要珈琲店《かなめ珈琲店》
あの栞を返してくれた喫茶店――後で看板を見て「要珈琲店」という名前だと知った――に、私は通うようになった。
理由は、自分でもよく分からない。
ただ、あの栞を本に挟んで読むたび、物語がいつもより鮮やかに、まるでそこに息づいているかのように感じられたからかもしれない。
鼻腔をくすぐる香ばしいコーヒーの匂い、控えめに流れる、題名も知らないジャズ。
時折、カチャカチャと鳴る食器の音。
穏やかでありながら、なぜか私以外の客は長居せず、入れ替わり立ち代わり席を立つ。
そんな、少し不思議な静けさに包まれた空間は、私にとって居心地のいい場所だった。
食器を丁寧に拭き上げる、滑らかなマスターの手。
ふと耳に届く、心地よい鼻歌。
彼の淹れるコーヒーは、詳しくない私でも心からホッとできる、温かい味がした。
「時間を気にせず、ゆっくりしていってくださいね」と、私の隣にそっと古い文庫本を置いてくれたこともあった。
そのさりげない優しさに、私の心の琴線は激しく震えた。
そして、彼が置いていった古い文庫本を手に取った瞬間、まるで長年探し求めていた宝物に出会ったような、そんな錯覚に陥った。
いつしか、私はマスターのことが頭から離れなくなっていた。
通ううちに、マスターとの会話は少しずつ増えていった。
といっても、いつも彼が一方的に話しかけてくるだけだ。
内向的な私は、人と話すのが苦手で、ただ頷いたり、短い言葉を返すのが精一杯。
それでも、彼は気にする様子もなく、穏やかな声で私に問いかけてくる。
「君は、物語の中で何を探しているの?」
その言葉に、私は本から目を上げた。カウンター越しに彼の深い瞳と視線が交錯する。
心の奥を覗かれている気がして、私は慌てて目を逸らした。
「私は、ただ、逃げてるだけなの。優しい世界に。」
自分でも驚くほど素直な言葉が口をついて出た。彼は少し目を細めて、静かに笑った。
「逃げるのも悪くないさ。でも、逃げる場所を間違えると、もっと深い闇に迷い込むこともある。君が探しているのは、ただの優しい世界じゃないのかもしれないね。」
マスターが吹いた食器がカチャリと音を立てカウンターに置かれる。その瞳で見つめられると体の内側を暴かれたような感覚になる。
「君にとっての本当の居場所って何だと思う?」
マスターの問いが、私の心に小さな波を立てた。
私は答えられず、ただ本を握り潰すように手に力を入れた。
「分からないよ」
「なら、一緒に探してみるのもいいかもしれないね」
その言葉が、私の中で何かを揺らし始めた。
マスターの言葉が、私の胸に鋭く突き刺さる。
まるで、心の奥底に隠していた傷を、そっと指でなぞられたかのように。
子供時代に過ごした、冷たい空気が張り詰めた家を思い出す。
母の甲高い罵声。
「そんなんだから貴女は馬鹿なのよ」と、私の理解が及ばないことを嘲笑う声。
離婚後、たまに顔を出す父の、私に向けられることのない無関心な眼差し。
「お前は甘やかされている」と、誰も与えてくれなかった優しさを否定する言葉。
甘やかしてくれた人など、どこにもいなかった。
私は、言葉をうまく紡げない、頭の足りない子供だった。
その度に、両親は苛立ちを隠そうともせず、私を叱りつけた。
私は、壊れそうな自分を必死に保つために、自分にだけは甘かった。
けれど、一番甘やかしてくれるはずの存在が、私にとっての敵に見えていた。
そんな、呪いのような言葉に縛られて、私は自分を好きになることができなかった。
でも、なぜだろう。マスターの、穏やかで優しい眼差しの前では、そんな過去を話してもいいような気がした。いや、そんなはずはない。
私はまだ、彼の名前すら知らないのだから。
それでも、心の奥底に閉じ込めていた痛みを、彼になら打ち明けられるかもしれない。
そんな、ありえない感情が、私の胸の中で静かに、けれど確かに芽生え始めていた。
ある日、いつものように本を読んでいると、彼がカウンターから出てきて、私の隣に座った。
突然のことに、私は固まってしまった。
「いつも同じ席に座ってるね。ここ、気に入ってるの?」
「……うん。窓から光が入って、本が読みやすいから」
「ふーん。君って、本当に本が好きなんだね」
彼の声には、どこか優しさが混じっていた。
私は顔を上げられず、膝の上の本をぎゅっと握った。
こんな距離で話すのは初めてで、心臓がうるさいくらいに鳴っている。
彼の毛穴すら見えてしまいそうな距離なのに顔の熱さでなにも見えてない気すらする。