第43回 想い出の花は赤いー①
「やっと終わった……」
――時は8月某日。夏季補習の初日を終えた俺は、くたびれ切って机に突っ伏していた。
「お疲れさん。それじゃあ気を付けて帰るんだぞ」
「はい……」
終了間際に現れた補習担当の先生がチャイムと共に立ち去り、教室には俺一人が取り残された。尚口調から分かるように、先ほどの先生はサヤ姉ではない。
「(うがぁ~!! なぜこうなるのだ!!)」
「仕方ねぇだろ。てかなんで俺が補習なんだよ……」
一人になると同時に頭の中で『χ』が大騒ぎを始め、俺はうんざりしながら愚痴を零す――今回の補習の経緯は、『χ』が夏休みをサヤ姉と過ごしたいからと、彼女の担当科目に関してのみ妨害を重ねたためである。
だが『χ』がわざと赤点を取ったことはサヤ姉にはバレバレで、該当者が俺一人だったこともあり、補習は学内の一室での自習となった。
そのため出会うのはたまに監視名目で訪れる代理の担当教師のみという、なんとも寂しいお話である。
「(ふざけるな!! こんなことが許されてたまるかぁ~!!)」
「さて、帰るか……ん?」
騒ぎたてるバカを無視して帰り支度を始めたその時――ふと、俺の携帯がメッセージの受信を告げる。
「……サヤ姉から?」
「(なんだと? 見せろ!)」
「なになに……」
送り主はサヤ姉だった。騒ぐバカを無視しながらそれを読み上げる。
補習お疲れ様。まだ学校よね? 一つお願いなんだけど、帰る前に少しだけグラウンドに顔出して貰える? インハイ前にあの二人に一言声かけてやって欲しいの。
「そっか。もう出発するんだっけ」
内容はインハイの激励に来い、というものだった。尚あの二人というのが誰を指すのかは言うまでもない。
「よし、天橋に会えるってんなら、退屈な自習を堪えた甲斐があるってもんだぜ」
流石サヤ姉だ。『χ』の巻き添えを食らった俺に、ささやかなご褒美を用意してくれていたようである。
「あれ、池場谷くん?」
「よお天橋、元気してたか?」
グラウンドを訪れると、丁度天橋と出くわした。練習は既に終わったようで、これから帰宅する様子だった。
「どうしたの? 夏休みなのにわざわざ学校に……」
「ああ、補習だよ」
「あ……そうだったっけ」
ここにいる経緯を答えると、微妙な反応が返される……まあ補習とは無縁の彼女からすれば反応に困るのが正直なところだろう。
「それより今日はもう上がりか?」
「うん。明日には出発だからね」
「そうか……まあ俺は見に行けないから、ここから応援してるよ」
微妙な雰囲気を変えようと、激励の言葉をかける――くそ、補習さえなければ応援に行くんだがなぁ。
「うん、ありがとう」
「インハイ後はそのまま実家だったよな? ……寂しくなるな」
返礼を受け、話題を変える――前に聞いた話では、そういう予定だった筈だ。
「サトル君よりは早く戻ってくるよ?」
「まあそうだけど……それでもな」
「ふふふ、そうだね。わたしもちょっと寂しいかな」
そう言って天橋がおかしそうに笑う……長くないとしても、寂しいものは寂しいのである。
「じゃあ帰るね。明日からの準備もあるし」
「あ、じゃあ俺も途中まで……」
天橋が帰ると言い出したので、一緒にどうかと声をかける。
「嬉しいけど、それより『あの子』に一言かけてあげて?」
「え?」
だが残念ながら、返事はNOだった。
「大会直前だし軽めに切り上げるよう言ったんだけど、なんか今日調子いいみたいで……『乖』さんから言った方が聞いてくれると思うの。お願いしてもいい?」
どうやら俺より部長業務を優先したようだ……うん、そんな天橋も素敵だぜ?
「わかったよ。じゃあ気を付けて。大会頑張ってな」
「うん、ありがと。それじゃあね」
「ああ」
――そうして再度言葉を交わし、俺たちはその場を後にしたのだった。
「ハァ、ハァ……」
「精が出るな。まだやる気か?」
「へっ?」
校庭を走る人影に声をかけると、その人影――ハナが驚いた様子で振り返る。
「『乖』……なんでここに?」
「それはこっちの台詞だな。なんで僕が補習で、赤点常習犯のお前が免除なんだ?」
「補習? なにそれ? ……なんてね。一応スポーツ特待生だから融通は利くのよ。まあ大会前だから時期ずらしてくれただけで、二学期始まったら毎日居残りらしいけど」
「自業自得だな」
答えると同時に聞き返すと、まあ脳筋丸出しである。これだから体育会系は……
「うっさいわね。わざわざそんなこと言いに来たわけ?」
「まさか」
「じゃあ何よ」
「別に? ただお前の走る姿を目に焼き付けようと思っただけだ」
「……聞いてるこっちが恥ずかしくなるんだけど」
「なら作戦成功だな。オーバーワークはその程度にして、体を休めた方がいい」
敢えて歯の浮くような台詞を言うと、絶えず体を動かしていたハナが漸く動きを止める……今日は朝から練習だと聞いている。この時間までは流石にやり過ぎだ。
「わかった。じゃあもう1本」
「おい……」
だがこの脳筋は、聞く耳など持たなかった。
「明日出発ってだけで、本番まではまだ数日あるから大丈夫よ。それに、目に焼き付けたいんでしょ?」
「……1本だけだぞ」
「じゃ、これよろしく」
溜息と共に答えると、ハナは持っていた何かを投げつけてきた。
「ストップウォッチ?」
「計ってよ。そのタイム切ったら、何か奢ってよね」
「無茶苦茶速いんじゃないのか? これ」
手元に表示されているタイムは、男子でも相当なレベルだと思われた。
「うん。この前の合宿で『快』が出したタイム」
「いいだろう。やってみろ」
ハナの負けず嫌いも、相当筋金入りだった。
「へへ、あたしの勝ち~!」
「……」
――数十分後。
ご満悦顔で戦利品を頬張るハナの横を、僕は無言で歩いている。
「何よ不満そうね。イヤなら断ればよかったじゃん」
「ふん」
食い物がかかった途端これである……本番も何か賭けたらどうなんだ?
「でもこれなら問題なさそうだな。大会頑張れよ」
「うん、ありがと……って、あれ? ごめん、電話だ」
半分呆れながら激励すると、ふとハナの携帯電話が着信を告げる。
「もしもし、うん。うん……」
僕から少し距離を取り、電話をするハナ。相手は誰なのだろうか?
「ごめん、お待たせ」
「気にするな。もういいのか?」
数分後――電話を終えて戻ってきたハナに、用件が済んだのか尋ねる。
「うん……」
「ハナ?」
答えるその表情は、どことなく暗い。それを不審に思い、声をかける。
「あのさ、少し時間ある?」
「?」
「少しだけ、付き合ってほしいんだけど……」
するとハナは、少し悩まし気な様子で、僕に声をかけるのだった。
「さあ、着いたわね」
――十数分後。目的地に辿り着いたようで、漸くハナが足を止めた。
「ゼェ、ゼェ。ここは……」
僕たちは、近所の裏山の中腹にある、小川が流れる区域に立っていた……この場所には見覚えがある。
「向こう岸に渡るから、着いてきて?」
「って、おい……」
息を整える僕をよそに、ハナは小川の間の石を軽やかに跳び跳ね、向こう岸へと渡っていく。
「クソ、人使いの荒い奴だ……」
置いてけぼりを食らった僕は、愚痴を零しながらその後を追うのだった。
「お疲れさま。ほら、座りなよ」
「ハァ、ハァ……」
向こう岸まで到達し、待ち構えていたハナに促されて川岸へと腰を下ろす……僕の息が整う頃には、周囲の音は川のせせらぎのみとなっていた。




