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エリザベスは、その低すぎる自己評価故に、本人も無自覚のうちに他者からの反応へ恐れを抱いている。
父と兄、アンナは信頼しているが、他の相手に対しては一点でも欠点があればまた嫌われるのではないか、失敗をすれば見放されるのではないか、そして何より、ほんの少しでも気を緩めてしまえばあの頃の自分に戻ってしまうのではないか、と無意識に恐怖していた。
特に我儘に対して恐怖が強く、我儘とすらいえない他愛ない欲求ですら、彼女の中では我儘と捉えられ、僅かな休息をとる事ですら躊躇わせる。
それゆえ、他の子供は勿論、大人ですら音を上げて抗議する様な厳しい教育にも必死に立ち向かい、言われるままに全てをこなしていた。
教師の方も、子供が教えた全てを実行出来る筈が無いし、良くて七割、最低でも五割を達成すればそれで良い、と言う考えで通常の人間ではまず達成出来ないような教育を施していたのだが、当のエリザベスはそんな事とはつゆ知らず、必死に己を押し殺してそれを達成してしまった。
その課題が点数として出る学業ならば周囲も行き過ぎに気付いたのだろうが、対人技術の類だった為にエリザベスの異常なまでの抑圧に気付く者がいない。
実際の所、エリザベスの能力は同じ年頃の子供の中で飛びぬけて高く、学力、教養、礼儀全てにおいて優秀な成人女性と肩を並べられる程に高い。
礼儀作法についてはもはや教える事が何も無いとあらゆる教師から言われる程だった。
それは本人の資質も確かにあるが、過去の自分を顧みる強烈な自己批判の上でたゆまぬ努力と研鑽を積んだお陰に他ならない。
その努力は常人の域を遥かに超え、一瞬の休息すら己に許さぬ厳しいもので、この年頃の子供が耐えうるものではなかった。
なまじエリザベスの出来が良く、端から見ればなんの問題も無いように微笑んでいるから、その内側でどれだけ苦しんでいるのか余人には伺えないし、家族とアンナしかいない場所では逆に昔通り楽し気に振舞っていたから、彼らも鬱屈が溜まっているのを感じ、心配しながらもまだ大丈夫だろう、と見誤っている。
エルンストやその幼馴染達は、家族とアンナ以外では数少ないエリザベスの抑圧に気付いていた者だったが、子供なりに気遣い、無理をしないよう言っても、むしろ王子とその側近候補達に苦悩を見せるのは最も禁忌であると厳しく言い含められているので応じられる筈も無い。
微笑んで気遣いに礼を述べ、無理などしていないと伝えるだけのエリザベスに失意を感じながらも、王宮で過ごす時には出来るだけ彼女が密かに可愛がっている犬達を傍に置いて、気が休まる時間を増やしてやるのが、エルンスト達に出来る精一杯だった。
そんな中で、あれから幾度も言葉を交わし、親しくなったエレオノーラは、三度目の訪問から国王の乳母であった権力を最大限使ってアンナ以外の侍女を遠ざけてくれた。
王妃教育の最初の三ヶ月が経過し、修道院への訪問を許されたエリザベスと面会したエレオノーラは前回との差異に何かを感じ取ったのか、わざわざ王宮を訪問して国王に直訴してくれた。
人間としては珍しい程魔力が強く、乳母の職を辞した後は魔術師団に勧誘されていたというエレオノーラがエリザベスの滞在中は修道院全体に鉄壁の防壁を張ると宣言し、王宮の侍女と護衛を外で待機させてくれたおかげで、あの場所でだけは監視の目を逃れて自由に振舞う事が出来る。
王妃教育が始まって半年、初めて監視から解放されたエリザベスが思わず泣いた時、エレオノーラは涙が止まるまで優しく寄り添い、話を聞いてくれた。
元は侯爵家の夫人であり、最愛の夫と生まれたばかりの息子を亡くして、王子の乳母として勤めた後に望んだ静かな暮らしまで高い魔力を持つ子供を欲して再婚を求める貴族達に乱された結果、修道女になった彼女はエリザベスの苦しみと課せられた責務を良く理解し、時に王へ苦言まで呈して守ってくれる。
エリザベスが人目を忍んで訪問する度に顔を出してくれ、悩みを聞いたり、他愛の無い会話をし、手ずから作った料理を振舞ってくれた。
修道女たちは俗世から離れているし、彼女らも猫を愛する仲間だったから、エリザベスが昔と同じ様に振舞っても問題無い。
月に一度だけ修道院で感情を開放し、修道女達に交じって料理や洗濯、掃除まで体験し、猫達を思う存分可愛がって過ごす時間が無ければ、多分エリザベスは折れてしまっていただろう。
屋敷にいる間はマリーとの交流も続いていたが前ほど密接には出来ないし、マリーも年をとってあまり動かなくなってきたので庭に連れて来るのも可哀そうに思えてしまう。
トーマスの部屋の暖かな日向でいつもまどろんでいるマリーに会いに行きたいが、庭師の老爺とは言え男性ではあるので今のエリザベスは昔の様に気軽に出入りできなかった。
エリザベスに時間がある時だけ、侍女がトーマスの部屋から連れてきてくれるのを心待ちにし、連れてきてくれた時には膝に抱いて以前より小さくなった彼女を慰撫し、話しかける。
相変わらず穏やかで優しいマリーはごろごろと喉を鳴らしながらエリザベスを見上げ、時折鳴き声で応えてくれた。
王宮から来た侍女や護衛達も猫が好きか、猫嫌いではない者達ばかりだったからマリーに親切にしてくれたし、エリザベスが彼女を大切にしている事を理解してくれた。
それでも、前より頻繁に会えないのが寂しく、悲しい。
「……マリーに会いたいわ……。今は難しいかしら」
ぽつり、と呟くとアンナが笑う。
「そう仰るかと思いましたので、今、エイダさんにお願いして連れて来てもらっている所ですよ。もう少しお待ちくださいませ」
「……! アンナ、大好きよ!」
いつも先回りしてエリザベスの望みを察してくれる侍女にぱっと笑顔を浮かべ、心からの礼を伝える。
「どういたしまして。お嬢様、今日はどうなさったんです? また随分と荒れておいででしたが」
散らばったボールを拾って元通り可愛らしく籠に詰め、ぬいぐるみを飾りながら問うアンナに溜息を零した。
「……いつもの事よ。エルンスト様の婚約者になりたい御令嬢方からさんざん失礼な事を言われたの。セーラが聞いていたから、今頃王宮に報告が上がっているでしょうね」
王宮から派遣された護衛の名を上げて潜めた声で言えば、アンナが苦笑する。
「それでセーラさん、屋敷に戻って来るなり出ていかれたんですね。御令嬢方も懲りませんねぇ」
エルンストの婚約者の座を望む令嬢達からの嫌がらせや嫌味は日常茶飯事で、多少ならともかく度を越していると判断された嫌がらせ、不敬罪になりかねない悪口雑言については王宮から使わされた護衛や侍女から報告が行くようになっている。
王宮から来た侍女も護衛も表向きは公爵家の護衛と思われているので彼女ら、そして他の敵意を抱く貴族達の大半は警戒しておらず、護衛や侍女が近くにいても平然と侮辱してくるのだが、報告を受けて王宮が問題有りと判断した場合には親や上位の縁戚を通じて忠告が入るようになっていた。
「どうせこれもわたくしの差し金と思われてまた嫌われるのよね……。そんなに殿下の婚約者になりたいならいつでも譲って差し上げるから、ご自身とご自身の親と派閥の問題を解消して王宮に直訴して頂戴、と言いたいわ」
「あらあら。殿下が嘆かれますよ。お嬢様の事をお好きでいらっしゃるのに」
アンナも今は王宮への供を務める様になっているし、彼が幾度かこの屋敷を訪問した事もあるから面識があるため、エルンストとは面識がある。
「……どうしてなのか解らないわ。顔が気に入ったのかしら。たしかにお母さまに似て美人だとは自分でも思うけれど」
記憶はおぼろだが、年々肖像画の母に似て来る自分の顔に指で触れて溜息を零す。
婚約者に好意を持たれるのは決して悪い事では無いのは解っているのだが、何故そんな事になったのか解らない。
「お嫌いではないんでしょう?」
「……嫌いでは無いわ。悪い方では無いし、良くして下さっているもの……。でも、やはりわたくしに王妃は荷が重いわ……。もっと他に、ふさわしい御令嬢がいればいいのに」
派閥を考慮に入れなければいない訳でもないのだが、エリザベスが健在の今、別派閥の令嬢を婚約者にするのは問題がある。
エリザベスが消えればそれでいいのだろうが、エリザベスとて死にたくは無いし、今更婚約者の派閥を変えるのも問題が大きすぎる。
結局自分しかいないのは解っているので譲る事は出来ないが、婚約以来何度も毒を盛られ、刺客に襲われ、監視の目に晒されて心休まる事の無い日々を過ごしている上に嫌味や嫌がらせを受けるのは割に合わないにも程があった。
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とりあえずストック作り頑張ります。
明日も13時更新予定です。久々にマリーが出てきます。
宜しくお願いします。




