剣道と恋
週末の稽古の日。道場の畳のにおいが鼻をつき、乾いた木の床板が足裏に伝わる。
防具の面を締めると、ぎゅっと顎が押さえつけられ、視界が狭まった。その暗がりの中で、俺の心臓はドクン、ドクンと不規則に跳ねていた。
竹刀を両手で握った瞬間――。
なぜか頭に浮かんだのは、サキの顔だった。
あの小さな手。初めて触れたときの、ふわりとした温もり。
不意に笑ったときの、無邪気でまぶしい笑顔。
「……くそ」
集中しなきゃと思っても、頭からサキのことが離れない。むしろ竹刀を構えるたび、踏み込むたびにその存在感が濃くなる。
「メェーーン!」
気合とともに踏み込んだ一撃。
竹刀が相手の面を捉えたと思った瞬間、全身に稲妻が走ったような感覚が広がった。
相手の竹刀が先にこちらの面にズバーンとあたったのだ。
パーンと響く音。足の裏から伝わる衝撃。汗が滲む身体の奥で、何かが熱く爆ぜた。
あ、そうか!
剣道って、ただ勝つためだけのものじゃない。 打ち合う竹刀に、自分の迷いや弱さや願いをぶつけることなんだ。
恋も、きっと同じだ。
怖い。傷つくのは嫌だ。逃げてしまいたくなる。
でも、思いをぶつけなきゃ、何も始まらない。何も伝わらない。
稽古が終わるころ、道場の窓から差し込む光は赤く染まり、空気は少しひんやりしていた。
面を外すと、汗で前髪が額に張りついて、息は荒く、胸はまだドクドクと音を立てている。
竹刀を肩に担ぎ、道場を出ると、夕焼けの空が広がっていた。
オレンジと紫が溶け合った空は、どこか不安と希望を同時に抱え込んだような色をしていて、俺の胸のざわめきと重なった。
恋に揺れる気持ち。将来への不安。
どれもまだ答えは出せない。
でもその全部に、正面から向き合わなきゃいけないんだろう。
「……よし」
小さく声に出す。竹刀の柄を握る手に、自然と力がこもった。
「俺、もう逃げない」
サキへの気持ちも。
将来のことも。
勉強も、友達との関係も、全部。
怖くても、情けなくても、真正面から受け止める。
それができたとき、俺はきっと今より少しだけ強くなれる。
まだ何も形にはなっていない。答えなんてどこにもない。
それでも、胸の奥に――小さな火が、ぽっと灯った気がした。
消えそうで、でも確かに燃えている、頼りないけど温かい火。
その火を絶やさないように、歩いていこう。
夕暮れの空の下、俺はそう心に誓った。




