雨の日の一歩
またか。
電話の向こうの母の声に、私は目を閉じた。
昔、父が家を出た夜、母は台所で一人泣いていた。
「あんたまでダメになったら、私、どうすればいいの」
その日から、母は私を健康に育てることが自分の生きがいだと信じ込んだみたいだった。
彼女にとって、私を縛るのは愛だった。
でも、私には、その愛が呪いにしか感じられなかった。
電話の向こうのキンキン響く声に私は深呼吸して、口を開く。
「今は少し忙しいので、後でかけ直します」
母が何か言いかける前に、私は静かに電話を切った。
心臓がドクドクしてる。
こんなこと、今までできなかった。
でも、私にも、私の時間があるんだ。
鞄から本を取り出す。
そこには、聡さんが前に置いてくれた海外の恋愛小説が挟まれている。
ページを捲ると、栞の冷たい感触が指先に触れて、私に少しだけ勇気をくれた気がした。
その足で、私は要珈琲店に向かった。
母への初めての反抗に、妙な高揚感が胸を満たしている。
本を読んで、少しでも落ち着きたかった。
でも、行く途中、空が急に暗くなり、ポツポツと雨が降り出す。傘を持ってない私は走ったけど、店に着く頃には髪も服もびしょ濡れだ。
ドアを見ると、「Closed」の札がかかっている。
ーーああ、休日くらい確認しとくべきだった。
がっかりして、軒下で雨宿りしていると、バババババ、と力強いバイクのエンジン音が近づいてきた。
「大丈夫?閉まってる日に来るとは思わなかった」
革ジャンとジーンズ姿の聡さんが、ヘルメットを外して笑う。
買い出し用の袋をバイクに積んだまま、びしょ濡れの私を見て目を丸くした。
いつもシャツとエプロンでカウンターに立つ彼とは違う、どこか無防備な雰囲気に、私は一瞬戸惑う。ふだんシャツに隠れている鎖骨が、革ジャンの隙間から覗いて、妙に色っぽく見えた。
「あ、なんか制服着てないとスイッチ入らなくて。変な態度だったらゴメンね」
彼は少し照れたように笑って、鍵を開け、私を店に招き入れてくれた。
濡れた髪から水滴が落ちる私を見て、奥からタオルを持ってきて渡してくれる。
指が一瞬触れた時、心臓が跳ねた。
こんな些細なことでドキドキするなんて、自分でも驚く。
店内は、雨の日の静寂に包まれていた。
窓を伝う雨粒が、外界の喧騒を柔らかく遮断する。
店内に染み付いたいつもより控えめなコーヒーの香りが、湿気を帯びた空気と溶け合い、土の匂いと混ざって、心を静かに落ち着かせる特別な空間を作り出していた。
聡さんがカウンターでハーブティーを淹れ、私に差し出す。
カップの縁には、手書きの薄いオレンジ色の花がほほ笑んでいる。
「今日は休日だから、こっち。」
「申し訳ないです」
「きれいな人には礼を言われたいもんだよ」
いつもより無遠慮で踏み込んだ言葉に、私はドギマギしてしまう。
「ありがとう、ございます」
顔が熱くなって、やっとの思いで言葉をひねり出した。
カップを握って一口飲むと、ほうっと息が漏れる。
その味は、私の凍りついた何かをそっと溶かしていくようだった。
私の口から、思わず言葉が溢れる。
「私、今日、母に初めて反抗したの」
聡さんが少し驚いたように私を見る。
私は目を伏せ続けた。
「いつも、言われるがままだった。でも、あなたがくれた栞とコースターを見てたら、この時間が大切だって気づいて。私にも私の時間があるって思えて……」
「そっか。それは、すごい一歩だね」
彼の声は穏やかで、どこか嬉しそうだった。
私はタオルで髪を拭きながら、彼の横顔を見つめる。
ゴツゴツした引き締まった腕が、革ジャンの袖から覗いていて、普段のシャツ姿からは想像できないたくましさに、胸がドキドキする。
「……あの、その、そういう格好するんですね」
私は、意を決して話しかけた。
「ああ、今日は休みだったから。ちょっとそこまで」
聡さんは少し照れ臭そうに笑うと、窓の外に目をやった。
雨音が強くなる中、聡さんが静かに口を開いた。
「昔、俺も本に逃げてた時期があったよ。現実が辛いときはさ、物語の中の方が生きやすいよね」
私は驚いて顔を上げた。
「聡さんも?」
「まあ、誰にだってそういう時はあるさ」
その遠い目が、初めて彼の穏やかな仮面の下に何か隠れている気がして、私の胸がざわついた。
「この雨音を聞いていると、昔のことを思い出すんだ」
雨音が強くなる中、聡さんが静かに口を開いた。
私は栞を手に持つ。
彼が隣に腰かけて、私の手元を見た。
普段は香らないシトラスの香りが首元から漂う。
こんな近い距離に、彼の大人な色香にあてられ、心臓がまたうるさくなる。
「あいつは、この葉の模様が好きだった。よく、二人でスケッチブックに描いてた」
彼の声は遠くを見るような響きで、栞を裏返して「S」と「K」のイニシャルを指でなぞる。
「これ、前に友達と一緒に作ったって言ったよね。実は……初恋の相手でさ。高校の美術部で、桜の木の下でスケッチして、これを作った。2枚あって、1枚は渡したけど、彼女が留学して、戻ってこなかった。なんか女の子に渡すのは少し悪いと思ってたんだけど……君に、君に持ってて欲しいと思っちゃって」
彼の言葉に、私は息を呑む。初恋。聡さんにもそんな人がいたんだ。
親の呪縛から解放されず思春期も来てない、恋愛小説も斜に構えて読んでいない私には、想像もできない気持ち。
分からないはずのその切なさが不思議と胸に染みる。
「私も、この模様が好きです。この店と出会った季節の春がずっとここにあるようで」
聡さんが少し驚いたように私を見て、微笑む。
その瞬間、私の心に温かい波が広がった。
彼の優しさが、幼い心のままの私を大人にしていく。
恋という感情を日に日に理解していく。
彼に近づきたい気持ちが抑えられない。
雨が上がり、聡さんは追加の買い出しに出かけることになった。
「乗りかかった船だ。買い出し付き合ってよ」
そう言って、彼は私をバイクの後ろに乗せた。
背中に感じる彼の体温に、心臓が早鐘のように鳴り始める。
緊張で手のひらに汗が滲むのが分かったが、彼は気づかないふりをしてくれた。
「安全運転だから、安心して」
そう言って、彼はバイクを走らせた。
その声は、優しくて、少しだけ、私を安心させてくれた。
買い出しが終わり、せっかくだから寄り道しようと古書店に2人で寄った。
そこで、彼は一冊の絵本を手に取る。
表紙には、栞と同じ桜の葉の模様が描かれている。
「これ、彼女が好きだった本なんだ。栞の模様も、ここから取った」
彼は懐かしそうに呟く。私はその絵本を手に取り、見つめる。
ページを捲ると、子供が満開の桜の木の下でスケッチする絵があった。
なぜか胸が締め付けられ、同時に、温かいものが込み上げてくる。
まるで、失われた大切な記憶を覗き見ているような、不思議な感覚だった。
聡さんがふと鼻歌を歌い始める。
それは、私が読んでいる小説の登場人物が好きだった曲だった。
「え、それ……」
私が驚きと戸惑いを隠せずに呟くと、彼は少し照れ臭そうに笑って、「偶然だよ」と言う。
その偶然に、私の心は見えない糸で繋がれているような錯覚を覚えた。
彼女が好きだった本、私が読む小説。
聡さんと私を繋ぐ何かがある気がして、胸が温かくなる。
わたしも彼が懐かしそうに眺める感情を、この絵本を通じて追体験したいと思った。
「……この絵本、少し、見てもいいですか?」
私は、彼にそう尋ねた。
彼の「彼女」という言葉が、私の心に静かに波紋を広げた。どんな人だったんだろう。
聡さんの過去を彩ったその人は、どんな笑顔で、どんな声で話したんだろう。
想像するだけで、胸の奥が少しだけ痛む。
それは、嫉妬というよりも、彼が大切にしていた感情を知りたい、理解したいという気持ちだった。
まだ出会ったばかりの私が、彼の過去に触れることは、許されないのかもしれない。
でも、この絵本に、彼の過去に触れることで、少しでも彼を知りたい。
そして、彼ともっとたくさんの時間を過ごしたい。そんな、願いが、私の心に芽生え始めていた。
「…あの、聡さん」
「ん?どうした?」
「…また、ここに来ませんか?」
私は、彼にそう尋ねた。
「もちろん。いつでも」
彼は、いつもの優しい笑顔でそう答えた。
私は、小さく笑い返し、絵本を買って鞄にしまった。
珈琲店に帰り、お礼を言って店を発つ。
要珈琲店の扉を背に、私はゆっくりと歩き出した。
鞄の中の絵本と栞が、小さな重みとなって背中を押してくれる。
もっと自分の時間を大切にしたい。
物語の中だけじゃなくて、この場所でも、あたたかい光を感じながら、自分の足で歩いていきたい。
しっかりと地面を踏みしめる。
この足音は、私の自信が芽生えてくるファンファーレだ。