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第61話 帰還後 ―ゼノスの回想―

 自由都市エデンベルクの夜は更け、三つの月が不規則な影を街並みに落としていた。

 狼獣人のゼノスは長屋の自室で、騒がしくも温かい日常の中にいた。

「見て、父様! この馬、勝手に走るよ!」

 三男のルカが、悠真から贈られた『プルバックカー』を床に走らせ、目を輝かせている。後ろに引いて手を離す。ただそれだけの動作で、ゼンマイの魔力が宿っているかのように力強く進むその玩具は、木彫りの人形やレオの積み木しか知らなかった男の子たちにとって、神の造形物にも等しかった。

 ゼノスは壁に背を預け、その光景を細めた目で眺めていた。


「……プラだったか。あの素材の滑らかさはどうだ。魔力を通さずともこれほど鮮やかな色彩を保てるとはな」

 ゼノスは、かつて傭兵団を率いていた。団員は全員死んでしまい、ゼノスも今は半分引退した身として残された遺族、総勢12名の命と生活を背負っている。今日は、不在の玲奈に代わって預かっている奏多の娘、奏音を膝に乗せていた。

「パパ……」

 奏音がゼノスの指を握り、スヤスヤと寝息を立てる。その柔らかな重みを感じながら、ゼノスの意識は今日という奇跡のような一日へと飛んでいた。


 霧降の深森が歪み、空間の裂け目を抜けた先に広がっていたのは、緑の精霊が歌うような清浄な空気。そして、見たこともないほど「無防備」な男、ナガモリ・ユウマとの出会いだった。


「ユウマ……あいつは一体、何なんだ」

 ゼノスは鼻をひくつかせた。狼獣人の鋭い嗅覚が捉えた悠真の匂いは、暴力とも、魔力とも、あるいは欲望とも無縁の、ただひたすらに「穏やかな陽だまり」のようだった。


 オークが突進してきた時、悠真は腰を抜かし、ガタガタと震えていた。誰が見ても戦士ではない。守られるべき市民だ。だが、彼は震える手で、リリエッタたちを助けるために「日本」の道具を差し出した。

「戦う術を持たねぇ者が、自分より強い化け物を前にして、他人のために動ける。あれは勇気なんて高尚な言葉じゃねぇ。もっと……泥臭い『善意』だ」


 オークを仕留めた後、悠真の車に乗せられ見た日本の街。ゼノスが最も驚愕したのは、すれ違う人々の中に、自分のような獣人や、重武装の戦士が一人もいないことだった。


「あいつは言ったんだ。『ここは平和な国ですから』って。……平和。その言葉の意味を、俺はあそこで初めて理解した気がするぜ」

 誰もが武器を持たず、背後を気にせず歩いている。幼い子供たちが、一人で道を歩いて学校という場所へ通っている。


 アルテミシアでは考えられないことだ。常に魔獣の影に怯え、略奪者に備えるのが日常のこの世界。だが、日本の人々は、明日の生存を疑っていない。

「あの世界の『強さ』は、武器の鋭さじゃねぇ。誰もが誰かを信じていいという、あの圧倒的な『秩序』なんだな」

 さらにゼノスを打ちのめしたのは、『町中華』だった。

「チャーハン……あれは魔法の飯か?」

 強火で煽られた米粒の一つ一つに、卵と油、そして絶妙な塩気が絡み合う。一口食べれば、魔力さえ回復しそうな、爆発的なエネルギーが腹の底から湧き上がってきた。

「ユウマの店には、あんな贅沢な食い物や、尻を洗う魔法の椅子、そして夜を昼に変える光の筒があふれていた。それなのに、あいつは傲慢さの欠片もねぇ。『お土産にどうぞ』なんて、金貨数十枚の価値がある道具を、子供への菓子みたいに渡してきやがった」


「ゼノス、これ……すごくいい匂い」

 妻のライラが、台所から大きな皿を運んできた。

 部屋中に、スパイスの複雑な香りと、食欲を暴力的に刺激する「脂」の匂いが広がる。

 悠真から持たされた『和牛の切り落とし』と『カレールー』。それを、宿屋『守護のガーディアン』の主人、奏多からもらった野菜と共に煮込んで調理したものだ。

「さあ、みんな、ユウマ殿からいただいた『カレー』だ。冷めないうちに食べなさい」

 ゼノスの号令に、子供たちが一斉に匙を動かす。

「……っ! なにこれ、お肉が溶ける!」

「辛いけど、すごく甘い! 止まらないよ!」

 ライラも一口食べ、目を見開いて涙を浮かべた。

「ゼノス……なんて温かくて、慈愛に満ちた味。このお肉、一切の雑味がなくて、牛という獣の命の輝きだけを抽出したようです」


 ゼノスも口に運ぶ。

 雷に打たれたような衝撃だった。噛む必要がないほど柔らかな肉。そして、数十種類の香料が織りなす「カレー」という文化の深み。

「……あいつ、こんな美味いもんを日常で食ってんのか」

 食後、家族が満足げに眠りにつく中、ゼノスは長屋の軒先に出て、夜風に当たった。


 宴の最中、奏多に尋ねた時の返答が耳に残っている。

『……ああ。隠すつもりはなかったがな』

 奏多や玲奈は悠真と同じ、異世界の住人。

 玲奈がこの街で広めている、人々の生活を劇的に変える「概念」。その源泉があの世界にあるのだと、ゼノスは確信した。

 だが、不安も同時に芽生えていた。


 フィアネスが危惧していた通り、あんなにも「優しく、無防備な日本」が、この血生臭いアルテミシアと地続きになってしまったのだ。

 ギルドが欲しがった『ブルーシート』。ただの布(ゼノスにはそう見えた……)が金貨5枚になる世界。権力者たちが悠真の存在を知れば、あの「平和な土産物屋」は、瞬く間に争奪戦の舞台になるだろう。


 ゼノスは自らの鋭い爪を月光にかざした。

「奏多、玲奈。お前たちがこの街に『日常』という概念を根付かせようとしているのは分かっている。……だがな、ユウマはもっと先を行ってるぜ。あいつは、日本そのものをここに持ってきやがった」

 狼獣人の耳が、風に乗って聞こえる微かな音を捉える。

 城壁の隣に立つ『おみやげのながもり』。今はシャッターが下りているが、そこには確かに、異世界の希望が灯っている。

「ユウマ。お前は俺たちを『友人』と呼んだ。なら、俺のやるべきことは一つだ」

 ゼノスは夜空に向かって低く、しかし力強い声で誓った。

「あいつが笑って『いらっしゃいませ』と言える場所は、この狼の牙が砕けるまで、俺が守り抜く。」

 ゼノスは夜空に向かって低く、しかし力強い声で誓った。

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