桜の葉の栞
「え、このイケメンが犯人?まさかー!」みたいな、読者の思考を停止させるライトノベル。そんな安易な書き出しで始まる物語を、私はひどく嫌っていた。
図書館の棚に並ぶ、小学生が殺人事件に巻き込まれるミステリー、死に伏す病気の中相手を孕ませる計画性のない行動をする恋愛物、ただ怖いだけの怪談物語。
私は読書家、いわゆる本の虫と呼ばれる子供だったけれど、なぜか皆に人気なそれらの作品には惹かれなかった。
いや、正確には、意識的に避けていたのかもしれない。
現実の息苦しさから逃げるように本に手を伸ばす私にとって、そんな刺激的な物語は、心を乱すだけだった。
私が好んで読んでいたのは、海外のファンタジー小説や、親世代が子供の頃に読んでいたような児童文学。
思春期の葛藤や、言葉の大切さを描いたものが多かった。
まだ思春期も経験していないくせに、それらの物語を読み、大人になったつもりでいた。
うちは片親だった。
母は父と離婚して、病的なほどの健康志向になり、時に奇異にすら見えるデモ活動に精を出していた。
そんな母親にガチガチに縛られた生活を送っていた私は、過干渉な日々に心を蝕まれ、自己肯定感を育むことができなかった。
本の中だけが、私にとっての自由の象徴、「大人」に近づける場所だった。
あれから時が経ち、24歳、社会人2年目。
会社では、書類整理やデータ入力の地味な仕事ばかり。
同期が華やかなプレゼンを任される中、私はいつもデスクの隅で黙々と作業。
上司が「麦島君はミスがないから助かるよ」と言うが、私に振られる仕事は雑務だけ。まるで、私が透明人間であるかのように。
現実の厳しさが、心の傷口に塩を塗り込むように痛かった。
本を開く瞬間だけが、私にとっての唯一の解放だった。
そこは、私だけの秘密の場所で、誰も私を傷つけない、優しい世界だった。
私は今も、あの頃と同じ本を喫茶店で読んでいる。
あの頃と変わらない、現実への諦めと、それでも本に救いを求める気持ちで。
どうやら、私、麦島コムギには、まだ思春期が来ていないらしい。
現実と理想のギャップに押し潰されそうになりながら、私は今も、本の世界に逃げ込む癖を捨てられずにいる。
目の前のページに広がる、鮮やかな色彩と繊細なタッチで描かれた異世界の風景。
魔法、剣、そして友情。かつて夢中になった物語の世界に、私は何度となく心を奪われていた。
「ああ、この世界に行けたら」
そう呟いた瞬間、喫茶店の窓から差し込む陽光が、まるで何かを祝福するかのように、一層輝きを増した気がした。
ページを捲る手が止まり、私はゆっくりと顔を上げる。
カウンターの向こうには、整った顔立ちに髭の生えた青年男性。
吸い込まれそうな深い瞳を持つ男が、意味深な笑みを浮かべてこちらを見ていたのに気付いた。
初めて訪れたこの喫茶店で、彼を見たのはこれが最初だった。
初めて訪れたこの喫茶店で、彼を見たのはこれが最初だった。名札も何もないその姿に、私は勝手に「マスター」と呼ぶことにした。
「君、まさか本の中に入りたいなんて思ってるんじゃないだろうね?」
彼の声は穏やかだが、どこか確信を含んでいる。私は戸惑いを隠せず、思わず本を閉じた。
「どうしてそれを……?」
私が問い返すと、彼は肩をすくめて答えた。
「よくある話さ。本の世界に憧れる子は、少なくない。」
このまま攫ってほしい。
そう思わせるような意味深なセリフを紡ぐ彼に、私の心臓が静かに、しかし確実に高鳴り始める。
まさか、この男が、私の何かを変える存在になるなんて、そんな都合の良い展開を期待してしまいそうになる。
そんな馬鹿な。ここは現実だ。物語のような奇跡なんて――。
「ねえ、君。少し、面白いものを見せてあげようか?」
その言葉が、私の中で何かを揺さぶった。
彼が差し出したのは、古びた金属製の栞。
冷たい感触と、表面に刻まれた植物の細かな模様が印象的だった。桜の葉、かな。
私はそれを手に取って眺める。
「これが……面白いもの?」
「そうだよ。君がどんな物語を好きか、ちょっと分かったから。この栞、君にぴったりだ」
私の名前も知らないはずなのに、彼は私の心を見透かしたような口調で言う。
私は言葉に詰まり、ただその栞を見つめた。
確かに美しいけれど、ただの物に何の意味があるのだろう。
でも、なぜかその冷たい感触が、私の胸に小さな波紋を広げた。