第66話 農家さんとの打ち合わせ
エデンベルクの城壁の隣で、悠真がゴミ袋を落とし、奏多と玲奈の家族と運命の邂逅を果たす数時間前――。日本の「おみやげのながもり」では、異世界での激動とは対極にある、地味だが責任の重い「日常」が始まっていた。
日本の朝、午前7時30分。
長森悠真は、実家の居間の古びた座卓に、昨夜の商店街会合の資料を広げていた。
「……夜間パトロールか。引き受けたからには、きっちり段取りを組まないと、商店街の頑固な親父さんたちに示しがつかないな」
悠真は、矢田さんから教えられた農家側の代表者である「高橋果樹園」の高橋さんの電話番号をスマートフォンに入力した。
「もしもし、お忙しい時間にすみません。商店街の『おみやげのながもり』の長森と申します。パトロールの連絡係を仰せつかりまして……はい、よろしくお願いします」
電話越しの高橋さんの声は、収穫期を前にして神経質になっているのか、少し疲れているようだった。
「ああ、長森さんか。面倒な役を引き受けてくれて助かるよ。実は警察の方とも話したんだが、一度こっちに来てくれないか? 具体的なルートと時間を詰めたいんだ」
悠真は二つ返事で了解し、急いで着替えると、愛車ののエンジンをかけアクセルを踏んだ。店は開店時間を遅らせる予定だ。
車で15分ほど走ると、緩やかな丘陵地に広がる果樹園が見えてきた。木々には、重そうに実った桃が並んでいる。
「高橋さん、おはようございます。先程連絡した長森です。」
「おお、長森くん。わざわざ悪いね」
麦わら帽子を被り首にタオルを巻いた高橋さんは、軽トラの荷台に腰掛け、数枚の地図とスケジュール表を広げた。
「これが警察から回ってきた警戒強化のスケジュールだ。それと、これがうちで考えたパトロールの巡回ルート。……ただな、警察から釘を刺されたんだ」
高橋さんは苦笑いしながら、地図の端にある森の境界線を指差した。
「盗難も怖いが、最近はそれ以上に『野生動物』の目撃情報が増えてる。熊や猪だけじゃない、見たこともないようなデカい獣を見たっていう連中もいてね。警察からは『素人のパトロールは、犯人を捕まえることより、まずは自分の身を守ることを最優先に』と言われてるんだ」
「野生動物ですか……」
悠真は、自分が対峙したオークの巨躯を思い出した。あの世界に比べれば、日本の熊の方がまだ話が通じるかもしれない。しかし、武器を持たない商店街の店主たちにとっては、どちらも等しく脅威だ。
「分かりました。パトロールの注意事項に『絶対に一人で行動しないこと』と『強力なライトと防犯ブザーの携行』を盛り込みます」
「頼むよ。これがパトロールの割り振り表だ。商店街の皆さんで調整してくれ」
悠真は、高橋さんから受け取った詳細なスケジュールと地図を大事にクリアファイルに収めた。そこには、パトロールの詰所の位置、緊急連絡先のリスト、そして農家ごとの収穫カレンダーが書き込まれていた。
店に戻った悠真は、すぐに事務作業に取り掛かった。
お土産屋のレジカウンターの隅にノートパソコンを広げ、高橋さんから聞いた内容を「商店街回覧用」のフォーマットに反映させていく。
【〇年度 収穫期・夜間合同パトロール実施計画】
目的:収穫間近の果物の盗難防止、および地域安全の確保。
実施期間:〇月〇日~
注意事項:野生動物(熊・猪等)との遭遇を避けるため、必ず二人一組で行動し、反射材と警笛を携行すること。
連絡係:長森
「よし……これでいいはずだ」
プリントアウトした資料をバインダーに挟み、悠真は商店街の入り口にある「矢田時計店」へと向かった。
「矢田会長、お疲れ様です! 昨日のパトロールの件、農家さんと詰めてきました」
古い時計がカチカチと時を刻む店内で、会長の矢田さんは眼鏡をずらしながら資料に目を通した。
「ほう……早いな、長森くん。ほうほう、野生動物への注意喚起か。確かに最近、物騒だからな。ルートもそれほど広くなさそうだな。よし、これで回覧を回そう」
矢田さんは感心したように頷き、資料の末尾に「承認」の印鑑を押した。
「君みたいな若い者が動いてくれると、商店街も活気が出る。頼むよ、連絡係」
「ありがとうございます。精一杯やらせてもらいます!」
矢田さんの店を出ると昼近くだった。
悠真は自分の店に戻り、ようやくシャッターを上げる。
「さて、こっちの仕事が終わったら、次はアルテミシア側の商売だな」
彼は気合を入れるように頬を叩いた。
午前中は日本の農家とのパトロール調整。午後は異世界の住人たちに「日本の恩恵」を売る店主。
ただ、二つの世界を股にかける忙しなさに、悠真は少しの疲れと、それ以上の充実感を感じていた。
「三ツ谷さんのところへ肉の相談に行くのは明日にしよう。」
悠真は自動ドアのスイッチを入れた。
電子音が鳴り、ドアが開く。
外の景色は、いつの間にかエデンベルクの北の城壁沿いの路地へと切り替わっていた。
店の前に、誰かが立っている。
一人は、サングラスをかけた精悍な男だ。
その腕には、小さな女の子が抱かれている。
そしてもう一人――灰色の髪を振り乱し、壁に触れようとしている女性。
悠真はまだ、自分の身に起きている「日本の日常」と「異世界の奇跡」が、ここで繋がろうとしていることに気づいていなかった。
彼はただ、足元に置いていたゴミ袋を手に取り、いつものように「いらっしゃいませ」の看板を出し、店の前にいる人たちに声をかけようとした。




