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第56話 帰還後 ―フィアネスの回想―

 自由都市エデンベルクの夜は、アルテミシアの他国に比べれば活気に満ちている。だが、宿屋『守護の炎(ガーディアン)』の自室に一人佇むフィアネスの瞳には、今のこの街の喧騒さえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられていた。


 窓の外では、三つの月が不規則な軌道を描き、銀色の光を石畳に落としている。

 フィアネスは、卓の上に置かれた「戦利品」を見つめた。ギルドに納品したオークの魔石でも、換金待ちの素材でもない。彼が最も大切に、割れ物を扱うような手つきで持ち帰ったのは、あの奇妙で穏やかな異邦人、ナガモリ・ユウマから贈られた「日本の欠片」だった。


 「ナガモリ・ユウマ……。彼は、自分が歩く奇跡そのものであることに、最後まで気づいていないようだったな」

 フィアネスは独り言ち、静かに椅子へ腰を下ろした。

 彼の脳裏には、まだ鮮明に「日本」の光景が焼き付いている。


 アルテミシアの森が持つ、常に何者かに狙われているような張り詰めた殺気。それとは対極にある、あの世界の驚くべき「静寂」と「平穏」。

 悠真の店で振る舞われたティーバッグの緑茶を思い出す。紙の袋にお湯を注ぐ。たったそれだけの儀式で、エルフの聖域、森の深淵で数百年をかけて育てられた新緑の雫に匹敵する、澄み渡った香りが立ち上った。


「ただの安物ですよ」

 そう言って、日焼けした顔で笑っていた悠真の表情。

 フィアネスにとって、それは傲慢さとは無縁の、あまりにも無邪気な「豊かさ」の証明だった。高度に精錬された魔法薬を、朝の挨拶代わりに飲み干すような……そんな、計り知れない文明の重みが、あの青年には宿っていた。


 フィアネスは鞄から、一つの道具を取り出した。

 悠真に勧められ、この宿の主人への贈り物として購入した「サングラス」だ。

「これを着ければ、強い光の点滅中でも目は疲れないし、かっこいいでしょ?」

 悠真はそう言ってサムズアップをしてみせた。


 アルテミシアにおいて、視界の明度を調整する魔道具は、熟練の付与術師が何ヶ月もかけて作成する高価な代物だ。だが、この「サングラス」とやらは驚くほど軽く、レンズに歪み一つない。フレームの曲線には、職人の手仕事というよりは、理知的な法則に基づいた「完璧な均一性」があった。


 フィアネスはそのレンズ越しに、月明かりに照らされた部屋を見た。

 色彩は沈むが、輪郭は驚くほど鋭利になる。

「悠真は異界の住人……。彼はなぜ、これほどまでに洗練された文明の恩寵を浴びながら、あれほどまでに無防備でいられるのか。……いや、信じているのだろうな。『世界は、優しさでできている』と」


 フィアネスは魔道ポットで沸かしたお湯を用意し、慎重に準備を始めた。

 次に手にしたのは、インスタントコーヒーという名の黒い粉末だ。

「一口目は、驚くほど苦いですよ。でも、この砂糖を入れると、味が劇的に変わるんです」

 そう教えてくれた悠真の言葉を反芻しながら、粉をカップに落とす。お湯を注いだ瞬間、部屋の中に、これまでの人生で嗅いだことのない、強烈で芳醇な、そしてどこか孤独を感じさせる香りが広がった。


 精霊魔法使いとして、フィアネスは万物の「気」に敏感だ。

 この黒い飲み物からは、大地の熱気と、それを加工した人々の粘り強い意志が感じられた。

 悠真に言われた通り、コーヒーシュガーの結晶を一つ、二つと落とす。

 茶褐色の液体の中で、透明な結晶が溶けていく様は、まるで土の精霊が自らの命を凝縮させていくかのように美しかった。

 一口、含んでみる。

「……っ」

 舌を刺すような強烈な苦味が、神経を覚醒させる。だが、その直後に、計算し尽くされた絶妙な甘みが追いかけてきて、苦味を深いコクへと昇華させた。


 美味い、と思った。と同時に、言いようのない恐怖が背筋を伝った。

 この一杯の飲み物に込められた「技術」と「思想」。

 悠真のような善良な市民が、これほど完成された嗜好品を日常として享受している世界。

「ユウマは、我々を『客人』としてではなく、『友人』として扱った。あの無邪気なまでの善意……」

 フィアネスはカップを握る手に力を込めた。

 このアルテミシアは、澱んでいる。

 ナセル領の不穏な動き、森から消えた魔獣、そして空間の裂け目。

 悠真の持つあの清らかな「日常」が、この世界の泥濘ぬかるみに触れたとき、どう変質してしまうのか。権力者たちが彼の価値に気づいたとき、あの穏やかな土産物屋は、ただの「兵器庫」や「金鉱」へと成り下がってしまうのではないか。


 リリエッタは、すでに悠真に淡い思慕に近い感情を抱いている。ガルドやゼノスも、彼の持ってきた「文明の利器」に魂を奪われかけている。

 だが、一番強く揺さぶられているのは、自分自身だとフィアネスは自覚していた。

 「我々が彼を守らねばならない。……彼を、あの『普通』のままでいさせるために」

 フィアネスは、最後の一口を飲み干した。

 口の中に残る苦味は、もはや嫌なものではなかった。それは、異界に置いてきた友人との絆を確認するための、尊い儀式の味だった。


守護の炎(ガーディアン)』の食堂からは、ガルドたちが日本の肉を囲んで大騒ぎしている声が聞こえてくる。

 宿の主人カナタが、ゼノスから貰った日本の調味料を使って何やら新しい料理を作ると言っていた。

 数日後には、レイナという名の魔女が戻り、この事態を知ることになるだろう。


 エデンベルクの夜空には、三つの月が悠然と輝いている。

 だがフィアネスには、その月よりも遠い場所にある、電光掲示板のネオンや、自動販売機の明かり、そして「おみやげのながもり」の温かい照明が、まぶたの裏に焼き付いて離れなかった。

 「今日はまだ、ユウマの好意に甘え、この苦くも甘い茶を愉しむとしよう」

 フィアネスは静かに目を閉じた。

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