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第58話 帰還後 ―リリエッタの回想―

エルフのエレンミア

挿絵(By みてみん)

 エデンベルクの三つの月が、銀色の光を石畳の街路に落としている。宿屋『守護の炎(ガーディアン)』の自室で、リリエッタは一人、鏡の前で何度も髪を整えていた。


 彼女の銀髪に留まっているのは、小さな猫のキャラクター(ハローキティ)が、ピンク色の「サクラ」という花を抱えているヘアピンだ。


 「……カワイイ」

 その言葉が、祈りのように口をついて出た。エルフの古語でも、愛らしいものを愛でる言葉は「カワイイ」と発音する。悠真が「君に似合うと思って」と選んでくれたお土産。彼の手で直接髪に挿してもらった時の、少し荒れているけれど温かかった指先の感触が、まだ肌に残っている。


 リリエッタが今着ているのは、悠真が「外は冷えるから」と貸してくれた、少し大きめの濃紺色のパーカーだ。袖を通すと、清潔なお日様のような香りが鼻をくすぐる。それはアルテミシアのどんな香油よりも、彼女の心を安らぎで満たした。


 リリエッタが初めて「日本」の欠片に触れたのは、ユウマが初めて世界の境界の裂け目にある店ごとアルテミシアに転移した日だった。たまたま通りかかり古代エルフ語に似た文字が書かれた看板と「温泉」という文字とピンク色の魔獣の御守りを見つけ購入したのが始まりだった。


 それまでの彼女にとって、未知の文明とは「脅威」か「崇拝」の対象でしかなかった。しかし、悠真の店に並んでいたのは、見たこともないほど色彩豊かな、そして圧倒的に「無害」で「愛らしい」世界だった。


「これ、カワイイね……!」

 棚に並んでいた、各地の様々な衣装を纏った猫のストラップ。アルテミシアの工芸品は、どれも歴史や魔力を誇示するような重々しさがある。だが、悠真の店の品々は違った。ただそこに在るだけで、見る者の心を解きほぐし、微笑ませるために作られている。


 悠真は、戸惑う彼女に優しく笑いかけ一生懸命話してくれた。その時の彼の眼差しが、何百年も生きるエルフの賢者たちが見せる達観したそれではなく、等身大の、陽だまりのような温かさを持っていたことに、彼女は初めて胸の奥が騒ぐのを感じた。


 二度目の邂逅は、あまりにも劇的だった。

 変質した森、血の匂い、そして絶体絶命の悠真。

「ユウマ!大丈夫?!」

 彼を襲おうとするオークを目にした瞬間、リリエッタの心からは恐怖が消え、代わりに「彼を失いたくない」という、自分でも驚くほど激しい衝動が突き上げた。


 エルフは本来、声を荒らげることを好まない。精霊と対話するように、囁くように歌うのが彼らの在り方だ。しかし、あの時、彼女は喉が張り裂けんばかりの声を張り上げた。


「ユウマ!逃げるのよ!!」

 その声は、二つの世界を分かつ壁を突き破った。駆け寄った彼女を、悠真は信じられないものを見るような目で見つめ、そして安堵したように笑った。

「リリエッタ……助けに来てくれたのか」

 その一言だけで、彼女の戦いは報われた気がした。


 アルテミシアに戻るため、悠真のトラックに乗せられ、日本の街を抜けたあの時間。

 窓の外を流れる景色は、どんな俊足の魔獣よりも速く、それでいて揺れ一つない。

「……魔法じゃないなんて信じられません」

「これはただの機械だよ。でも、遠くヘ速く動ける人間の知恵なんだ」

 悠真の言葉には、自然や精霊への畏怖とは別の、人間という種族への深い信頼がこもっていた。

 

 途中で立ち寄った「コンビニエンスストア」という場所も、彼女にとっては聖域のような美しさだった。夜だというのに、太陽が降り注いでいるかのような眩い光。

何よりも驚いたのは「トイレ」だった。

悠真から教わった通りに腰を下ろすと、椅子が温かい。

「ひゃっ……!」

 思わず声を上げたが、その後の至れり尽くせりの機能に、彼女は頬を赤らめずにはいられなかった。

「ユウマさん、あの……あの椅子は、精霊が住んでいるのですか?」

「あはは、精霊じゃないよ。みんなが気持ちよく使えるように、工夫されてるだけさ」

 その「工夫」の積み重ねが、この世界の平和を作っているのだと、リリエッタは悟った。


 特に、悠真が手渡してくれた『イチゴ大福』。

「これ、皆んなの口に合うか分からないけど」

 おそるおそる口に運ぶと、柔らかな餅の食感の向こうから、鮮烈な果実の酸味と、上品な「あんこ」の甘みが押し寄せた。

(……なんて瑞々しい魔法なの。この白い包みの中に、春の訪れが閉じ込められているみたい)

 さらに、ペットボトルの『緑茶』。蓋を開けた瞬間に広がる香りは、森の奥深くで精霊たちが汲み上げる朝露のような清涼感があった。

「……苦い。でも、その後からやってくる爽やかさが、心を洗ってくれるようです」

 一口飲むたびに、異世界での緊張が解けていくのが分かった。


 けれど、一つだけ、今思い出しても胸がキュッと締め付けられるような「寂しさ」があった。

 それは、フィアネスと悠真が連れ立って、買い出しに向かった時のこと。

「リリエッタはこの店で出前が来たらお金を払って欲しいんだ。すぐに戻るから」

 悠真はそう言って、フィアネスと一緒に買い物に行ってしまった。

(……私も一緒に行きたかった。ユウマさんが何を選んで、どんな風に笑って買い物をしているのか、隣で見ていたかったのに)

 フィアネスが羨ましくて仕方がなかった。自分だけが、悠真の世界から切り離されて残されたような疎外感。二人が戻ってきたとき、フィアネスが「ユウマの選ぶ基準は合理的だ」などと親しげに話しているのを見て、彼女は少しだけ唇を噛んだのだ。


 そして、忘れられない「町中華」の味。

 運ばれてきた『酢豚』を一口食べた瞬間、リリエッタの味覚に革命が起きた。

「美味しい……っ。酸っぱいのに、甘くて、お肉がこんなに柔らかいなんて」

 アルテミシアの料理は、素材を焼くか煮るかの単調なものが多い。だが、日本の料理は、いくつもの味が複雑に重なり合い、最後には一つの完璧なハーモニーを奏でている。

「このパイナップルという果実が、お肉の脂を爽やかに変えて……なんて贅沢な魔法なの」

 夢中で食べる彼女を、悠真は眩しそうに見つめていた。


 そう言えば出前を届けに来た人が、私を見て、驚いたように声を漏らした。

「うわっ、モデルさん? めっちゃキレイな子だなぁ」

『キレイ』と言う言葉だけは分かった。

 アルテミシアでは、エルフは「神聖な存在」として、あるいは「希少な資源」として見られることが多い。だが、その人が向けたのは、純粋に一人の女性としての美しさを讃える言葉だと理解できたリリエッタは顔を伏せ、耳まで赤くなった。


 悠真が少し慌てて追い返してくれたが、その時の彼の少し独占欲を感じさせるような横顔が、彼女には何よりも嬉しかった。


 だからこそ、その後で悠真が「君のために選んだんだ」とこのキティのヘアピンをくれた時、彼女の胸のモヤモヤは、一瞬でいちご大福のように甘い幸福感へと溶けていった。

 「エレンミア、これ……ユウマから。渡してくれと頼まれたお土産のお菓子です。食べすぎると虫歯になるので寝る前はキチンと歯を磨くようにと言付けされました。」

 リリエッタは、パーカーのポケットから悠真から託された『いちごミルクキャンディー』の袋を、同室の母に手渡した。

 キャンディーを頬張るエレンミアの瞳が、驚愕に丸くなる。

「……リリエッタ、これはすごいわ。ミルクのコクと果実の酸味が、魔法の術式のように組み合わさっている。この『日本』という国は、食の魔術師の巣窟なの?」

「……はい。そして、とても温かくて、優しい場所でした」

 リリエッタはパーカーのフードを深く被り、鼻先を生地に埋めた。


 (ユウマ。あなたは今、何をしているの?)

 城壁のすぐ隣に、またあのお店は現れてくれるだろうか。

 それとも、あの優しくて不思議な店主は、夢のように消えてしまうのだろうか。

 リリエッタは鏡の中のハローキティをそっと撫でた。

 パーカーの温もり。

 そして、髪に触れた彼の指。

 たとえ世界が違っても、このパーカーの温もりが消えないうちに、もう一度彼に伝えたい。

「ユウマ、あなたの住む世界は……そして、あなた自身が、とても『カワイイ』です」

 エデンベルクの三つの月が、銀色の光で彼女を包む。

 その夜、銀髪の乙女は、かつてないほど深く、甘い「いちごミルク」のような夢の中に沈んでいった。悠真から教わった「歯磨き」を、いつになく丁寧に行い、サクラを抱いたキティちゃんを枕元に置いて。

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