エリザベス、7歳の春
もう少しだけ幼少期が続きます。
◇◇
エリザベス・レリックは今年七歳の春を迎えた。
二年程前には悪魔とまで言われていた暴君ぶりは最早影すらも残らず、今はレリック公爵家の小さな太陽として大切に守られる存在となっている。
二年前、暴君であった彼女が数日前に火傷を負わせた侍女の元を訪れ、父にねだって取り寄せた火傷に効くポーションを見舞いにして謝罪を行った時には、屋敷中を衝撃が駆け抜けた。
それを皮切りに、これまで振り回して来た執事、ないがしろにしてきた教師、我儘で右往左往させてきた使用人達一人一人に謝罪をして回った幼い令嬢を疑いの目で見る者の方が多かったが、それからは日常の行動も少しずつ改められ、癇癪を爆発させたり、物を投げて壊す事も減った。
それでもまだ些細な事で激昂する場面も時折見られたが、怒った後で我に返り、撤回と謝罪をする割合が増えて、半年余りが経過する頃にはすっかり落ち着いた幼い令嬢へと変身してみせた。
傍には専属の侍女となったアンナが付き従い、公爵が愛娘の為に美しくかつ安全に整えた庭で庭師の飼う猫と楽し気に戯れる姿を屋敷の者達が不安なく見守れるようになると、彼女の事を暴君や悪魔と呼ぶ者はいなくなった。
それに先立って一人の侍女が暇を出されたが、彼女は彼女で家格は下がるがそれなりの屋敷への紹介状を渡され、恐らくそこで元気に働いているのであろう。
新入り侍女からの報告を受けた執事や侍女長が、エリザベスの暴虐はあれど、そして仲間しかおらぬ場所とは言えども、人として言ってはならぬ事を安易に口に出す様では公爵家ではやっていけない、と判断した結果であり、発言内容を聞けば激怒するであろう公爵へ上奏しない事を条件に口留めされた上の処置だった。
そして、レリック公爵家の小さな太陽は今日も庭で大切な友達との逢瀬を楽しんでいた。
豊穣の麦を思わせる艶めく金の髪に太陽を透かす木の葉のごとく明るい緑の瞳の美少女が、芝生の上に置かれた白い椅子に座って茶虎の猫を抱いている。
一幅の絵画の様な美しい光景の中で、ほがらかな声が響いた。
「マリー、あなたの肉球は、本当にきもちいいわねえ」
幸せそうに言いながら、エリザベスは腕の中に納まるマリーの前足を手に包み、指先でぷにぷにとした肉球をゆるく揉んで相好を崩す。
対するマリーは目を細め、ごろごろと喉を鳴らしながらエリザベスの腕の中に納まっていて、こちらも心地よさそうにうとうととまどろんでいた。
「わたくしね、あしたとても良い所に行くのよ。マリーはアマルナ修道院を知っているかしら。猫がたくさんいて、天国のようなところらしいの。お兄さまがつれて行って下さるのよ」
先週父と兄から知らされた明日の観光を、エリザベスは心の底から楽しみにしていた。
公爵家のまだ幼い娘となれば危険も多いから、そうそう屋敷の外へ出られる事は無い。
しかし、この二年ですっかり猫好きが屋敷中に周知されたエリザベスを喜ばせたいと思った父と兄が、噂に聞いた猫が多く住む修道院に連れて行ってやろうと言い出したのだ。
これまで聞いた事の無かったその修道院の話はごく簡単に聞かされただけでも素晴らしく、エリザベスは即座に頷いた。
この屋敷にはマリー以外に定住する猫がおらず、他所から遊びに来る猫達とマリーの子を、と言う話もあったのだが結局彼女が子を産むことは無いまま、仔猫を生むには少々年寄りになってしまった。
勿論最愛のマリーが居ればそれ以上を求めはしないが、沢山の猫が幸せに暮らしていると言う修道院の礼拝に行く、と聞けば心が躍らない筈が無い。
残念ながら父は急な仕事で同行出来なくなったものの、護衛を付け、兄と共に向かう事が決まっていた。
「マリー、あなたは連れていけないのだけど、猫の食べられるおやつやおもちゃも売っているのですって。わたくし、しっかりみくらべて、あなたが喜ぶものを買ってくるわ。楽しみにしていてちょうだいね」
言いながら、耳の後ろの毛を指先でくすぐる。
耳の後ろ側、付け根辺りに生えている毛は何故か解らないが他の場所よりもふわふわ柔らかくて、エリザベスのお気に入りだ。
「はぁ……ほんとうにきもちいい……それにとってもいい匂い……」
愛しさのあまり、マリーの耳の後ろに鼻を押し付けて匂いを嗅いでいると、人の足音が聞こえてそちらを見た。
「お嬢様、お茶とお菓子をお持ち致しましたよ。マリーには山羊のミルクを」
言いながら、アンナが銀盆を手にやって来る。
マリーと初めて出会った翌日、エリザベスは父に懇願し、本人の了承を得た上でアンナを専属の侍女にした。
専属になってもらえるか聞く時には緊張したが、彼女曰く、専属になる事で、手当を合わせたよりも遥かに給与が上がるとかで二つ返事で承諾された。
一番の理由は給与なのかと少し複雑に思いもしたが、アンナはその後もあの時とあまり変わらぬ態度のまま接し、エリザベスが褒められない様な事をしようとすると目くばせや言葉で窘め、上手く行かなかった時にはどうすれば良いのかを一緒に考えてくれた。
それまで好き放題だった生活を急に規制し始めた事で鬱屈が溜まったエリザベスが時折癇癪を起こすと、他の侍女や使用人を部屋の外に出し、泣きわめくエリザベスの気が済むまでの間、最初の頃は枕やぬいぐるみを、いつの頃からか手ずから作って来た柔らかな綿を詰めた布のボールを次々に手渡して投げさせ、気が済むと茶や果汁を飲ませて投げ散らかした物を一緒に片付けてから、マリーを部屋に連れてきてくれた。
ちなみに、専属侍女の教育が厳しかったらしく、時々アンナも一緒に投げていた。
曰く「なかなか気持ちいいですね、これ」だそうだ。
その頃にはエリザベスもマリーとの接し方に慣れていたから、まだ理性的に接している庭と違って思う存分可愛がり、話しかけ、抱き着き、一緒にベッドに転がって柔らかな毛並みに顔を埋め、思い切り息を吸い込んでお日様の様な匂いを嗅いだりしているとささくれた心は見る間に安らいでいく。
大人しいマリーはエリザベスが擦りついても吸っても嫌がりもせず、むしろ頬を舐め返してくれたり、喉を鳴らしながらそのまま寝てしまったりもした。
最初の頃は我儘なエリザベスとマリーが接する事を心配していたトーマスも、その頃には安心してマリーと遊ばせてくれるようになっていたから、時々はそのままマリーを部屋に泊まらせて一緒に眠る事も出来た。
そんな日々を繰り返すうちに、エリザベスは自分の中の傲慢な気持ちや我儘な感情を抑え、周囲に対して柔らかく接する事が出来る様になった。
マリーと出会ってから暫くは、あの時聞いた言葉によって周囲から向けられる感情が怖く思え、笑う事も少なくなっていたが、アンナとマリー、そして変わらず愛してくれる父と兄、マリーを通じて仲良くなったトーマス達に支えられ、乗り越える事が出来た。
もし、エリザベスが思春期程の年齢ならば周囲の変化にも時間が掛かっただろうが、幸いにしてまだ彼女は当時五歳と幼く、いとけなく愛らしい少女が戸惑いながらも努力している姿は周囲の者達の感情を和らげるのに役立った。
そうして二年が経った今、使用人達がエリザベスのかつての暴君ぶりを思い出す事も少なくなり、思い出すにしてもあの我儘なお嬢様が立派になられて……と喜びの意味で思い出すばかりになっている。
エリザベス自身も、今はもう自然に振舞っても昔の様な事にはならないと自信を持っていて、心からの笑顔を浮かべられるようになっていた。
全ては、今腕の中で気持ち良さげに喉を鳴らしているマリーと、初めてきちんとエリザベスに向き合ってくれたアンナのお陰だと胸中で感謝しながら微笑みを浮かべる。
「ありがとう、アンナ。今日のお菓子はなぁに?」
鼻先をくすぐる紅茶の香りに頬をほころばせながら問えば、アンナは滑らかな仕草で音も無くティーカップと菓子の皿をエリザベスの前に置いた。
専属になった頃は、まだ動きに少なからず粗があった彼女もこの二年の間に侍女頭に鍛えられ、上級侍女として恥じぬ優雅な所作を身につけている。
「本日のお菓子は、薔薇と木苺のマカロンケーキでございますよ、お嬢様。料理人が、新しく考案したケーキをお試しいただきたい、と」
微笑みと共に皿に掛けられた銀の蓋が外されると、中から濃いピンク色の美しいケーキが現れて、エリザベスは思わず感嘆の声を上げた。
「わぁっ……! なんてきれいなの! こんなに大きなマカロンをわらずに焼くのは、きっと大変だったでしょうね。あら、ばらの花にしずくが……これ、シロップかしら?」
皿の上にあったのは子供の拳ほどの直径の華やかなピンクのマカロンを上下に二枚設置し、中に恐らくクリームを挟んで縁に真っ赤な木苺を連ねた美しい菓子だった。
上には真紅の薔薇の花びらと木苺が置かれていて、薔薇の花びらには透明な雫がほんの一粒だけ輝いている。
「ええ。シロップを固めた物だそうですよ。花びらも全て食べられるとか。さあ、紅茶を入れますからお召し上がりください。マリー、ミルクがあるからお膝から降りなさいな」
言いながら、平たい皿に入ったミルクを美しいタイルの上に置くと匂いを嗅ぎつけたマリーがのそりとエリザベスの膝を降り、ミルクを舐め始めた。
なお、最初のお茶会の折に牛のミルクを与えようとした所、厨房にいた猫好きの料理人が猫の体にはこちらの方が良いから、と山羊のミルクを温めてくれたので、以降はそれを与える様にしている。
旨そうにミルクを舐めるマリーを微笑んで眺めてから、まずは紅茶を一口味わうとフォークを手に取ってケーキに取り掛かった。
「ん……っ……おいしいわ……! なかに入っているのは何かしら?」
傷一つ無いマカロンの表面にフォークを刺し、ナイフで中のクリームと縁の木苺も一緒に一口分切り取って口に入れると、木苺を練り込んだマカロンのしっとりとした感触や甘酸っぱい味わい、滑らかなクリームの甘み、そして甘さをすっきりと整える木苺の酸味が口一杯に広がるし、更にはクリームの中に封じ込められた何か不思議な食感がするさっぱりとした甘さの細長いものも感じる。
「ライチと言う異国の果物だそうですよ。氷魔法で凍らせた物を輸入して、溶かして使うのだとか。私もひと欠片食べさせていただきましたが、不思議な甘みと食感でおいしゅうございましたねえ」
説明を聞いて気になり、少しお行儀は悪いが、アンナしかいないのだから、とフォークの先でケーキの端から細長いそれを取り出し、それだけで味わってみる。
「めずらしい物なのね……たしかに、ちょっとふしぎな味とかんしょくがするわ」
ほう、とうっとりした溜息を零しながら言い、もう一口口に入れる。
「とてもきれいだしおいしいわ。料理人にあとでお礼をいわなくてはいけないわね」
食べ進めれば食べ進める程心奪われるような美味しさに微笑みが浮かんだ。
「今度若様と婚約者候補のお嬢様方との顔合わせの茶会に出すそうで、お嬢様はご参加できませんので本日お召し上がりください、との事でございます。お嬢様が気に入ったと聞けばさぞ喜ぶでしょう」
「そうなのね。きっとお客様もよろこばれるわ。アンナ、だれもいないし、一口たべてみてちょうだい」
一口分切り分けてこそっと囁くと、アンナは悪戯っぽく笑ってそれを指でつまみ上げ、ひょい、と口に入れる。
他の誰かがいると出来ないが、二人だけの時にはこうして分け合うのは良くある事だった。
「んんっ……これは素晴らしく美味しいですねぇ……うっとりしてしまいます……ありがとうございました、お嬢様」
うっとりとした顔でケーキを味わったアンナにくすくす笑いながら、残るケーキを食べ終えて再び紅茶を味わう。
「アンナ、明日はアマルナ修道院について来てくれるのよね?」
「ええ。礼拝堂には若様も入れますが、見学させていただく修道院内は男子禁制ですから私がお供させていただきます。ユーナも行きたがっていましたが、あの子は別の用を侍女頭に言いつけられておりますから。次回があれば彼女を連れて行ってやってくださいませ」
二年前、エリザベスに紅茶を掛けられたユーナは去年からエリザベスの専属となっている。
最初の頃は蟠りがあったが、アンナのとりなしもあって今は互いにうちとけ、一緒にマリーを撫でられる程の仲になっていて、過去の自分を恥じているエリザベスにとっては有難いばかりだ。
「二人ともいっしょでもいいのだけれど……アンナにも休みがいるわよね。でも、明日はよろしくね」
「ええ、お嬢様。私も楽しみにしておりますよ。さ、紅茶をお注ぎ足ししましょうね」
微笑して紅茶を注いでくれるアンナに礼を言い、ミルクを飲み終えて舌なめずりしながら再び膝に上がって来たマリーを撫でる。
二年前のままの自分なら、きっとこんな幸せな時間は過ごせなかっただろうとしみじみ思いながら、エリザベスはマリーの首の後ろに顔を押し付けて思う存分その香りを楽しんだ。
お読みいただきありがとうございました。
誤字報告、いつもありがとうございます。
大変助かっております。
作中のケーキはイスパハンです。イメージしたのはラ●ュレではなくエ●メの方のイスパハンですが、他の素材はともかくライチが物凄く高級品だと思うので日本で食べる以上にお高いケーキではないかと思います。
日本で食べても1カット980円のお高いケーキですが。
あと個人的にエル●のイスパハンチーズケーキは神の食べ物だと思っています。
ちなみに昨日爆死したガチャは(お金の力で)勝利したので引き続き執筆頑張ります。
とりあえずストック5話分くらいは作っておきたいです。
明日も13時更新予定です。ついにアマルナ修道院が登場します。
よろしくお願いします。