第114話 日本の日常
悠真は、すっかり伸びてしまったカップ麺の最後の一本を啜り終えると、容器をゴミ箱へ放り込んだ。青汁のパックを一気に飲み干し、口の中に残る独特の青臭さを消すように深く息を吐く。
「……さて、一仕事するか」
自分に気合を入れるように呟き、前掛けの紐をギュッと締め直した。その動作一つにも、以前のような「惰性」はない。異世界の戦場を駆け抜けた身体には、日常の何気ない作業さえも、ある種の規律を持って刻み込まれているようだった。
カウンターの奥にある『龍の額縁鏡』を横目で盗み見る。
鏡の向こう側のエデンベルクは、不気味な紫の霧が嘘のように晴れ渡り、穏やかな午後の陽光が石畳を照らしていた。衛兵たちが壊れた外壁の修復にあたり、子供たちが瓦礫の隙間で魔石の欠片を探して遊んでいる。
どうやら、あちらの世界も一時の平穏を取り戻したようだ。バルガスやリリエッタ、そして奏多たちも、それぞれの日常へと戻りつつあるのだろう。
「明日は店の定休日だしな……」
まずは、和央さんの店に行って、借りている『電動釘打ち機』を返さなければならない。異世界の魔人の泥がついたまま返すわけにはいかないから、徹底的に清掃とメンテを済ませるつもりだ。それから、奏多さんのところへも顔を出そう。戦いの後、食料の備蓄がどうなっているか確認し、次の「仕入れ」の相談も必要だ。ギルドのバルガスからも「必要だと思うものがあれば持ってこい」と言われている。
(……それと)
悠真はスマートフォンの画面を点灯させた。待ち受け画面には、恋人の美咲と二人で撮った写真。
最近、エデンベルクの危機や商店街のパトロール、さらには美紀ちゃんとの仕入れ交渉に追われ、彼女との時間がおざなりになっていた。
『今夜、もし空いてたら会えないかな? 久しぶりに夕飯でもどう?』
短いメッセージを送り、返信を待たずに品出しを始めた。
美紀ちゃんが嵐のように置いていった『抹茶わらび餅ゼリー』と『缶の甘酒』など商品を並べていく。
「いらっしゃいませ!」
自動ドアが開き、近所の年配の女性が入ってきた。
「あら、長森さん。なんだか今日はお店が明るいわね。配置を変えたの?」
「ええ、夏に向けて涼しげな商品を揃えてみたんです。この『抹茶わらび餅』、冷やして食べると最高ですよ」
「まあ、そう。じゃあ4個もらおうかしら。孫が来るのよ」
何気ない会話。数円、数十円の利益。
エデンベルクで万単位の金貨を動かす高揚感とは比べものにならないほど地味な商売だが、悠真はこの「手触りのある日常」を愛おしく感じていた。一本のジュースやお菓子を売りお客を笑顔にする。その積み重ねが、この平和な商店街の風景を作っているのだ。
夕刻になり、街路灯がポツポツと灯り始める頃、スマートフォンが震えた。
美咲からの返信だった。
『今夜ね! 悠真最近忙しそうだったから心配してたんだ。どこか行きたいお店ある?』
その優しい文面に、悠真の口元が自然と綻んだ。
(どこか……。そうだな。あっちの世界じゃ食べられないような、美味しいパスタかお寿司がいいかな。……それとも、居酒屋にするか)
閉店の準備を進めながら、悠真はふと考えた。
自分は今、二つの世界の間に立っている。
一方は、魔法と魔物が跋扈し、生命のやり取りが日常の隣り合わせにあるアルテミシア。
もう一方は、便利な道具と美味しい食べ物に溢れ、静かな時間が流れる日本。
一見、全く無関係に見えるこの二つの世界は、悠真という「お土産屋」を通じて、確かに影響を与え合っている。日本の釘打ち機が異世界の魔人を討ち、異世界の金貨が日本の商店街を活性化させる一助となる。
「……明日、和央さんにはなんて言おうかな」
『ものすごい固い木材に打ち込んじゃって』とでも言うか。あるいは、『ちょっと特殊な環境で使った』と正直に(?)話すか。和央さんのことだ、きっと「面白ければいい」と笑って流してくれるだろうが、それでも感謝の気持ちは、一番いい酒と一緒に届けたい。
シャッターを下ろし、店内の照明を落とす。
最後に残った暗闇の中で、額縁鏡だけが淡い光を放っている。
悠真は鏡に向かって、心の中で小さく呟いた。
「また明日な、エデンベルク。……明日は、こっちの日常をしっかり満喫させてもらうよ」
店の裏口から外に出ると、初夏の夜風が心地よく火照った頬を撫でた。
デートのこと、和央さんへのこと、そして商店街のパトロールのこと。
やるべきことは山積みだが、悠真の足取りは軽かった。
二つの世界を守り、二つの日常を生きる。
それは、世界でたった一人、彼だけに許された、最高に贅沢な「お土産屋」の仕事なのだから。




