第69話 日常の始まり
昨日間違えて投稿したものと同じ内容です。既に読まれた方はすみません。
エデンベルクの石畳に、三つの月が青白い影を落とし始める。
奏多、玲奈、そして特大のポテトチップスを大事そうに抱えた奏音の三人は、『おみやげのながもり』を後にして、自分たちの居場所である『守護の炎』へと歩を進めていた。
背後で自動ドアが閉まる「ウィーン」という機械的な音。それは、この中世的な異世界の喧騒から、突如として切り離されるような断絶感をもたらした。
「……信じられねぇな」
奏多がポツリと漏らした。その腕には、店で買った品物や悠真から贈られた品物が入ったビニール袋がいくつか下がっており、歩くたびにカサカサと「日本の音」を立てる。
「あの店、外から見ればただの建物だが、中は完全に『あっち』の空間だった。玲奈、お前気づいたか? エアコンの唸る音、それに照明の……あの蛍光灯特有のチカチカする感じ。魔導具の灯りとは決定的に違う、あの無機質な光だ」
玲奈は深く頷き
『……不思議。店の中では私の「隠遁の腕輪」が全く反応しなかった。あそこはアルテミシアの魔力が通らない、完全な異界。だから私は、久しぶりにスマホの合成音声を使って話すしかなかった』
「魔力が通らない……? 道理で電気も普通に流れてるわけだ。だが、あれだけの規模の『異界』を維持するには、神級の術式か、それこそ世界そのものがバグを起こしてなきゃ説明がつかねぇぞ」
奏多はサングラスを直し、複雑な表情で振り返った。彼もまた、玲奈の作った傷薬で抑えている火傷の痕の痛みを感じていた。もう店は建物の陰で見えないが、その存在はさながら、静かに息を潜め、獲物を待つ巨大な魔物のような不気味ささえ漂わせていた。
「主人の悠真は、ただの良い青年だったが……あの店そのものは、この世界の法則を喰らい尽くしかねない。玲奈が必死に魔導具で代用してきた『概念』を、物理法則で塗り潰そうとしているんだからな」
そんな重苦しい考察を交えながら歩くうちに、見慣れた看板が掲げられた宿屋『守護の炎』が見えてきた。
しかし、その入り口には、小柄な人影が腕を組んで仁王立ちしていた。
「あ、ミミリアお姉ちゃんだ!」
奏音が声を上げる。
そこにいたのは、魔道具店『概念工房』の店員であり、デザイナーとしても玲奈と協力関係にある猫獣人の少女、ミミリアだった。
前世の日本人の記憶を保持したまま転生した彼女は、歳はまだ10歳だがアルテミシアの猫獣人特有のしなやかな肢体と、前世の記憶からなのかどこか江戸っ子のような気風の良さを併せ持っている。
だが今の彼女は、尻尾を逆立て、耳をピンと後ろに伏せていた。明らかに怒っている。
「ちょっと! カナタにレイナ! どこ行ってたのよ!」
ミミリアが声を荒らげる。
「行方不明だったガルドおじさんたちが戻ってきたって聞いたから、慌てて報告しに来たのに! 店はもぬけの殻だし、一向に帰ってくる気配はないし……アタシ、てっきりアンタたちが借金踏み倒して夜逃げしたんじゃないかって、心臓が止まるかと思ったんだからね!」
真っ赤な顔でまくしたてるミミリアに、奏多は苦笑いして両手を上げた。
「すまんすまん、夜逃げなんてしねぇよ。ちょっと『北の城壁』まで、新しくできた店を見学に行ってたんだ」
「新しい店? そんなのどうでもいいわよ!もう、街中が大騒ぎよ!」
奏多は玲奈と顔を見合わせ、肩をすくめた。
「ミミリア、落ち着け。怒ると可愛い顔が台無しだぞ。……ほら、これをお前にやる。お前の大好物だろ?」
奏多は、悠真の店で買った『日本のチョコレート菓子(きのこの山)』の5個繋がっている小袋を差し出した。
「な、なによこれ。食べ物で釣ろうとしたって……」
言いつつ、袋を開けたミミリアの鼻がピクピクと動いた。
「……っ!? このカカオの香りと、小麦の焼けた香ばしい匂いと形……嘘、これ、『本物』じゃない!?」
ミミリアはひったくるように袋を奪うと、そのパッケージをまじまじと見つめた。
「どうして……どうしてエデンベルクに、このお菓子が……!? アンタたち、本当にどこでこれを手に入れたのよ!」
「落ち着けって。お前の弟のレオの分もある。一緒に食べろよ」
奏多が笑うと、ミミリアはハッと我に返り、慌てて袋を背後に隠した。
「……っ、分かってるわよ。でも、お菓子は夕ご飯前に食べちゃダメって、孤児院の先生も言ってたんだから。今は我慢するわ」
「そうか。じゃあミミリア、今夜はレオも呼んでうちで食っていけ。ちょうど『本物』の肉が手に入ったんだ。玲奈が作った調味料に、今、買ってきた醤油と、こっちの野菜で代用した『異世界風すき焼き』を作るつもりだ。……本物の和牛だぞ」
「わ、わぎゅう!? アンタ、正気!? あれって日本でも高級品……」
ミミリアの目が猫のように丸くなる。
「レオ! レオを呼んでこなきゃ! アイツ、最近新商品の開発でバテてたから、肉食べたらきっと元気になるわ!」
ミミリアは、さっきまでの怒りなどどこへやら、尻尾をブンブンと振り回しながら孤児院の方角へと猛ダッシュしていった。
「……元気なやつだな。さて、玲奈」
「あいつが、悠真が届けてくれたこの奇跡を、まずは俺たちが味わおう。この世界での、新しい『日常』の始まりとしてな」
宿屋『守護の炎』の厨房から、やがて醤油と砂糖、そして和牛の脂が溶け合う、アルテミシアの住人が誰一人として知らない、けれどこの上なく幸せな香りが立ち上り始めた。
三つの月が、その香りに誘われるように、宿の屋根を優しく照らしていた。




