母
日曜の午後、部屋に母からの電話が鳴り響いた。
案の定、受話器越しに聞こえてきたのは、耳に馴染んだ非難の声。
「また本ばかり読んでるの?現実を見なさい。少しはマシな人生を送りなさい」
一人暮らしを始めても、母からの電話は定期的に私を縛り付ける。
電話口で母がまくし立てる声に、私は目を閉じた。
幼い頃、離婚直後の母は、キッチンで野菜を刻みながら呟いた。
「これからは私が強くならなきゃ……。あなたをダメにしないように、ちゃんと育てるから」
その言葉は、優しさを装いながら、私の首に鎖をかけるようだった。
健康という名の執着に囚われた母は、私を理想の娘に仕立てようとした。
私はその重みに耐えきれず、本の世界へと逃げ込んだのだ。
「本ばかり読んでると骨まで本になるわよ」
母は私が本を開くたび、そう嘲笑し、
「あの水を飲みなさい。ただし、〇〇産は毒だからダメ!」
と理解不能な持論を語り続けた。
私は、その声を遮るように、本の異世界の風景、魔法の言葉を思い浮かべた。
子供の頃、甲高い声に縮こまるしかなかった私は、今もその癖が抜けずにいる。
電話を切った後、部屋の静けさが重くのしかかる。
鏡に映ったのは、乱れた黒髪と疲れた顔。
「何も変わらない。私はダメなまま」
ボソリと呟いて、本を開こうとする。
でも、手が震えてページを捲れない。
ため息をついて布団に潜り込んでぎゅっと目を閉じる。
大丈夫、大丈夫、ここには怖いものはない。自分に言い聞かせる。わたしの落ち着くための儀式だ。
「お前は頭が悪い」「もっとしっかりしろ」。そんな呪いのような言葉が反芻し、ずっと縛られていた。
布団の中でもぞもぞするも、居ても立ってもいられず、私は鞄を手に持つ。
あの喫茶店に行こう。要珈琲店。
そこなら、少しだけ息ができる気がする。
店に入ると、ふわっと広がるコーヒーの香りがやさしく包み込む。
案の定すこしだけ呼吸が楽になる。
「いらっしゃい、お好きなとこ、どうぞ。」
いつもの定型文が私に染み渡るような気がした。
椅子に座り、窓の外を見る。本を取り出す気力がない。
ただぼんやりと、景色を眺める。
外は曇っていて、陽光も今日は弱々しい。
カウンター越しに、マスター――要聡さんが私の様子を見ているのに気づく。
彼は少し首をかしげてから、静かに近づいてきた。
「今日はコーヒーより、こっちのほうがいいかな?」
彼が差し出したのは、ハーブティーの入ったカップ。
カップの縁には手書きの薄いオレンジ色の花が温かそうに咲いている。
「この花、教えてもらったんだ。昔、絵を描くのが好きな子にさ」
彼はそう呟いて、すぐに笑顔に戻った。
「まあ、昔話はいいか。飲んでみてよ」
私は小さく頷き、カップを握った。
カップを握ると、指先に伝わる熱が、凍りついていた何かをごくわずかに溶かしていく。
「どうしてこっちがいいって分かるの?」
思わず呟くと、彼は穏やかに笑った。
「君の顔見てれば、なんとなくね」
その言葉に、胸が締め付けられる。
こんな優しさに慣れてない。
母にはいつも否定されてきたから、誰かに気遣われるなんて、夢みたいだ。
店主と客という垣根を越えて、すべてを肯定してもらいたい、甘えてしまいたい気持ちが湧く。
でも、次の瞬間、「こんな私はダメだ」と頭を振る。
否定続きの人生、何をやっても上手くいかない不器用な私に、そんな資格はない。
いまにも泣き出しそうだった。
しばらく沈黙が続いた後、私は鞄から本を取り出し、挟まれた栞を手に持つ。
冷たい金属が指に触れると、胸に小さな波が立つ。
「これ、嬉しいんだけど。私には、もったいない気がして。」
聡さんが目を細めて、私の手元を見る。彼の表情が一瞬曇った気がしたけど、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻る。
「そうだよね。俺にとっても、そうだったから」
「どういうこと?」
私が尋ねると、彼はカウンターから出てきて、私の隣に腰かけた。こんな距離は初めてで、心臓がうるさくなる。彼は栞を手に取り、指で表面をなぞる。
「これ、昔、友達と一緒に作ったんだ。2枚あってね、1枚は渡したけど、戻ってこなかった」
彼の声は静かで、どこか遠くを見るような響きがあった。
栞を裏返すと、小さく「S」と「K」の文字が彫られているのが見える。私は息を呑む。
「これは俺の分。もう1枚は……どこかにあるはずなんだけど」
聡さんがそう言って、苦笑いする。
私はその言葉に、自分の過去を重ねてしまう。
母に何かを預けるどころか、ただ「ダメな子」と突き放されてきた私。
栞の冷たい感触を指で押さえながら、思う。
私には、こんな大事なものを預けられる資格なんてない。
「私には、やっぱり、勿体ないものだよ」
ぽつりと呟くと、聡さんが私の顔を見た。
深い瞳に、優しさと何か切ない影が混じる。
「君に渡したのは、ただの気まぐれじゃないよ」
その言葉が、胸に刺さる。
私なんかに?言葉にできない感情が湧き上がる。
それはーー喜びだった。
彼の声一言ひとことに、吸い寄せられるように耳を傾ける。彼のやさしい言葉が枯れた大地を潤すように染み渡る。
閉店間際、聡さんが「まあ、お下がりってのも味気ないと思って。」と私に小さな紙袋を渡す。
中には、栞と同じ葉の模様が描かれたコースターが入っていた。
「お揃い」
彼がいたずらに笑うと、私は小さく「ありがとう」と返す。
店を出て、夜道を歩きながら、コースターが入った紙袋を握る。
携帯には母の着信履歴が残っていた。
でも今は、残る栞の冷たい感触が、なぜか私の手を温かくしている気がした。
歩きながら、ふと空を見上げる。
雲の隙間から、月がふわりと私を照らした。