第62話 概念と本物
自由都市エデンベルクに夜の帳が下りる頃、宿屋兼酒場『守護の炎』の厨房には、重厚な沈黙と『鋭利の刃』がまな板を叩く規則正しい音だけが響いていた。
店主の奏多は夜の営業に向け黙々と仕込みを続けていた。愛する妻、玲奈は販路拡大の商談で隣町まで出張中のため愛娘の奏音は、なじみのゼノスの家へ預けている。
「……六日か」
奏多はふと手を止め、窓の外に昇る三つの月を見上げた。
狼獣人のゼノス、エルフのフィアネスとリリエッタ、そしてドワーフのガルド。奏多が信頼し、狩猟を依頼した四人が消息を絶ってから六日が過ぎていた。本来、彼らほどの練達者が不覚を取るはずのない森だが、最近のアルテミシアの「澱み」は尋常ではない。
(玲奈が戻るまでに、せめて無事の知らせだけでもあればいいんだが……)
奏多は、胸の奥にある「不安」の念を押し殺すように、再び『鋭利の刃』を握った。
この異世界に来てから、彼は常に「守る」ために生きてきた。火災で喉を焼かれた玲奈、そしてこの理不尽な世界で産声を上げた奏音。日本という平穏な国から、たどり着いたこの血生臭い大地で、彼は「日常」という名の城を築こうともがいている。
その時、宿屋の重い扉が、軋んだ音を立てて開いた。
「……夜の営業はまだだ。悪いが、出直してくれ」
奏多は顔を上げずに応えた。だが、返ってきたのは聞き慣れた、しかしどこか「浮ついた」声だった。
「よぉ、カナタ! 随分と冷てぇじゃねぇか。死んだと思って葬式の準備でもしてたか?」
「ガルド……?」
顔を上げた奏多は、思わず目を疑った。
そこに立っていたのは、紛れもなく行方不明だった三人だ。だが、その格好が異常だった。
フィアネスはアルテミシアでは見たこともないサマーニット帽を深く被り、なぜかゴーグルを帽子にのせている。リリエッタは作りがしっかりしたパーカーを羽織っている。ガルドに至っては、派手なペンギンのキャラクターがプリントされた肌触りの良さそうなTシャツ姿にフィアネスと同じようにゴーグルを頭に乗せている。
「……お前ら、その格好はなんだ? どこでそんな服を……」
リーダーのフィアネスが一歩前に出た。その手には、魔法の冷気を放つはずの魔導具ではなく、プラスチック製の『クーラーボックス』が握られている。
「カナタ、説明には時間がかかる。だが、まずは謝らせてくれ。依頼されていた肉だが……予定していたものとは違うものを持ち帰った」
フィアネスがボックスを開けた瞬間、厨房に異質な「空気」が広がった。
「……っ!? これは……」
奏多の身体が硬直した。
そこにあったのは、丁寧に小分けされ、透明な膜――ラップで包まれた、鮮やかな桃色の肉。ラベルには、見間違えるはずのない文字が躍っていた。
『豚ロースブロック(国産)』『国産鶏もも肉』など。
奏多は震える手でそのパックを手に取った。
「なんで……なんでお前らが、これを持ってるんだ……?」
奏多が驚き尋ねます。
少し遅れて、ギルドの職員を伴ってゼノスが現れた。
職員がこの肉をどれでもいいので三分の一譲ってほしいと奏多に交渉を持ち掛け、奏多は銀貨30枚とふっかけると値切りもせず買って帰って行った。
「ユウマという男に会った」
そして、フィアネスが語り始めた物語は、奏多にとって、あまりにも甘美で、あまりにも残酷な「奇跡」の話だった。
霧降の深森の歪みを抜け、彼らが辿り着いたのは、戦いのない、魔法のない、しかし圧倒的な技術と優しさに満ちた国。そこで出会った『おみやげのながもり』という店の主、長森悠真。
「あいつの店は『次元の狭間』にある。俺たちはそこからアルテミシアに戻って来た。」
ガルドが鼻を鳴らす。
「カナタ、驚くなよ。あの世界じゃ、この肉が『ドン・キ〇ー〇』っていう場所に山ほど並んでやがる。誰でも、いつでも買えるんだ。オークの肉よりよっぽど美味ぇぞ」
奏多は、苦笑いしつつパック越しに伝わる肉の冷たさを感じながら、視界が滲むのを堪えていた。
それは、彼が捨ててきたはずの、かつての「当たり前」だった。
コンビニの明かり、深夜の牛丼屋、商店街の喧騒。玲奈と二人で火災から逃れ、召喚陣に飛び込んだあの夜、二度と手に入らないと諦めた「日本」という名の楽園。
「……悠真、と言ったか。その男は、今どこにいる」
「エデンベルクの、北の城壁のすぐ隣だ。あいつ、俺たちと一緒に店ごとこっちに現れやがった」
ガルドの言葉に、奏多の心臓が大きく跳ねた。
すぐそばに。自分たちの『守護の炎』から歩いて行ける距離に、日本がある。
奏多はこみ上げる衝動を抑えきれず、厨房の壁を強く叩いた。
「カナタ?」
リリエッタが心配そうに覗き込む。奏多は深く息を吐き、男としての、そして一家の主としての覚悟を固めた。
「……いいだろう。フィアネス、ガルド、ゼノス、リリエッタ。お前たちが無事でよかった。そして、この肉を持ち帰ってくれたことに感謝する」
奏多は、受け取った肉を丁寧にまな板に置いた。
アルテミシアの肉は硬く、獣の臭みが強い。それを玲奈が具現化した「和風」の概念の調味料と料理の腕で何とか食べやすく調理するのが、これまでの彼の役目だった。
だが、今ここにあるのは、日本の大地で育まれた、洗練された「食材」だ。
「今夜は、貸切りにする。お前たちの生還を祝って、そして……その『ユウマ』という男への感謝を込めて、俺ができる最高の料理を振る舞ってやる」
玲奈の作る魔道具は、記憶の中の「概念」を固定したものだ。それは確かに便利だが、本物の持つ「奥行き」にはどうしても届かない部分があった。
だが、今、彼の手元には「本物」がある。




