第64話 異世界の日本
エデンベルクの朝は早い。城壁の向こう側から昇る太陽が、石造りの街並みをオレンジ色に染め上げていく。
宿屋『守護の炎』の主、奏多は起きて厨房に立っていた。昨夜の祝宴の喧騒は消え、今はただ、静謐な空気が満ちている。
奏多は魔道冷蔵庫から、昨夜ガルドたちが持ち帰った『和牛の切り落とし』のパックを取り出した。
指先でラップの感触を確かめる。この、指に吸い付くような高分子素材の弾力。アルテミシアの職人がどれほど「薄さ」を追求しても、この均一な透明度には至らない。
「……本物、なんだな」
奏多は、まな板の上に肉を置いた。玲奈が具現化した『鋭利の刃』が、肉の繊維を滑るように断ち切る。アルテミシアの魔獣の肉を扱う時には必要だった「力」がいらない。吸い込まれるような包丁の入り方に、奏多はかつて、修行時代の親方に「素材に逆らうな」と叱られた記憶を思い出していた。
彼は、玲奈が戻る前に、試作をしておきたかった。
和牛の脂が熱したフライパンの上で弾け、甘く、芳醇な香りが立ち上る。
「……っ!」
鼻腔を突くその香りに、奏多の身体が震えた。それは、新宿の喧騒でも、実家の料亭でも、日常的に漂っていた「日本の食卓」の匂いだ。
醤油と砂糖、酒。玲奈がこの世界で、自らの記憶を削るようにしてルーン文字に固定した「和の概念」の調味料。それらが本物の和牛の脂と溶け合い、完璧なハーモニーを奏でる。
一口、出来上がった時雨煮を口に運ぶ。
細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるような感覚。アルテミシアの過酷な環境で、常に張り詰めていた精神が、その一口で柔らかく解き放たれていく。
「これだ……。玲奈に、これを食わせたかったんだ」
奏多は、小皿に盛った時雨煮を大切に脇に置くと、店の入り口に掛けてあるエプロンを外した。
今日は、玲奈が商談から戻る日だ。
そして、ゼノスの家から奏音を迎えに行く日でもある。だが、その前に、どうしても行かなければならない場所があった。
北の城壁沿いを歩く奏多の足取りは、いつになく重く、そして速かった。
市場を抜け、人通りの少なくなった路地を曲がった瞬間、それは姿を現した。
「……なんだ、ありゃ」
奏多は立ち尽くした。
古びた石壁、苔むした路地。そんな異世界の風景の中に、そこだけが空間を切り取って貼り付けたような違和感を放っている。
白を基調とした外壁、鉄のシャッター。そして、看板には日本語でこう書かれていた。
『おみやげのながもり』
「……本当に、あるのかよ。こんな場所が」
奏多は、震える足で一歩ずつ近づいた。
エデンベルクの北の城壁、石造りの冷厳な風景の中に、その「異物」はあまりにも鮮やかに存在していた。
奏多は、建物の数10cm手前で足を止めた。手が、目に見えない硬質な壁に阻まれる。それは魔力による結界というよりは、物理法則そのものが「ここから先は別の世界だ」と拒絶しているような、絶対的な断絶だった。
「裏へ回っても同じか……」
奏多は苦笑した。表には確かに、自分が三十数年間見慣れてきた「日本の商店」がある。
奏多は、逸る気持ちを抑えながらゼノスの住む長屋へと向かっていた。
その脳裏には、先ほど城壁の影に目撃した『おみやげのながもり』の光景が焼き付いて離れない。シャッターの閉まったその建物は、まるで世界の継ぎ目に無理やり押し込まれた異物のように、静かに、しかし圧倒的な現実感を持ってそこに鎮座していた。
「……ユウマ。俺たちと同じ、日本から来た男」
奏多は、胸の奥で燻る複雑な感情を自覚していた。懐かしさ、期待、そして——自分たちが血の滲むような思いで築き上げてきたこの世界での「居場所」が、本物の日本の出現によって侵食されるのではないかという、微かな危惧。
ゼノスの長屋に到着すると、中から賑やかな笑い声が漏れていた。
「あ、パパ!」
扉を開けるなり、愛娘の奏音が駆け寄ってきた。その後ろでは、男の子たちがゼンマイ仕掛けの車を走らせて大騒ぎしている。
女の子たちは剣を刺して海賊が飛び出せば負けというゲームを「ワー、キャー!!」言いながら遊んでいる。
「よう、カナタ。早いお出ましだな」
ゼノスがどこか満足げな顔で現れた。悠真から贈られた「ド〇ペン」のプリントが入ったTシャツ姿だ。
「ああ。昨夜はすまなかった。……ゼノス、実はお前に聞きたいことがある」
奏多は奏音を抱き上げ、視線を鋭くした。
「あの店……『ながもり』の主人は、どんな男だった?」
ゼノスは少し考え込み、ふっと鼻で笑った。
「そうだな。一言で言えば『甘ちゃん』だ。俺たちのような、戦いの中でしか生きられねぇ連中とは、魂の作りが違う。だが……あいつの周りだけは、血の匂いがしねぇんだ。レイナの作る魔道具が『静寂』だとしたら、あいつの店は『安らぎ』そのものだったぜ」
「そうか……」
奏多は、奏音の柔らかい髪を撫でた。自分や玲奈は、この世界で生き抜くために「牙」を研いできた。だが、そのユウマという男は、牙を持たぬまま、日本という名の「盾」を背負って現れたのかもしれない。
「カナデ、これ……ゼノスおじちゃんに、もらったの」と奏多に動物の形をしたビスケットの小袋を見せた。




