マリーとエリザベス
おまけにどんなに腹立たしくとも傷付いても、それを表に出す事無くにこりと微笑んで上品に躱さなくてはならないのだ。
母の事を持ち出された時にはひっぱたいてやりたかったが、それも微笑みを浮かべて婉曲な表現のごく大人しい皮肉を送る事しかできない。
十三ではまだ夜会には参加出来ないので子供が集まる茶会に参加しているが、子供故に身分差や家同士の力関係をあまり考えていない少女達の、時には敵対派閥の少年達の攻撃は、なまじ理屈が通じないだけに面倒だ。
大人の貴族はチクチクと嫌味を言うにしても家の力関係や派閥の事は考えているのであくまでも嫌がらせ、程度。
実際に殺そうとしてくる連中も表立っては何もしてこないが、考え無しの子供達は大人の貴族の目が無い場所ならばなんでもしでかす。
ドレスを汚す、足を引っかける程度ならまだ可愛いもので、茶会で出る食べ物に異物を混ぜる事も良くあるのだ。
大人ならば自宅の茶会で何か仕掛ける様な自殺行為はしないし、十三にもなれば多少弁えているので大丈夫だが、十歳前後の頃には自らの邸宅に招いた上で、可愛いものなら紅茶に塩を入れたり唐辛子をたっぷりと詰め込んだ菓子を、悪質なものなら死なない程度に失態を犯すよう、下剤や嘔吐効果のある薬を混ぜたり、肌をただれさせる薬をカップの持ち手に仕込まれた事もある。
十三の今は弁えた子供も増えて表沙汰になる様な嫌がらせは減ったが、年が増した分少年達の中には親だか姉だかに言い含められてエリザベスに不貞をさせようと、或いは濡れ衣でもその噂を立てようと近づいて来るものも出始めていた。
勿論全て王宮に報告され、軽い物には注意を、悪質なものには処罰を下されたが、子供らしく杜撰で無鉄砲な計画を聞かされた親達は慌てふためいて詫びを入れに来たし、親ぐるみで計画していた悪質な者に関してはそれ相応の処分が下されたと聞いている。
しかしどちらにしろ、それで恨まれるのはエリザベスで、エリザベスからすれば王宮の監視がついている相手に自殺行為の様な真似をしたのはそちら、としか言いようがないのに告げ口をした、だのなんだのと後々嫌味を言われるのだからやはり割に合わない。
「王子の婚約者なんて、損しか無いのにどうして皆なりたがるのかしら」
「普通は王妃様に憧れるものですからねえ。お嬢様の方が風変りなんですよ。殿下は見目麗しくお優しいから、恋焦がれる御令嬢も多いですしね」
空になったカップに紅茶を注ぎながら笑うアンナに、エリザベスは肩を竦めた。
「わたくしと同じ生活を一週間もやればどなたも逃げ出されるのではないかしら。わたくし、賭けてもいいわよ」
「おや。私も同じ方に賭けるので賭けになりませんよ。……お嬢様は、よく頑張っておいでです」
くすくす笑ったアンナが優しく目を細めて言い、エリザベスは胸に何かがこみ上げるのを感じながら微笑む。
「ありがとう……アンナやお父様やお兄様、エレオノーラ様とマリーがいるから、わたくし、頑張れるのよ」
感謝を籠めて囁くと、アンナの微笑みが深くなった。
幼い頃に道を正してくれてから、ずっと傍にいてくれる姉の様に慕う侍女を心から有難く思いながら暖かな紅茶を楽しんでいると、扉が叩かれた。
すぐさま表情を改めたエリザベスがソファの上で居住まいを正す間に、アンナが外へ誰何して扉を開く。
「失礼いたします、お嬢様。マリーをお連れいたしました」
一礼して入って来たのは王宮から使わされた侍女の一人、エイダで、二十三歳の落ち着いた女性である彼女の腕には一抱えの籠が抱かれていた。
「ありがとう、エイダ」
完璧な淑女の顔で穏やかに微笑み、礼を言うエリザベスの元へ、籠が運ばれてくる。
籠の中にはエリザベスが贈った柔らかなクッションが置かれていて、その上でマリーが気持ち良さげに丸くなっていた。
少し眠たげな目でエリザベスを見上げ、小さくあくびをして口をもごもごさせたマリーが愛らしい声で一声鳴く。
常と変わらぬ穏やかな微笑のまま目だけをいつもより深く眇めたエリザベスがそっとマリーを抱き上げ、膝に乗せると小さな頭がその手に摺り寄せられた。
老いた猫の少し荒い毛並みを撫でながら、ゴロゴロと鳴る喉の音に耳を澄まし、手や膝から伝わる人間よりも高い体温に目を細める。
記憶にあるよりずっと痩せて小さくなった体は軽く、その事に悲しさを感じながらも、年を経るごとに増して来る愛しさが胸の奥から溢れた。
背後に下がったとは言えエイダの耳目があるので話しかけはしないが、ただ寄り添っていられるだけの事が嬉しく、口元に微笑みが浮かぶ。
本音を言えばソファか寝台に寝そべって抱きしめたいが、王妃となる淑女として侍女の前であっても姿勢を崩す事は許されないので、まっすぐに背筋を伸ばし、肩、首、腕、腰、頭、全てのパーツを最も気品高く美しく見える角度で保ったまま、ただ手のひらでマリーを慰撫した。
「……お嬢様。大変不躾にございますが、室外での仕事が残っておりますのでアンナさんにお任せして退室させていただきたく存じます」
不意にエイダが言い、そちらを振り向いたエリザベスは鷹揚に微笑んで頷く。
「ええ、勿論よ。仕事熱心なのは感心するけれど、あまり無理はしないで頂戴ね」
その言葉に微笑みと一礼を返したエイダが退出し、その気配が消えると、エリザベスは溜息を零して背もたれに体を預け、そのままずるずると柔らかな座面に体を横たえてマリーを緩く抱きしめた。
「……気を遣わせてしまったかしら」
「お嬢様を心配してるんですよ。お嬢様は少し頑張り過ぎなんですから」
六年も傍に仕えてくれているのに互いに遠慮が消せないエイダだが、彼女がエリザベスを好意的に見てくれている事は解っている。
仕事にも熱心で、同じ中立派の子爵令嬢でありながら男爵令嬢のアンナや他の使用人に対しても丁寧に接し、猫も好きだとかでマリーを可愛がってくれているから、エリザベスは彼女が好きだ。
もう一人はメラニーと言う名のエイダより少し年上の侍女だが、彼女も穏やかな気質の、優しい人だと思う。
それでも、根深く刻み込まれた教育と、彼女を雇っているのは王宮であり、全てが監視されているのだと言う意識から心を許せないままでいる。
いずれ王妃となった時も傍に仕えてくれる相手なのだから、ある程度心を許せるようにならなくては、と思いはするのだが、それがどうしても出来なかった。
彼女らも、エリザベスが二人と護衛達に気を許していない事は解っているだろう。
それでも、エリザベスがマリーと会う時、先程の様にアンナが求めた時などはこうして席を外してくれる。
本来ならば一切目を離してはいけないのだろうに、扉越しに中の様子を伺うだけで済ませてくれるのは本当に有難かった。
ほう、と息をつき、腕の中のマリーの首の後ろに鼻先を埋める。
気持ち良さげに目を閉じたマリーの喉の音と、その音に伴う振動が伝わって自然と笑みが浮かんだ。
おもむろにマリーが毛繕いをする、ざりざりとした音が愛しくて、頬杖をついて見下ろしながらその肩を撫でているとついでとばかりにその手を毛繕いされ、くすぐったい感触に肩を揺らして笑った。
「マリー、あなたは本当に優しくて、良い子ね。わたくし、あなたが大好きよ……」
優しく囁き、額にキスを落とす。
目を瞬きながらそれを受けたマリーは、寝そべったまま、ぐぐっと音を立てて体を伸ばす。
大きく口を開け、目を見開く様にあくびをしながらエリザベスの顔の方へ思い切り伸ばした前足の指を広げて力んだ後は、ふーっ、と長い溜息を零して弛緩し、幾度か舌なめずりして再び目を閉じた。
如何にも幸せそうなその顔に微笑みながらクッションに頭を預け、暖かな体を撫でているととろとろと眠気が襲ってくる。
「……お嬢様、お昼寝なら寝台で。体が痛くなってしまいますよ」
「ん…………そうするわ……」
苦笑したアンナがそっと肩をゆすってくれ、うとうととしながら頷くとマリーを抱いて寝台へ移動した。
寝間着に着換えると昼寝した事が知られてしまうので、行儀は悪いが部屋着のまま寝台に潜り込むと腕に抱いたマリーと一緒に目を閉じる。
天蓋のカーテンを引く前に、アンナの手が子供の頃の様に優しく頭を撫でてくれたのを感じながら、エリザベスは久々に穏やかな眠りの淵に引き込まれていった。
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