わたしたちの思春期
古書店に着くと、埃っぽい空気と古い紙の匂いが私たちを迎えた。
聡さんが店主と軽く挨拶を交わし、「新入荷はあっちだよ」と棚を指さす。
「どんな本が入ったのかな」
私が呟くと、彼が笑って肩をすくめた。
「さあね。店主が『お前が好きそうなやつだ』って呼び出すくらいなんだ。期待してる」
二人で棚の間を歩きながら、本の背表紙を眺める。
私は児童文学のコーナーで懐かしい表紙を見つけ、思わず手に取った。
「これ、子供の頃に読んだやつだ。古い本を開いたら魔法の世界に入っちゃう話。」
「へえ、君らしいね。俺はこっちかな」
聡さんが美術書の棚から分厚い本を引き抜く。
表紙には桜のスケッチが描かれていて、彼の目が少し遠くなった。
「桜。よく描いてた」
その言葉に、私は栞の模様を思い出した。
「あの栞の葉っぱの模様だよね?」
私が尋ねると、彼が小さく頷いた。
「高校の美術部で、作った。前話したの覚えててくれたんだ」
彼の声は穏やかで、どこか懐かしそうだった。
私は少し勇気を出して聞いて
「初恋の人、まだ気になるの?」
聡さんが一瞬驚いたように私を見て、それから柔らかく笑った。
「あ、そういうんじゃ、未練とかじゃないんだ。ただの淡い思い出。高校生の頃って、何でもキラキラして見えるだろ? 彼女とはスケッチしたり、笑ったりしてた。なんていうか、青春を思い出すおじさんってやつだな。」
彼の瞳に影はなく、ただ優しさが浮かんでいた。
「彼女が留学してからは、連絡も途絶えてね。今はただ、楽しかったなって思うだけ。君といると、あの頃の青春が蘇る。でも、過去を取り戻したいわけじゃない。君といる今が、ただ楽しいんだ」
聡さんの声に、未練はなく、ただ穏やかな確信があった。
私はその言葉に、なぜかホッとした。
「そっか。なんか、安心した」
「安心?」
「うん。聡さんが今、ここにいる理由っていうか……。……その、気持ちを確かめたかった、というか。」
言葉がポロリと出てしまって、慌てて本に目を戻した。
聡さんが小さく笑う声が聞こえて、大人の余裕を感じてさらに気恥ずかしくなる。
何言ってるんだ私。
その時、彼が店主に勧められた、桜の本を手に開き、それを見つけて息を止めた。
「これ……まさか」
箱には、古びた金属製の栞。「K」の文字が彫られている。私の持つ「S」の対だ。
「彼女が留学先で売ったのか、誰かが持っていたのか……わからないけれど、戻ってきたんだね」
聡さんの声は静かで、どこか安堵の色を帯びていた。私はその栞を手に取る。
「私、持ってていい?」
彼は驚いたように私を見た。
「え?」
「聡さんの大切なもの、私が預かりたい。ずっと、あなたのそばにいたいから」
言葉が勝手に溢れ出し、顔が熱くなる。
自分でも驚くほど、素直な気持ちが溢れ出ていた。
彼は少し黙り込み、それから、まるで花が咲いたような笑顔を見せた。
「そっか。じゃあ、俺も君のそばにいたいって言ったら、どうする?」
私の心臓が跳ね上がり、息が詰まる。
「……嬉しい」
彼の手がそっと私の手を握り、冷たい栞が二人の間で温かくなった。
その瞬間、古書店の薄暗い灯りが彼の瞳に映り、吸い込まれそうな深さに胸が震えた。
「コムギちゃん、君といると、昔の自分を思い出すんだ。あの頃、世界はキラキラと輝いて見えた。君といると、そんな景色が蘇るんだ」
彼の声が低く響き、私の心に深く染み渡る。
「店だけじゃなく、俺の居場所になってくれないかな。俺と……」
彼は少しだけ躊躇し、それから、覚悟を決めたように言った。
「俺と、付き合ってください」
聡さんの言葉は、魔法の呪文のようだった。
私の心臓は、今にも飛び出してしまいそうなほど激しく鼓動を打つ。
彼の瞳に映る、少し緊張した表情。
そのすべてが、私にとってかけがえのない宝物のように思えた。
「私も、聡さんと一緒にいたい。今も、これからも」
言葉が自然にこぼれ、彼の指が私の手を少し強く握りしめた。その温かさが、私の心の隙間を埋めていく。
遅れてきた、けれど、今までで一番鮮やかな感情。
それは、まるで長い冬を越え、ようやく訪れた春の陽だまりのようだった。
初めての親への反抗、自己の確立、そしてーー恋心。
「こんなちゃんとした告白、なんだか照れくさいな。遅れてきた思春期みたいで」
聡さんがはにかむ。
その表情は、普段の落ち着いた彼とは少し違って、年相応の青年のようだった。
「ううん、すごくいい。今の聡さんだから、こんなに胸に響くんだと思う」
私も微笑み返し、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
古書店の薄暗い灯りが、私たちを優しく包み込む。
埃っぽい空気と古紙の匂い。
けれど、それさえも、今は愛おしく思える。
物語の中だけじゃない。
私は、自分の足で立ち、自分の居場所を見つけられた。
二枚の栞、コースター、桜の絵が描かれた古い絵本。どれも私の宝物になった。
私たちは、ゆっくりと古書店を後にした。
いつも美味しいコーヒーを淹れてくれる彼の指は、私の手に優しく絡みつき、温かさを増していく。
物語の中だけじゃなくて、ここで、私だけの幸せを見つけよう。
聡さんの手が、私の指に絡むたび、その決意が現実になる気がした。
春の風が、私の遅れてきた思春期を優しく祝福しているようだった。