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第53話 霧降の深森

 エデンベルクの北方に広がる『霧降(きりふり)の深森』。

 普段であれば、飢えた獣の咆哮や魔獣の気配が絶えないその場所は今、不気味なほどの静寂に支配されていた。

「……鼻が曲がりそうだぜ。獣の匂いがこれっぽっちもしねぇ。代わりに、焦げたような……いや、雨上がりみてぇな妙な匂いが立ち込めてやがる」

 狼獣人のゼノスが鋭い鼻をひくつかせ、低く唸る。その全身の毛が、本能的な警戒で逆立っていた。


「俺の斧が退屈で欠伸あくびしてやがるぜ。魔物の野郎ども、一体どこへ隠れやがった」

 ドワーフのガルドが、自慢の大斧を肩に担ぎ直し、周囲を威嚇するように睨みつける。

 一行の先頭を行くのは、銀髪をなびかせるエルフの精霊魔法使いフィアネスだ。彼は森の変貌を肌で感じ取り、その表情を険しくさせていた。


「フィアネス、精霊たちの声が聞こえません。みんな怯えて、どこかへ逃げてしまったみたい……」

 不安げに囁くのは、同じくエルフの少女、リリエッタである。

「……風が止まっている。いや、時間そのものが淀んでいるのか?」

 フィアネスが魔道の杖を強く握りしめた、その時だった。


 朝の柔らかな光が差し込んでいたはずの森が、一瞬にして濃厚な紫色の霧に包み込まれた。

「おい、何だありゃあ!」

 ガルドの叫びが響く。見上げれば、中天にあったはずの太陽が恐ろしい速度で地平線へと沈んでいく。空は茜色を通り越し、血のようにどす黒い不自然な「夕暮れ」へと変貌を遂げていた。


 パキィィィィィン!

 空間そのものがガラスのように砕け散る、硬質な音が鼓動を打つ。

 四人が目を見開いた瞬間、周囲の景色は一変した。

 空を覆っていた巨木は、不自然に整えられた細い杉の木へと変わり、足元のふかふかとした腐葉土は、アスファルトの残骸が混じる硬い砂利道へと姿を変えていた。

「……ここは何処だ? アルテミシアの森じゃねぇぞ」

 ゼノスが呆然と呟く。


 そこには、彼らが今まで一度も目にしたことがない形状の板が立っていた。

『この先、私有地につき立入禁止』

 書かれている文字の意味は分からなかったが、リリエッタとフィアネスには見覚えがあった。それは、エルフの長老から教わった、失われたはずの「古代語」に酷似した意匠だったのだ。


 その時、リリエッタの鋭い耳が、大気を震わせる異音を捉えた。

「……木々がなぎ倒される音がします。いえ、何かが暴れている音! 誰かが襲われているわ!」

「行くぞ!」

 ゼノスの鋭い号令とともに、四人は茂みを蹴立てて駆け出した。


 視界が開けた先には、奇妙な服装――作業服に身を包んだ一人の青年がいた。


 長森悠真(ながもりゆうま)だ。

 彼は地元の山で草刈り作業を終えた直後だった。電動刈払機のバッテリーの忘れ物を探していた彼は、突如として森の中に現れた「巨大な豚の化け物」――オークに遭遇し、逃げ場を失っていた。


「あ、あああ……っ!」

 悠真の喉から、ひきつった悲鳴が漏れる。

「うそだろ……なんで、こんなものが日本に……」

 地響きを立てて突進してくる醜悪な巨躯。その圧倒的な殺意を前に、悠真の足はすくみ、近くの木陰に隠れるのが精一杯だった。死の予感に震え、目を閉じたその時。

「ユウマ! 大丈夫!?」

 凛とした声が悠真の鼓膜を叩いた。


 恐る恐る目を開けた悠真は、その光景に息を呑んだ。

 そこには、輝く銀髪をなびかせたエルフの少女、リリエッタが立っていたのだ。彼女とは悠真の能力、世界と世界を結びつけ物理的な障壁を越える力。その力で店を裂け目の向こう側の 異世界(アルテミシア)へと引き寄せた際の店の1番最初のお客さんだった。


 彼女は木の幹を盾にしながら、しなやかな動作で背中の弓を構え、その瞳には怪物への強い敵意を宿していた。

 エデンベルクの四人の冒険者と、土産物屋の店主・長森悠真。

 交わるはずのない二つの世界の運命が、この日本の山林で、最悪の怪物を前にして静かに結びついた。 

53話で第二章は終了になります。

第三章は他の作品更新後になります。

皆様よろしくお願いします。

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