アンナとマリーとエリザベス
「ああ、お嬢様、こんな所に……どうなさいました?」
石畳を辿って現れたのは、先程侍女達の話にも出て来たアンナという名の新入りの侍女だ。
十三歳程と聞いているが、入ったばかりにも関わらず頻繁にエリザベスの傍付になっている。
「……なんでもないわっ」
彼女が手当てとお金のためにエリザベスの傍についているのだと侍女達が言っていた事を思い出し、手当もお金も良く解らないなりに思わずその緑の目を睨んだ。
「なんでもないって事も無いでしょう。そんなに大泣きされて……おや、猫ですか?」
気にした様子も無く言ったアンナが歩み寄ってきて、膝の上で丸くなる猫に気付く。
「なんでもないったら……! ……このこがねてるのよ。しずかにしてちょうだい」
思わず大きな声を出すと膝の上の猫がもぞもぞと動き、慌てて声を潜めた。
「ふふ、良く寝てますねえ。この子は……庭師のトーマス爺さんの猫で、マリーって名前の子ですよ」
エリザベスの横にしゃがみ込んだアンナが気持ち良さげに眠る猫の顔を覗き込んで言う。
「トーマス……このあいだ、ばらをもってきたしようにんかしら」
使用人に関心を払った事の無いエリザベスがおぼろげな記憶を引っ張り出しながら首を傾げると、アンナが頷いた。
「ええ、あのお爺さんですよ。マリーはよくトーマス爺さんと一緒に日向ぼっこしてますね。大人しくて賢い、いい子です。お嬢様が泣いてらしたから、心配して傍についててくれたんでしょうねえ」
「な、ないてないもの……っ」
慌ててごしごしと目元を擦ると、アンナは笑いながらハンカチを取り出し、噴水の水で濡らしてエリザベスの目元を冷やす。
「いけませんよ、目をこすると赤くなりますからね。この噴水の水は飲める水ですし、たっぷり使って良く冷やしましょう」
言葉と共にハンカチを押し当てられるとひんやりとした感触が火照った目元に心地よく、抵抗が緩んだ。
「どうせ……アンナだって、おてあてとおかねがあるから、わたくしのごきげんをとるんでしょうっ」
睨みながら言うと、アンナは緑色の目を真ん丸にしてからまじまじとエリザベスを見詰め、次いでその目を半眼にする。
「……何か嫌な事を聞いちゃったんですねえ。……お嬢様、怒ったりマリーや小石を投げつけてきたりしないんでしたら、きちんとお話しますけれど……どうします?」
溜息交じりに言われ、何か投げつけたりなんてしない、とも思ったが、よく思い返してみると腹が立った時には近くにあるものを相手に投げつけていた気もする。
「……しないわ……。マリーをおこしちゃうし……」
「まあ猫は少々投げられても平気ですけどね。ともかく、お手当やお金……これは同じものです。お嬢様のお世話をすると、いつもの給料に加えて銀貨一枚頂けるので、それが有難くて進んでお嬢様付きになっているのは、本当ですよ」
アンナの言葉に、きゅっ、と唇を噛む。
「じじょたちが、アンナはびんぼうだからっていってたわ。じぶんたちだったら、おかねをもらったって、わたしのじじょはいやだって」
「まあ、お嬢様のお世話は大変ですからねえ。うちが貧乏なのも本当です。領地が小さい男爵家で、後継ぎの男の子がなかなか生まれないからって女五人に末っ子の男の子一人。そりゃもう幾らお金があっても足りませんからねえ。お嬢様のお手当、本当に有難いんですよ」
ころころと笑って言うアンナを、エリザベスは胡乱な目で見た。
「おかねって……よくわからないけど、そんなにいいものなの? きらいなわたしの、おせわをしていいくらい?」
幼い上に望んだ物は欲しいと言えば運ばれてくるエリザベスは、お金と言う概念を持っていない。
だから、聞いた言葉で先程知ったもののそれがどのようなものかは解らなかった。
「そりゃもう有難いものですよ。お嬢様の服も、お人形やお菓子、玩具や宝石も、全部お金がないと手に入らないんです。全部お金と交換して手に入れるんですよ。うちみたいな貧乏な家はお菓子やら宝石やらじゃなく、食べる物を買うのが一番多いですがねえ。……それから、私は別にお嬢様の事、嫌いじゃないですよ?」
「うそ! じじょたちがいってたわ。……わ、わたしが……おかあさまのかわりに、しんだほうが……おとうさまも、おにいさまもうれしかったって……。……きっと、おかあさまも……っ」
言いながら再び涙があふれて来て、エリザベスは手の甲で涙を拭う。
「ほう……そんな事を言うお馬鹿さんには心当たりがありますから、私が後でなんとかしましょう。……お嬢様。親ってのはね、子供が自分より早く死ぬのが一番悲しいものなんですよ。お嬢様のお母様に、私は会った事ありませんけど……噂では沢山聞きました。とても優しくて、いつもにこにこ笑っていて、お日様みたいなお人だったって」
「……あんまりおぼえていないわ。でも、おかあさまはいつもわらってて……いいにおいがして……わたしをぎゅっとして、きすしてくれたの……」
先程聞いた言葉と共におぼろげな母の匂いを思い出してぽろぽろと涙を零すと、いつの間にか起きていたマリーが再び頬を舐めた。
「ほら、マリーもお嬢様を心配してますよ。マリーはきっと、お嬢様が好きなんですね」
鼻を啜りながらされるがままに舐められているエリザベスの涙をハンカチで拭いながら、アンナが笑う。
「ほんとうに……?」
信じがたい気持ちで問うと、アンナは力強く頷いた。
「動物は正直です。嫌いな相手や面倒な相手からはすぐに逃げ出しますよ。うちの弟なんて、近所の猫も犬も顔を見ただけで逃げていくんですから。ともかく、そんなお優しいお母様、それにお嬢様を何より大事にしてらっしゃる旦那様や若様が、お嬢様の方が死んでいれば良かったなんて天地がひっくり返ったって思いやしません。絶対ですよ」
「……でも、じじょたちは、わたしのこと、きらいだわ。アンナだって……」
「そりゃ、何かある度に物を投げつけたり怒鳴られたりしたらなかなか好きにはなれませんよ。お嬢様がぽんぽん壊すカップなんて、私らのお給料じゃ一年分でやっと買える様なものですからねえ。ここの侍女は子爵家か男爵家のお嬢さんばかりだから、そりゃ嫌がりますよ」
「わ、わたし……そんなに……なげてたかしら……」
反論しようとして自信が無くなり、呟くとアンナは頷く。
「投げてますね。今朝だって朝食の卵の半熟具合が気に入らなかったってグラスを投げて、おまけに卵以外も全部作りなおさせたじゃないですか」
「……そうだったわね……」
流石に今朝の事についてはすぐに思い出せるのでぐうの音も出ず、エリザベスは唸った。
「まあ、今朝はお皿を投げなかったので上出来です。おかげで作りなおす前のお料理は私らの賄いになりましたからね。滅多に食べられない上等な料理で、とっても美味しかったですよ。お皿を投げて料理を台無しにされて絨毯を汚される時には、このクソ餓鬼、一発叩いてやろうかって思いますけどねえ」
「なっ……じじょのぶんざいで、ふけいだわ!」
きっと睨んで言い、反射的に手近な物を投げようとしたが、きょとんとした顔のマリーと目が合って約束を思い出す。
「おや、我慢出来ましたね。えらいですよ、お嬢様。……もしお嬢さまが私の弟や妹なら、間違いなくお尻を十遍は叩いてますね。なので次から、食事の時は……そうですねえ、スプーンを投げて下さいな。壊れないから勿体なく無いですし。ナイフとフォークは危ないから駄目ですよ」
「す、すぷーんならなげていいの……???」
今の流れでは何を投げてもいけない、という話の筈なのに、何故か許可された事に驚いて問うとアンナは悪戯っぽく笑って頷いた。
「ついでに食事を作り直すよう命令して貰えると、私らが美味しい料理を食べられますからね。その時ばかりは皆お嬢様に感謝してるんですよ?」
「……そうなの?」
今一つ理解が追い付かずに問うと、アンナはころころと笑う。
「お嬢様。確かにお嬢様はちょっと……どころじゃ無く我儘ですし、厄介ですけどね。私はまあそんなに嫌いじゃないですよ。何せ……うちの妹達や弟に比べたらお嬢様なんて可愛いもんです」
言って何やら思い返したらしいアンナは眉を顰めてふう、と溜息を零した。
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あと3話分くらいのストックは出来ました。頑張ります。
マリーちゃんは、まるどらと言われる全身茶虎の雌猫です。
茶虎・まるどらの雌は三毛の雄程ではないもののかなりレアだそうです。
が、実家で以前飼っていた猫がまるどらの雌だったので気にせず書いてしまいました。
前部分投稿後に、そういえば今までに飼った他の茶虎はどれも雄だったし雌はあまり聞かないな、と気付いて調べた所、実はかなりレアな猫だったと知りましたが後の祭りでしたので、そのまま貴重な茶虎女子として続行させていただきました。
明日の13時に続きを投稿します。
宜しくお願いします。