婚約
帰宅した時から、父の雰囲気がいつもと異なっているのは感じていた。
母を思い出している時は質の異なるどこか悲しげな色が、エリザベスを見る瞳の奥を一瞬だけ過るのに気付けるのは、きっと家族であるエリザベスとフランツ、亡くなった母くらいのものだろう。
「…………明日では、駄目かな」
僅かに眉を上げ、沈黙してからぽつりと言う父を見上げ、少し躊躇った。
「……あまり、嬉しくないお話なのね……?」
何の話かは分からないものの嬉しい話ではない事は薄々察していたが、父の言葉にそれを確信する。
「……父上、もしかして……あの……?」
ページをめくる手を止めた兄が眉をひそめて問い、兄もまたその話題に心当たりがあるのを察したエリザベスは不安を感じながら再び父を見上げた。
兄の方へ目をやった父は眉間に薄く皺を寄せ、目を眇めて嘆息する。
「……早すぎるでしょう。決定はまだ数年先と……」
動揺を含んだ声で兄が言い、エリザベスの不安が高まった。
自分に関わる話であるのは確かで、ただエリザベスの知識ではそれが何かは解らなかった。
不安を抱えたまま見上げる愛娘を見下ろしたダンテスが、重い溜息を零す。
「……エリザベス。お前の婚約が決まった」
重い声に目を見開く。
自分がいつかどこかに嫁ぐ、という事は知っていたが、それはあくまでも言葉としてのもの。
貴族の婚約は十歳から十四、五歳で結ばれるのが普通で、それより早い場合はおおむね生まれた時に決まっている様なとりわけ政略性の高いものばかりだった。
だから、七歳で婚約者が決まっていないエリザベスにはあと三年以上の猶予があるのだと教師から聞いていたし、いずれ利益のある相手と結婚する事を知識として理解していても具体的に実感するには、まだ幼すぎる。
急な話に戸惑いもしたし、同時に父や兄の反応からしてこれが彼らから見てエリザベスの幸福につながる縁談ではないのだけは解った。
「……良くないお相手なの?」
不安に思いながら問うと、父は苦笑してエリザベスに膝に座る様促す。
目を瞬きながらも膝の上のマリーをそっとソファの上に乗せ、父の膝によじ登った。
「一般的にはまあ、最高の相手だよ。……今日お前が会った、エルンスト殿下だ」
溜息交じりの父の言葉に、昼間会った少年の顔が脳裏をよぎる。
「……お断りは、出来ないのよね……?」
明らかに乗り気ではない父がこうして告げるのであれば、エリザベスの意思には関係なく既に決定した事なのだろうと思いながら沈んだ声で問うと、父は頷いた。
「王家からの打診でね。こちらから断れる事では無いんだ。……もともと、エリザベスが筆頭の候補でもあり、ほぼ決まっていた事ではあったのだが……殿下から今日、国王陛下へお前がいい、と表明があったそうだ」
「……わたくしのせい、なのかしら……。気をひくような事は、なにもしていないとおもうわ……」
「エリザは可愛いからね……。エリザが筆頭候補だった事は殿下も御存知だから、今日実際に見てエリザが良い、となられたのだと思うよ」
溜息交じりにフランツが言い、父も頷く。
「その、ほかのこうほの方では、だめなのかしら……」
今日であった王子は、黒猫を追い払った事はともかく他では特に悪い点も無かった。
しかし王族との結婚が重い責任や苦労を伴うのはなんとなくわかるし、友人としてならともかく将来あの少年と結婚するのだと言われてもしっくりと来なかった。
出来れば遠慮したい、と思いながら問うと、父が溜息を共に首を左右に振った。
「エリザベスの年では少し難しい話だが、この国の王妃の選び方には暗黙の了解……まあ決まりごとの様なものがあってね。貴族達に派閥があるのは、もう習ったかい?」
「ええ。ええと……せいとうはと、しんこうは、あとはちゅうりつはで、お父さまはちゅうりつは、だったかしら」
言葉としては知っていてもその意味はまだ理解していないエリザベスの答えに、ダンテスが頷く。
「うん。レンドール王国が興ってから二百年以内に興った古参貴族を中心にする正統派、それ以降に興った新参貴族を中心とする新興派、そしてどちらにも属さない、古参も新参も混ざった中立派だね。レリック公爵家は開国前から初代国王に仕えていた最古参の一つだが、今は中立派にいる」
父の説明を頭の中でかみ砕きながら言葉の続きを待った。
「今この国は落ち着いていて、派閥同士の争いも表向きにはそう激しくもない。だが、その平穏を維持するために、王妃はそれぞれの派閥から順番に立てる慣例があるんだ。法律では無いが、次の王妃は中立派の家格と年周りが合う令嬢から、と決まっている」
「……それが、わたくし?」
肩を落として問うと、父は優しくエリザベスの頭を撫でる。
「ああ。……中立派には、他に条件の合う御令嬢が二人いる。皆エリザベスと同じ年齢でね。一人はミリオラ・メネット嬢。メネット侯爵家の長女だね。もう一人はキャロライン・レーダー嬢。レーダー侯爵家の御令嬢だ。この二人とエリザベスが、王太子殿下の婚約者候補だった。……だが、残念ながら残る二人には少々問題があってね。それを加味した結果、内々ではエリザベスにほぼ決定してはいたんだよ」
「……どんなもんだいなのか、聞いてもいい……?」
二人も他にいるのなら、何故エリザベスが、と思いながら問うと父は再び苦笑した。
「ミリオラ嬢は病弱でね。幼い頃から殆ど床についていて、茶会すら出られないそうだ。重責を果たさねばならない王妃として働くには無理がある。メネット侯爵は娘を王妃にしたくて幾人もの医師や魔術師を招いているが、芳しくない。メネット家にはもう一人娘がいるが、男児がいなくてね。健康な妹に婿を取って後継ぎを作らねばならないから、現時点で王家に嫁がせることが出来ないんだ」
「……そう……。そうなのね……。キャロラインさまも、むずかしいのかしら……」
想像しただけでも多忙であろう王妃の責を負うには体が弱くてはどうにもならない事は理解出来、エリザベスは俯く。
「キャロライン嬢は健康かつ優秀で、それだけならば申し分のない御令嬢だそうだ。しかし……彼女の場合は家に問題があってね。両親ともに怪し気な新興宗教……古来からの神や女神とは異なる神を奉る者達との関係が深いんだ。その団体は今の所法を犯していないし、支持する貴族もそれなりにいるのだが……どうにも怪しくてね。その様な団体の息が掛かった家から王妃が出るのは危険だと判断された。その結果、王妃になる資格を持つのがエリザベスのみ、となった訳だ」
「…………もっと前から、きまっていたの……?」
「……去年には八割がた、ね。メネット侯爵は娘の回復に賭けて十歳まで待って欲しいと懇願していたし、レーダー侯爵も王妃の父の座を欲していた。こちらはレーダー侯爵の親族が、団体との縁を切る様説得を続けていたから、その効果次第では可能性もあったんだ。だから、あと三年は保留の予定だった。しかし……」
「……殿下が、わたくしをきぼうされたのね……」
父の言葉を引き継ぐと、頷きが返された。
「……エリザベスが、王妃の座を喜ぶ子なら良かったのだけれどね」
「……僕も父上も、エリザが嫌がるだろうと解っていたからどうにか回避しようと思っていたんだ。……今日、殿下は一日中学習の予定だと聞いていたから王宮に連れて行ったのだけど……僕のせいだ。……すまない、エリザ……」
「教師の体調不良で、急遽休みになったそうだ。……私も把握出来ていなかった。先に知っていれば庭園ではなく、休憩室で待つ様伝えられたのだが」
悲しみを湛えたフランツの言葉に、エリザベスは首を左右に振る。
「お兄さまのせいではないわ。どうかそんな顔をしないでほしいの。……他の方では駄目なのならば、わたくしがはたすしかないのでしょう?」
言いながらも、急に圧し掛かって来た責任の重さに身が震えた。
「……これから先、お前の生活はとても厳しい物になる」
重い声で、父は告げた。
お読みいただきありがとうございます。
評価、ブクマ、感想などありがとうございました。
もしよろしければ評価、ブクマ等入れていただけるとギリギリ執筆の活力になります。
ストック三話分出来たら無限列車を見に行くんだ……
明日も13時に更新予定です。ちょっと重い流れのままです。
よろしくお願いします。




