たちが守らなきゃな。あの店と、あいつの『日常』をな。……いつまでも、ただの『お土産屋』でいられるように。」
ミミリアとレオを孤児院の門限に間に合うように送り出した後、酒場の営業時間が近づき、子供たちを寝かしつけたゼノスの奥さんたちがいつも通り酒場の手伝いにやってくる。
酒場の主人が「美味い肉」を手に入れたと聞きつけた客たちが、じきに押し寄せてくるだろう。
玲奈は満足そうな笑顔の奏音を椅子から抱き上げた。そして、そっと奏多の手に自分の手を重ね、夕闇に消えていったシャッターの音を、静かに思い返していた。
ミミリアたちに手巻きおにぎりを渡す描写を消去しました。
すみません。




