第一話
※この作品は全年齢向けですが、ヒロインが「ちょっと大人な小説」を読んでドギマギする描写があります。
真面目な顔で変なことを聞く婚約者と、心の中で絶叫する令嬢のすれ違いラブコメです。
苦手な方はご注意ください!
「……“狼の牙に貫かれた契り”というのは、つまりどういう意味なのだろうか?」
婚約者であるダリオ・クライドスの落ち着いた低音が、静かな室内に響き渡る。
その言葉に、サフィーナ・カレストリの肩がわずかに跳ねた。息をひとつのみ込み、彼女は慎重に言葉を選びながら返す。
「……そ、それは……あの……直喩ではなく……気持ちの昂ぶりの、象徴のようなもので……ございます……」
「象徴。つまり、牙で実際に傷をつけるわけではなく……比喩、ということだな?」
「……はい、そのような……意味合いかと……」
「それでは、“猛る槍”とはどういう意味だ?」
「……っ」
サフィーナは顔を真っ赤に染め、そっと視線を伏せた。膝の上で重ねた手がきつく握り合わされる。
とてもじゃないが、それが男性の身体の、とりわけ重要な“象徴”を意味しているなどと、慎み深くあるべき侯爵令嬢の口から告げるなど、到底できることではなかった。
曖昧な返事でごまかすサフィーナの横で、なおも真剣に思考を巡らせるダリオの姿がある。
――どうして、こんなことになってしまったの……!
サフィーナは、今すぐにでも椅子から立ち上がって逃げ出したい衝動に駆られていた。
◆
サフィーナ・カレストリは、侯爵家の一人娘として十八の春を迎えたばかりだった。
蒼い瞳と柔らかな銀髪を持つ彼女は、その気品ある佇まいと清楚な物腰から、周囲の者たちに「蒼月の花」と呼ばれ、静かに憧れの視線を集めていた。
幼いころから貴族の娘としての振る舞いを厳しく教え込まれ、学業にも礼儀にも一分の隙がない。舞踏会では常に穏やかな微笑みを浮かべ、その姿はまさに「完璧な令嬢」と称されていた。
しかし、そんな彼女には――誰にも知られてはならない“裏の顔”があった。
それは、恋愛小説、とりわけ成人向けの獣人ラブロマンスをこよなく愛する、むっつり令嬢という一面だ。
もともと物語を読むのが大好きだったサフィーナは、幼いころから宮廷や貴族の恋愛物語をはじめ、歴史書や騎士譚、古代神話など、多くの書を読み耽ってきた。しかし、いかに上品に飾られた活字とて、何十冊、何百冊と読めば、やがて心は飽きを覚える。
そんな折――十六の誕生日を迎えた頃、彼女は侍女のアンナに頼んで、“平民向け小説”をこっそり買ってきてもらっていた。
表紙の派手さや挿絵の奔放さに最初は驚いたものの、それらはどれも新鮮で、上流の価値観では到底書けない、熱っぽくて情熱的な世界だった。
ところがある日、アンナが持ち帰った本の中に、一冊だけ異質なものが混じっていた――それは、まさかの“濃厚ラブロマンス”だったのだ。
サフィーナはそんなことつゆ知らず、いつものように読み始めてしまう。
そして数ページ後――
「……っ」
思わず本を閉じたその手は、小さく震えていた。頬が熱い。心臓がどくどくと音を立てて跳ねている。
(こ、これは……まさか……)
そう、そこに描かれていたのは、これまで目にしたことも耳にしたこともない、未知の世界だった。守られるようにして育てられた貴族令嬢にとって、決して触れるはずのなかった、あまりに刺激的な描写がそこにはあった。
――耳を甘噛みされながら、誓いの印を刻まれる乙女
――獣の爪に裾を裂かれ、白い肌をあらわになった
――指先が首筋をなぞるたび、乙女の呼吸が熱を帯びていく
そんな大胆な描写の数々に、サフィーナは頬を染めながら、誰にも見られぬよう布団の中でページをめくり続けた。
清楚な外見とは裏腹に、サフィーナの妄想は日に日に密やかに育ち、愛読書のジャンルは徐々に“濃いもの”へと変化していった。
しかし、それを人に知られるわけにはいかない。
サフィーナ自身、重々承知していた。婚前の令嬢たる者、常に慎み深く、心も身も穢れなきものであるべきとされているのだから。
だからこそ、サフィーナは常に冷静を装い、完璧な令嬢として振る舞いながら、影で本を読み耽る日々を過ごしていた。
この秘密を知る者はただひとり、信頼のおける侍女アンナのみである。
昔から私の理解者であるアンナは、紛れ込んだその本を私が何度も読んでいることに気づくと、何も言わずに次の一冊を買ってきてくれるようになった。
むっつり令嬢――それが、誰にも見せられないサフィーナの真の姿だった。
続きは明日の朝7時に更新予定です!
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