第113話 ヒノキ薬局
高橋さんとの打ち合わせを終え、果樹園の坂を下りてきた悠真は、商店街にある「ヒノキ薬局」の自動ドアをくぐった。
店内に入ると、冷房の涼しさと共に、湿布薬と洗剤が混ざり合ったようなドラッグストア独特の匂いが鼻をくすぐる。ここは悠真が子供の頃、個人経営の「木南薬局」という名前だった場所だ。
当時は木製の棚に茶色の薬瓶が並び、奥には白衣を着た気難しそうな先代の店主が座っていたものだが、今は全国チェーンのフランチャイズ(FC)となり、明るいLED照明の下で冷凍食品から生鮮食品、日用雑貨までが所狭しと並んでいる。
駅前にあったコンビニが数年前に撤退して以来、この「ヒノキ薬局」は、悠真のような独身男性や、近所の高齢者たちにとっての生命線となっていた。
「いらっしゃいませー」
レジカウンターから聞こえてきたのは、聞き覚えのある落ち着いた声だ。悠真がカゴを持ち、おにぎりコーナーへ向かおうとすると、品出しをしていた男が顔を上げた。
「おっ、悠真君。久しぶり」
「……健一? なんだ、今日は店に出てるのか」
そこにいたのは、この店の店長であり、悠真の妹・希実の同級生でもある木南健一だった。彼は薬剤師の資格を持ち、保健所での公務にもあたっているが、残りの時間はこうして実家の薬局を受け継いだFC店の運営を取り仕切っている。
「ああ、保健所の方は午前中で切り上げてきたんだ。午後はこっちの在庫管理があってね。……なんだ、昼飯?」
「ああ。夜間パトロールの責任者のところへ行ってたから、少し遅くなっちゃって」
悠真は棚からおかかのおにぎりとツナマヨ、それからカップ麺の『天ぷらそば』を手に取った。健一はそれを見て、苦笑いしながら口を開く。
「相変わらずの食生活だね。少しは野菜も摂らないと。希実は最近、うちの保健所の広報イベントにも結衣ちゃんと顔を出してくれて助かってるけど」
「希実は希実で、今は旦那は海外出張してるし、子育ても忙しいだろうし……。じゃあ青汁のパック飲料も買うかな。健一の顔を見たら、少し健康に気を使わなきゃいけない気がしてきた」
「ははは、毎度あり。まあ、青汁飲んでもそのカップ麺のスープを飲まないこと」
健一は手際よくレジを打ちながら、ふと悠真の腕に目を留めた。
「……悠真君、その腕。さっきから気になってたんだけど、どうしたんだ? 日焼けにしては妙に赤黒いし、なんだか変な腫れ方をしてるように見えるけど」
「えっ……」
悠真は慌てて作業着の袖をまくって隠した。そこには、昨夜エデンベルクで魔人が放った漆黒の泥を浴びた際、キティちゃんの結界が弾ききれなかった極微量の「深淵の残り香」が、小さな痣のように残っていた。
「いや、なんでもないよ。昨日、ちょっと古い資材を片付けてる時に、変な薬品か何かに触れたのかも」
「……薬品? もし痒みや熱が出るようならすぐに医者に行った方法が良いよ。あと、パトロールの件、俺も参加させてもらうから」
「助かるよ、健一。頼りにしてるからな」
悠真はおにぎりと青汁、カップ麺の入った袋を提げて店を出た。健一のような「専門家」がこの街にいてくれることは悠真にとって心強い。
店に戻った悠真は、カウンターの奥で一人、静かにおにぎりを頬張った。
カップ麺にお湯を注ぎ、三分待っていると、ふと、入り口の自動ドアが開き、チャイムが鳴った。
「こんにちは……」
入ってきたのは、現代日本の女子高生の制服を着た少女だった。彼女は、時々この店にお菓子などを買いに来る近所の女の子だ。
少女は棚にあった「地域限定キティちゃん」のストラップの在庫があるか悠真に聞いてきた。
「これ、最近ネットで『魔除けになる』って噂になってるんですよ。私も一個、欲しかったんです売り切れですか?」
「……ああ、そうなんだ。店の在庫も売れちゃて、注文してもなかなか入荷しないって言われてね。本当に「魔猫」は効くからね」
悠真が真顔で言うと、少女は少し驚いたように笑った。
「最近なんだか面白いですね。前はもっと……こう、元気がないというか、おじさん臭かったのに」
「おいおい、おじさんは余計だよ。はい、おまけにこの『一口ようかん』も持っていきな。」
少女を送り出した後、悠真は再び椅子に座り、天井を見上げた
悠真は、のびたカップ麺を食べ終え容器をゴミ箱に捨てると、再び前掛けの紐を締め直した。




