緑のマカロンと母の思い出
◇◇
心行くまで犬と戯れ、その合間に王子達と言葉を交わしていたエリザベスは侍女が刻限を知らせる声に予定を思い出し、名残惜しく思いながらエメルダを離した。
三頭の中で唯一の女の子であるエメルダは優しい性格で、これまで思う存分可愛がっていたエリザベスが手を離すと、もうやめるの? と言わんばかりに首を傾げる姿が堪らなく愛らしい。
猟犬の子とは言え猟犬としての教育ではなく、王子の友兼護衛、それも友としての度合いを高くして育てられた犬達なので、その仕草や表情は柔らかく、ほぼ愛玩犬と言って良い性格をしていた。
そんな彼らのあざとさすら感じる愛らしさに思わず相好を崩しながらも、ゆっくりと立ち上がる。
「殿下、オーガストさま、アルフレッドさま、シリルさま。そろそろ父とのやくそくの時間となりますので、これにてしつれいさせていただきますわ。本日はわたくしにおつきあいくださり、まことにありがとうぞんじます」
犬と遊んで緩んでいた心を切り替え、礼儀正しく一礼するとエメルダ同様名残惜し気な顔をしたエルンスト達も立ち上がった。
「私たちこそ、エリザベスじょうのおかげで楽しい時間をすごせた。……その、またいつでも王宮に遊びに来て欲しい。君ならいつでも通して良いと命じておくし、それに猫はぜったいに近づけさせないから、安全だ。私が国王になったあかつきには、王宮の猫は他所にやるから誰も怪我をしなくなる。ダンテスにもまた王宮によぶよう言っておくから、遠慮無く遊びにきてくれ」
彼にとってはとても重要な事らしいが、エリザベスにとっては最も歓迎できない言葉にむっとしつつも、悪気はないのだし家族でも無い相手、しかも王族に反論する訳にもいかない。
ちなみに父か兄が万が一同じ事を言ったら泣いて抗議するし一月は口を利かない所存だが、エリザベスは過去の反省もあって年齢よりも大人びた考え方をする様になっているから、不服は見せず慇懃に頭を下げた。
「……勿体ないお言葉に存じます。では、父も待っておりますし、失礼いたしますわね」
顔を上げ、にっこりと微笑んでから失礼の無い速さで踵を返すと離れた場所で待つ侍女と護衛にめくばせし、案内に従って歩き出す。
角を曲がり、人目が無い場所で素早く侍女がドレスに着いた草や犬や黒猫の毛を取り、髪を整えてくれた。
「ありがとう。つい犬達が可愛くて夢中になってしまったわ」
苦笑して言いながら、袖の端にあの黒猫の物らしい金と黒が入り混じった毛の束が付いているのを見つけ、なんとはなしにつまみあげる。
「あの子にまた会えるかしら……とても可愛かったわ……」
がっしりとした足や太い骨格、立派な尻尾に愛らしい大きな目を思い出してうっとりと溜息を零す。
最愛の猫はマリーだし、修道院で出会った猫達も素晴らしく可愛かったがあの大きな猫はまた、なんとも言い難い印象をエリザベスに残していた。
マリーにも劣らぬ程、いや、まるでこちらの言葉を完全に理解しているような行動も、やんちゃに遊ぶ姿も可愛かったし顔の周りのふさふさとした毛は何とも言えず気持ち良かった。
また会いたい、と心から思いながらハンカチを取り出し、そっとその毛束を挟む。
マリーの毛を使ったアクセサリーは既に作ってもらっているから、これも何かのアクセサリーにしてもらおうと思いながら隠しに仕舞うと、エリザベスは侍女の先導に従って再び歩き始めたが、その後幾度も訪れた王宮で、彼女があの黒い猫に会う事は遂に無かった。
◇◇
「エリザベス! よく来たね。ああ、王宮で天使に会えるなんて夢の様だよ」
案内された部屋に入るなり嬉し気な声が上がり、頬を緩ませた父が歩み寄って来た。
「お父さま!」
ぱっと顔を輝かせたエリザベスが少し足を速めて歩み寄ると両手を広げた父、ダンテス・レリックがその体を抱き上げて頬ずりをする。
貴族男性としては早めの十七で結婚して十八でフランツが、そこから間が空いて二十五でエリザベスが生まれたダンテスはまだ三十を少し過ぎたばかり。
華やかな美貌の母に似た子供達とは趣の異なる端正に整った顔立ちの優し気な人物だったが、柔和な笑顔で政敵を容赦なく叩き潰す者としても知られていた。
しかしそれはそれとして、エリザベスにとっては少々自分に甘すぎる優しい父でしかない。
「今日はすまないね。エリザベスの初めての外食にも修道院にも付き合わせてくれない宮廷など滅んでしまえばいいのに」
にこにこと微笑みながら物騒な事を言う父に苦笑しながら、栗色の髪をいつも自分がされるように撫でると嬉し気な微笑みが返された。
「つぎは、お父さまも一緒に行きましょう? 修道院はとても素敵なところだったのよ。お食事もとても美味しかったわ。お父さまにお土産も買ったのよ。修道院に行く道が、まるでおまつりのようだったの!」
午前中の出来事を思い出すと共に興奮も蘇らせながら言えば、ダンテスは相好を崩してその話に聞き入り、エリザベスを抱いたままソファに腰を下ろす。
その向かいの席では座ったままのフランツが微笑まし気に二人が会話する姿を眺めながら侍女に指示し、茶と菓子を運ばせた。
彼はずっとエリザベスを独占していたので、今は父に譲る所存で父と妹を見守る姿勢だ。
「折角私の天使がここにいるのに、あまりゆっくり時間が取れないのが残念だ……。エリザベス、日暮れ前には私も帰宅出来るから、その時にもっと詳しく聞かせて欲しいな」
「ええ、もちろんよ、お父さま。……そうだわ、お庭で殿下にお会いしたの。たいしたお話はしていないけれど、ほうこくしておいた方がよかったわよね?」
後々どこかから話が行って、父が知らないまま話題に出てはいけないので伝えると、ダンテスは軽く眉を上げた。
「殿下と……? 何を話したか覚えているかい?」
「……お父さまが王宮でわたくしのことをあれこれお喋りされているのは聞いたわ」
言って軽く睨むと、父は苦笑を返してエリザベスの頬に口付けた。
「すまないすまない。何せエリザベスが余りにも可愛いものだから、つい自慢してしまってね。他には何かお話したかい?」
「……猫がお嫌いなことと、あとは犬がお好きなこと、それいがいは王宮のお話をうかがったくらいかしら。オーガスト・ミュラーさま、アルフレッド・ドレインさま、シリル・アーヴァインさまもおいでになったわ。それから殿下の犬たちと遊ばせていただいたの。とても可愛かったわ……」
最初は少し不機嫌に、最後はふかふかの犬達を思い出してうっとりとしながら言えば、ダンテスは何やら考えていたがそれ以上は口にせず、エリザベスをソファの隣に下ろして運ばれてきた茶と菓子をすすめる。
「さあ、宮廷の料理人のお菓子を食べてご覧。レストランでは苺とショコラのムースだったと聞いたからね、それとは異なるものを用意させたよ」
微笑んで言う父に頷き、テーブルに向き直る。
美しく彫刻したテーブルは、その表面に緑と白の大理石を市松模様に組み合わせて張ってあり、木材との継ぎ目には細く切った黒大理石に金を埋め込んで草花の模様を描いたものが嵌め込んである。
まるでチェスボードの様な美しいテーブルの上には金のケーキスタンドが置かれ、一番下のセイボリーには一口大の小さなキッシュやきゅうりのサンドイッチ、ドライトマトとオリーブ、薄切りのチーズを乗せたカナッペに、鴨肉とオレンジのピンチョスが彩りよく乗せられている。
二段目にはナッツを練り込んだスコーンと紅茶を練り込んだスコーンが、父と兄の分に加えてエリザベス用の小さなものに分けて置かれ、クロテッドクリームをたっぷり盛り付けた小さな鉢と杏子のジャムを満たした鉢に金のスプーンが添えられていた。
一番上の段には三角に切った小さなさくらんぼのタルト、花を象った白磁の小さな鉢の中で金色に輝くクレームブリュレ、明るい緑のマカロン、愛らしい猫の形のクッキー、更には四角いフレジエが置かれていた。
真っ赤なグラサージュを流した表面には苺と春薔薇の花びら、白いショコラで作った苺の花が飾られているし、エリザベスが二口で食べられそうなほどに小さいのにも関わらず、二枚のスポンジの間に詰められたムースリーヌの中には極小の苺が入れられていて、カットした切り口に蝋燭の炎を並べた様な美しい模様を作り出している。
そして料理も菓子も、エリザベスの分は全て小さなものが用意されていた。
「とてもきれいね……! でもお父さま、わたくしこんなに食べられるかしら。食べられても、夕食が入らなくなってしまいそう……! でもとっても美味しそうだわ!」
大人達の夕食は通常かなり遅い時間に摂るので午後にこうしてたっぷりとお菓子や軽食を食べるのだが、エリザベスの様な小さな子供はその時間まで起きていられないのでもっと夕食の時間が早い。
だから普段のお茶の時間はケーキや焼き菓子を一つ、と言った所で、大人達が食べるこんな茶菓子は滅多に出されない。
これまでに出されたのも、兄や父の元に訪れた客の中でも特に親しい、エリザベスの様な子供が顔を出しても許される間柄の相手との茶に招かれる時位だった。
「折角の王宮だから楽しんで欲しくてね。勿論エリザベスが食べられる分だけ食べればいい。残すのが気になるなら、お父様達が食べるからね。フランツはこれでは足りない位だろうし」
父がそう言いながら兄の方を見て笑うと、兄も苦笑を返す。
フランツは細身だが、丁度食べ盛りだとかで見た目とは裏腹に良く食べるし、確かにこれ位の量ならエリザベスの分までぺろりと食べられそうだった。
よく見るとスコーンやセイボリーが人数分より多く乗せられているから、これは食べ盛りのフランツに配慮した分だろうか。
「まあ、父上の言う通りだよ。最近は食べても食べてもお腹が空いてしまってね。成長期はこんなものだと言うけれど、お茶の時間がいつも待ち遠しいんだ」
「私もお前位の頃はそうだったよ。クリスティンもその頃はいつもお腹が空くと言っては私の分の菓子を掠め取って食べていたから、エリザベスもそうなるかもしれないねぇ……」
生まれた時からの婚約者であり、幼馴染でもあったと言う母の名を上げてダンテスが懐かし気に言った。
「お母さまが? お父さまのお菓子を掠め取っていたの?」
朗らかで明るい人だったとは聞いていたが、婚約者の茶菓子を掠め取ると言う話は初めて聞いたので目を丸くして父を見上げる。
「他の人間の前では小鳥の様にしか食べません、と言った顔をいつもしていたのだけれどねえ、その分余計に空腹になるらしくて、周りに人目が無くなると私の皿から食べ物を奪い取っていたよ。彼女は本当に美味しそうに食べるから私も怒る気にもなれなくてね」
遠い昔を懐かしむ、少し寂し気な声で父が想い出を語る声に、エリザベスは耳を傾けた。
「だから私も予めその為に料理や菓子をたっぷり取り分けて用意していたけれど、時々思っていた以上に奪い取られて取り合いになりもしたなあ。何せ私も食べ盛りだったからね。フランツも覚えがあるだろう?」
水を向ける父に、兄が笑う。
「僕の分は取らなかったけど父上の皿からマカロンを掠め取っているのは良く見たね。母上は特にピスタチオのマカロンに目が無かったから」
「そうそう。今日のこのマカロンは、あの頃ならきっと私の分だけはクリスティンの胃に収まっていただろうねえ。……ピスタチオのマカロンなんて、山積みになる程作らせるから……還ってきて欲しいものだよ」
一番上の段から摘まみ上げた緑のマカロンを優しい目で見つめた父がぽつりと呟く。
どれほど再婚を勧められても決して首を縦に振らない父の、癒える事のない悲しみが伝わってくるのを感じたエリザベスは伸びあがってダンテスを抱き締め、その頬にキスをした。
「お父様、今度お母さまの所にマカロンを沢山持って遊びに行きましょう? きっと喜んでくれるわ」
敢えて墓所とは言わずに提案すると、ダンテスは常よりも水分を増した目で微笑み、エリザベスを抱き締める。
「うん、そうしよう。三人で行って目の前で全部食べてやったらきっとクリスティンはさぞかし悔しがるだろうなぁ」
「……父上、それは母上が怒りの余り夢枕に立って恨み言を言う様な所業だよ?」
苦笑するフランツに、ダンテスは肩を竦めて笑った。
「夢に訪れてくれるなら、恨み言なんて一晩中でも有難く聞くさ。よし、次に会いに行く時にはクリスティンの好物を山程持って行って全部目の前で食べてやろう」
まんざら冗談でもなさそうな口調で言う父に、エリザベスはくすくす笑う。
「わたくしも協力するわ、お父さま! うらみごとは順番に、ぜんいんの所に来てもらうの!」
「仕方ないなあ。僕の所にも来て欲しいから、協力するしかないじゃないか」
記憶もおぼろな母と、夢の中でだけでも言葉を交わせればさぞ嬉しいだろうと思いながら言えばフランツも笑って同意する。
「さて、取り急ぎ僕はこのマカロンをじっくり味わってクリスティン悔しがらせるとしよう。なにせ彼女がいる間、私はこれを一度も食べたことが無かった程毎回奪われていたからね。……うん、美味しい」
いたずらっぽく言いながらマカロンを一口で食べた父が、どこか切なさを感じる声で呟いた。
「本当に、美味しいわ。お母さまはこんな味が好きだったのね……」
「うん。甘いものは何でも好きだったけど、特にピスタチオやアーモンドに胡桃に……ナッツを使った物が好きだったね」
懐かし気に言いながら、フランツも同じようにマカロンを口に運ぶ。
「……懐かしいな。僕が父上に叱られたりして拗ねた時には、夜になってからホットミルクとこのマカロンを持って部屋に来てくれて、一緒に食べながら色んな話をしたんだ」
「……私の時にはコーヒーとマカロンを持ってくるだけ持って来て、コーヒーは飲ませてくれたけどマカロンは自分で二人分食べていたなぁ……」
苦笑交じりの父の言葉にフランツとエリザベスがくすくす笑い、その笑い声に父のそれも加わった。
二人の思い出にある様な経験をエリザベスは出来なかった事が寂しくもあるが、彼らの話の中にいる母はいつも生き生きとしていて、自分もそれを経験した様な気持ちになれる。
それでも折に触れて胸をよぎる寂寥感は父と兄の存在が慰めてくれるし、自分も二人の仲の寂しさを少しでも埋められれば良いと思いながら、エリザベスは母が愛したという小さな菓子をこれまで以上に丹念に味わった。
お読みいただきありがとうございました。
本当はここはお菓子を楽しむ話の予定でしたが母親の思い出話が突然入ってきてしまいました。
これを書いた後で考えると十年後のエルンストはちょっと月のない夜には気を付けた方がよさそうです。
アフタヌーンティは真ん中に入れるものがスコーンの場合と生菓子、一番上に焼き菓子のパターンなど色々ある様ですが自分が今まで一番多く経験した真ん中スコーン派にしました。
マリーの毛を使ったアクセサリーは、モーニングジュエリーという英国で昔よく作られた物をモデルにしています。
遺髪を使う場合が多かった様ですが赤ん坊が生まれた記念に作る事もあったそうなので、ペットの毛アクセサリーの需要はありそうです。私もほしいです。
評価、ブクマ、誤字報告、本当にありがとうございます。
励みになっております。明日も13時更新予定です。よろしくお願いします。




