彼の、私の、誰かの居場所
店に入ると、いつものコーヒーの香りが私を包み込んだ。
その香りは、まるで聡さんの優しさを思い出させるようで、私の心を安らぎで満たしていく。
カウンターには見慣れないおじさんが座っていて、聡さんと楽しそうに笑い合っている。
「ここにいると、何故か家が恋しくなるんだ。家みたいな温かくて、それでいてどこか懐かしい、そんな居心地の良さが、逆にね。自分の時間を、もっと大事にしたくなるんだ」
「ゆっくりしていっていいのに」
「ここは僕の大切な場所だ。また来るよ」
おじさんはカップを置くと、名残惜しそうに立ち上がり、しかし満足げな表情で店を後にした。
「不思議なお客さんだね」
私がそう言うと聡さんがこちらを見た。
その瞳は、いつもの穏やかさに、ほんの少しの憂いを堪えているように見えた。
「ここに来るお客様は皆、そうやってすぐ帰る。売り上げ的には助かってるんだけど。俺はちょっと……これはさみしいって言うのかもな。」
彼の弱さを垣間見て、不謹慎にもドキッとする。
彼の瞳がいつもより近く感じて、五感が鋭く感じる。
彼の長いまつ毛やキリッとした眉毛まで繊細に見え、コーヒーを蒸留する煙の匂いが脳まで響く。
「わたしは…居ます」
「ああ、そうしてくれると嬉しい」
私は慌てて目を逸らし、いつもの席に座り、本を取り出した。
栞を挟んだページを開くと、物語の風景が鮮やかに広がるーーーはずだった。
今日は、本よりも聡さんの横顔ばかり目で追ってしまう。
彼が丁寧にコーヒー豆を挽く音、立ち上る湯気を見つめる真剣な眼差し。
いつもの鼻歌。
そのすべてが、私の心をざわつかせる。
聡さんと出会ってからというもの、今まで曖昧だった感情が、はっきりと輪郭を帯びてきた。
それは、心の奥底に眠っていた何かが、ゆっくりと目覚めていくような、そんな不思議な感覚だった。
自分が違う人間にでもなった気分だ。
そんな戸惑いを抱えながらも、聡さんの姿を目で追うことをやめられない。
彼の存在が、私の心の空白を埋めていくように、目が離せないのだ。




