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夢の生活のはじまり

短編と同じです。飛ばして構いません。

同時に2話目を投稿しています。

◇◇


「婚約破棄……にございますか?」


 秋の気配が色濃くなってきた学園の自習室で、淑女教育の課題の一つである刺繍をハンカチに施していたエリザベス・レリック公爵令嬢は前触れもなく入って来た婚約者とその一行の前で告げられた言葉を繰り返し、目を瞬いた。


 目の前には婚約者である王太子、エルンストとその側近である三人の若者、そしてエルンストの腕に目を潤ませながらしがみ付くふわふわとしたピンクの髪の令嬢が立っている。

 確かマーガレットと言うこの令嬢が最近エルンストと仲を深めていると言う噂は学園どころか市井にまで流れていて、身分違いの恋の話に庶民たちが応援の声を上げていると聞いていた。

 しかし正直な所余り関心も無かったので何をすることも無く放置していたのだが、そういえばしばらく前に呼び止められ、エルンストに自分が愛されていると自慢されたような記憶があった。


 その時に、悪役令嬢のくせに、だとかエリザベスが役目を果たさないからストーリーが進まないだとか、そんな事を言われたのだがあれはどういう意味だったのだろう、と首を傾げているとエルンストが重々しい顔で口を開く。


「エリザベス。君がそんな事をするとは考え難いが、このマーガレット・レント男爵令嬢に酷いいじめを繰り返していると言う訴えがあった。未来の王妃として、下位の令嬢を虐げるのは感心できない事だ。このままでは婚約破棄もかんが……」


 いじめと言うのに心当たりは無いが、婚約破棄という言葉には反応せざるを得ず、漸くその意味が脳に届いたエリザベスははっと目を見開いた。


「……婚約破棄! 婚約破棄ですの!?」


「ああ。それが嫌なら君の態度を」


 先程から思う様な反応が得られない事に焦れていたらしいエルンストが言いさした所で、エリザベスは歓声を上げる。


「喜んでお受けいたしますわ!!!」


「え?」


 喜色が表情のみならず、声音からまで零れ出る様なその言葉にエルンストのみならず側近の青年達、マーガレットまでが目を真ん丸に見開いた。


「やっと、やっと受け入れて頂けましたのね! わたくし、幼い頃からお父様にも、陛下にも、王妃殿下にも、婚約を解消したいとお願いしておりましたの! どうしても駄目だと言われて泣く泣く諦めておりましたのに……! ありがとう存じます、殿下!」


「ちょ、ちょっと待ってくれ! 私は聞いていないぞ! 第一婚約破棄はっ」


 何故か狼狽えているエルンストに首を傾げつつ、晴れ晴れとした気持ちで笑顔を浮かべる。


「大丈夫ですわ。エルンスト様とマーガレット様の仲は噂で存じておりますし、祝福させていただきます! マーガレット様、今から王妃教育は大変でしょうけれど、愛があれば頑張れますわ! 遠くから応援させていただきますわね。ああ、それからわたくし、婚約破棄された身ですから修道院に参ります! 決してお二人の邪魔などいたしませんから、どうかお幸せに!」


 エルンストの婚約者に定められてから一度たりとも感じなかった華々しい気持ちで笑みを振りまくと、何故かエルンストや側近達の動揺が深まった。


「ま、待ってくれ、エリザベス! 殿下との婚約が破棄されたなら、私と婚約すればいい。それならあなたの名にも傷はつかない筈だ!」


 宰相の子息であり、怜悧な美貌と明晰な頭脳で令嬢達を骨抜きにしている事で知られるオーガスト・ミュラーが滅多に見られない慌てふためいた表情で手を差し伸べる。


「オーガスト! お前抜け駆けする気か! エリザベス、オーガストより俺を選んでくれ! 絶対に不自由はさせない! 子供の頃からずっとエリザベスが好きだったんだ! 修道院なんて行かなくていい!」


 オーガストを押しのける様に手を差し伸べて来たのは騎士団長の子息であり、精悍な姿と騎士らしい振る舞いが令嬢達に人気のアルフレッド・ドレインだが、彼もまた横から伸びて来た手に押しのけられた。


「君達さあ、焦りすぎでしょ。 公爵閣下が修道院行きなんて許す訳ないんだから! でも、エリザベス、僕はこの二人より絶対に出世するし君を何より大切にするから、僕と婚約しよう? 修道院に行くなんて、そんな事言っちゃだめだよ」


 ね、とあざとい仕草で小首を傾げるのは未来の王宮魔導士長は確実とささやかれ、愛らしい童顔が年上の令嬢達に絶大な人気を誇るシリル・アーヴァイン。


 殿下と共に幼い頃から付き合いの深い三人からの予想外の申し出に目を見開いていると、愕然としていたエルンストが目を怒らせた。


「何を言っている! エリザベスは私の婚約者だ!」


「今破棄を申し出たでは無いですか。学園で流れる殿下がマーガレット嬢に夢中だと言う噂を否定なさらなかったのは、殿下ご自身ですよ」

「そうだな。俺も殿下が否定なさらないから、マーガレット嬢を後釜に据える物だとばかり思っていたぞ」

「そうそう。いつも腕に纏わりつかせてたじゃない。大丈夫だよ、エリザベス嬢は僕らの誰かが幸せにするから。幼馴染で気心も知れてるし、ね」


 肩を竦めて言う三人に、エルンストが何か言いかけた所でマーガレットがその腕を抱き締めたまま叫ぶ。


「ど、どうして!? 皆あたしの事、好きなんでしょう!? いつもあたしと一緒にいてくれたじゃない!」


「それは……学園長に君がなじむまで世話してくれと頼まれたからだろう?」

「いえ、別に」

「あまりはしたない令嬢は好ましくないかな……」

「君、凄く作ってるでしょ。ちょっとあからさますぎじゃない?」

「「「お前が言うな」」」


「ひ、酷いわ! エリザベス! あんたがちゃんと悪役令嬢をしないからゲームが進まないのよ!?」


「悪役令嬢? 何を言ってるんだ、エリザベスは天使だろう?」

「殿下達は騙されてるのよ!」


 何やらこちらを他所にわいわいと騒いでいる五人を眺めながら、エリザベスは面倒ごとの予感をひしひしと感じて眉を顰めた。


 エリザベスとしては婚約破棄も修道院も望む所なのだが、確かに父はすぐに納得しないだろうし、将来有望なこの三人から求婚されたとなれば婚約破棄が成立してもすぐに誰かと婚約させられてしまうだろう。


 それを回避するにはどうすればいいかしら、と少し考えたエリザベスは、ふと目に入った裁ちばさみに眉を上げてからにっこりと微笑んだ。


 すぐさま刺繍道具を手早く片付け、荷造りをしてから手を伸ばし、まずは後ろで髪を纏めていたピンを抜く。


 今日の髪型は偶然にも一本の三つ編みを巻き上げたもので、四本ばかりのピンを抜けばすとんと落ちて来た金色の三つ編みを掴んで鋏を握った。


「お三方のお気持ちは嬉しいですけれど、わたくし、ずっと修道院に入りたく思っておりましたの。ですからお断りさせていただきますわ」


 そう宣言する言葉に振り向いた若者たちが目を見開く前でジャキン、と重い音が響く。


「なっ………………」


 一瞬で終わったその音と同時に、握りしめた三つ編みがだらりと垂れ下がり、頭が軽くなった。


「う、うわあああああああああああああああああああ!!!!! 何てことを!」


 室内に若者たちの絶叫が響き渡る。

 この国の女性は貴賤を問わず必ず腰以上の長さまで髪を伸ばしていて、それを切るのは修道女だけ、罪人すら髪を切られることは無い。


 エリザベスが今行った事は、貴族女性としての彼女の人生の終焉を示していた。


「この通り髪もすっきりしましたし、もうどなたにも嫁ぐことはできませんわ。婚約破棄は殿下からの御下命との事、陛下にお伝えくださいませ。では、わたくしはこれにて失礼させていただきますわ。修道院より、皆様のご多幸をお祈りさせていただきますわね」


 呆然として声も出ない青年達ににっこりと微笑み、見事なカーテシーを披露したエリザベスは脇に置いていた帽子を被ると裁縫道具を手に軽やかな足取りで部屋を出る。


 この髪を見られれば騒ぎになるのは解っているから、帽子を目深く被って人目を避け、淑女としてぎりぎりの速度でエントランスを目指すと朝から待機している公爵家の馬車に飛び乗り、驚いている御者に緊急だと告げて公爵家への道を急がせた。


 彼らが呆然としている間に出来るだけ距離を稼がねば、父に報告が行ってしまう。

 エリザベスを可愛がっている父が修道院行きを認める筈が無いから、追いつかれる前に目的の場所へ駈け込んで誓いを立てなくてはならないのだ。


 エリザベスとて、あの婚約破棄がちょっとした警告……と言うよりもあまり気の無いエリザベスに嫉妬して欲しいだとか言う面倒な理由で繰り出されたものだという事は解っているが、エルンストを嫌いではないが結婚はご遠慮被りたかったエリザベスに与えられた最後のチャンスを逃すわけにはいかない。


 それを思えばあの場では神妙に涙でも見せておけばよかったのだが、喜びの余り満面の笑みで受諾してしまったのは失敗だった、と考えながら、公爵邸へ到着するなり馬車を飛び降り、部屋へ向かった。


「アンナ! ネロはどこにいるかしら!?」

「お嬢様!? 随分お早いお戻りで……ネロ様でしたらお部屋におられましたよ」

「ありがとう、アンナ。それからお願いがあるの。部屋に一緒に来てくれるかしら?」


 微笑んで頼めば、幼い頃から傍に仕えてくれている二十を少し過ぎた侍女は頷いて部屋まで付いてきてくれる。


「ネロ! 会いたかったわ! ああ、なんて素敵な尻尾なのかしら!」


 部屋に入るなり、ぶにゃあと鳴きながら擦り寄って来た黒い猫を抱き上げてその頬に口付けた。

 ネロは仔猫の頃から一緒に暮らしている八割れの黒猫で、少し……いやかなりぼってりした体に低い声、胸元と足先、短めの尻尾の先の白がタキシードの様な、金の瞳の素敵な紳士だ。


「相変わらずお嬢様はネロが大好きでございますねえ。それで、お願いと言うのはなんでございましょう?」

「ああ、そうだわ、時間が無いの。わたくし、婚約破棄されたのよ! 今すぐ修道院に向かうわ!」


 歓喜と共に告げると、エリザベスの事を知り尽くしているアンナは流石に驚愕の顔を見せたもののすぐさま動き出す。


「荷物はもう出来ているの。馬車は待たせているし、最速でアマルナ修道院に到着したいから、いい馬を付ける様伝えてあるわ! アンナには到着まではついてきて欲しいけれど、その後は屋敷に戻ってもいいし、別の屋敷を探してもいいわ。紹介状は書いてあるの」


 婚約破棄される予定は無かったが、こうなったらいいな、と夢想して作っておいた荷物を寝台の下から引っ張り出したエリザベスはネロを籠に入れ、蓋をしてから引き出しの紹介状をアンナに渡し、家族や友人、長い付き合いの使用人達宛ての、これも夢想して書いていた手紙を机の上に置いた。


「はあ……これまた準備万端でございますねえ。とりあえず、しばらくはお嬢様と一緒に修道院にお世話になりますわ。その後の事はまた考えましょう」


 言いながらエリザベスの荷物を受け取ったアンナについて、ネロの籠を抱えて部屋を出る。


「お嬢様、どちらへ向かわれるのですか?」


 エリザベスの急な帰宅を聞いて駆けつけて来たらしい執事に、落ち着き払った態度で微笑んだ。


「アマルナ修道院に。学園で……その、殿下と男爵令嬢の噂を聞いて辛かったから、気晴らしに行きたいのよ。あそこに行くとわたくし、元気になれるでしょう?」


 溜息交じりに言えば、最近のエルンストとマーガレットの噂を聞いて怒っていた執事は嘆息して頷いた。


「畏まりました。護衛はお付けしておりますので、お気をつけて行ってらっしゃいませ」


 深々と頭を下げる執事にねぎらいの言葉をかけ、優雅な足取りで馬車に乗る。


 屋敷を出て角を曲がるまではゆったりと、そこからは街中でも許される最速で王都の外れを目指した。


「しかし、本当に宜しかったのでございますか……? 殿下も、本気で婚約破棄など告げられたのではないでしょうに」


 事の次第を話して聞かせたアンナの言葉に、エリザベスは肩を竦める。


「そうでしょうね。でも、最初に婚約破棄と仰ったのは殿下だわ。ここに乗るしか逃げる機会は無いでしょう? 何も言われないのに勝手に逃げれば流石に問題になるけれど、元々の、それこそ市井にまで流れるような殿下とマーガレットの噂に加えて今回の婚約破棄を匂わせるお言葉。噂に傷付いていた公爵令嬢なら涙に暮れて修道院に駆け込んだって仕方ないわ」


 実際、公爵家の馬車で街を進む時に噂を信じた庶民に馬車の外から罵声を浴びせられた事もあるし、社交界でも学園でも既に笑い者になりつつある。

 エルンストが昔からひねくれた感情をエリザベスに寄せていたのは知っていたが、噂を否定するならともかく放置した挙句、マーガレットを好きにまとわりつかせていた段階で幼馴染としての情も尽き果てた。


 側近三人の気持ちについては正に青天の霹靂だが、エルンストとエリザベスの婚約破棄を狙っていたらしい彼らがやはり噂を否定せず、むしろ煽る様に二人を持て囃してマーガレットを増長させていたのだ、

 その間社交界でずっと肩身の狭い思いをし、嘲笑に耐えていたエリザベスとしては彼らとの結婚もあり得ない。


「だいたい、殿下は犬派の上に猫が苦手なのよ? わたくしだって犬は嫌いではないけれど、愛しているのは猫なの。 わたくしの意見も聞かずに、結婚したら大きな犬を沢山飼って、なんて事ばかり言うし、結婚したらネロは屋敷に置いて来るものと勝手に決めつけているし……ありえないわ」


 それでも義務と思い、エルンストの意向に従うつもりでいたのに、前述の件で情も尽き果てたエリザベスはこの絶好の機会を余すことなく活用する事に決めて、今回の暴挙ともいえる行為に走ったのだ。

 今更撤回など絶対にする筈が無い。


 そんな事を話しているうちに、馬車は王都の外れ、民家がまばらになって田園が広がる草原の、小さな丘の上に建てられた石造りの建物の前で止まった。


 御者には休むように伝え、楚々とした足取りで通いなれた修道院の門へ向かうと、柱の上を見て微笑む。


「こんにちは、ミッシェル。今日も見張り番をしているのね」


 笑みを含んだ声に愛らしい声で答えたのはこの場所を気に入っている灰縞の猫で、緑の目を細めてゴロゴロと喉を鳴らしている姿に頬を緩ませながら通用門を潜る。


「ああ……っ……アンナ、やはりここは天国だと思うわ」


 門を潜り、石畳の道を歩むとそこかしこに猫がいる。


 おびただしい、という数では無いが、道を歩けばしっぽをぴんと立てた錆猫が先導してくれるし、心地よい日向では数匹の猫が身を寄せ合って目を細め、ふと見た隙間から黒猫の黄色い目がこちらを見上げていた。


 どの猫も警戒心は薄く、毛並みもつやつやとして幸せそうだ。


 そう、この修道院には猫が多い。

 元々この修道院に祀られているのは白猫を肩に乗せた夜の女神で、女神の使いであり、月の化身とも言われる猫は大切にされていたが、二百年ばかり前の院長が無類の猫好きだった為に無理のない範囲で行き場の無い猫達を引き取った結果、今は猫及び猫好きの天国というべき場所になっている。


 ちなみに代替わりの時に次期院長として運営能力と同じ程に重要視されるのは、猫に愛されるか、ではなく猫をいかに愛しているか、であり、勿論当代の院長も無類の猫好きだ。


 敷地内には百合やチューリップなど猫の体に悪い植物は、畑の、厳重に柵に覆われた玉葱程度しか無いし、そこかしこに猫が遊びやすい段差や隠れ家になる隙間が作られている。


 病や怪我を得る猫、年老いて動きの覚束ない猫も当然いるので、彼らの為の療養室、仔猫の飼育部屋も用意されているし、相性の悪い猫が深刻な状態にならないよう、修道院の中を三つに仕切って相性のいい猫同士をそれぞれに住まわせているという至れり尽くせりの作りだ。


 修道女たちも当然猫好きで、猫が好きだからこそ猫に嫌がられる手入れや診察も欠かさない。

 週に一度礼拝を行う区画にはとりわけ人懐こい猫が住んでいて、猫好きの聖地として王都中は勿論観光客までが礼拝に訪れて猫達と戯れ、猫の為の寄進を行い、修道女たちが作った猫の小物や猫型の菓子、猫の絵などを買い求めていく。


 事情があって飼えなくなった猫もここで引き取り、人当たりの良い猫や生まれた仔猫は礼拝の折に里親探しもする。

 ネロもここで生まれた仔猫で、不細工だからと最後まで残っていた一匹に一目ぼれしたエリザベスが連れ帰った子だから、この修道院は実家であり、今も親が住んでいるうえ、何度も里帰りに連れてきているから何の問題も無い。

 ちなみにエリザベスにとってネロは世界一可愛い猫なので、不細工と言われるのは納得行かないのだが披露した相手がのきなみ不細工だと言うので不承不承それを受け入れている。こんなに可愛いと言うのに、やはり納得できないが。


「お嬢様、それよりも早く宣誓をすませてしまいませんと、旦那様においつかれますよ」


「あ、そうだわ! 早く行きましょう!」


 うっとりと猫達を眺めていたエリザベスは鼻息も荒く建物に入り、既に顔なじみの修道女に、これも顔なじみの院長への取次を求める。


「まあ、エリザベス様。よくおいでになられましたね」


 エレオノーラという美しい名を持つ院長は、齢五十余りと聞くがその年齢よりもずっと若々しく、俗世にあった頃はさぞかし美人だったのだろうと思わせる。


 腕にほっそりとしたエメラルドの瞳に灰色の毛並みの猫を抱いた院長の穏やかな声に、エリザベスは顔をほころばせた。


「急にお尋ねして申し訳ありません、院長様。……わたくし、実は婚約を破棄されましたの。ですので、この修道院で修道女になりたいのですわ。急ぎ、宣誓式を執り行って頂けないでしょうか」


「……エルンスト殿下が? まさか……いいえ、詳細を聞くのはよしましょう。ここは俗世と離れた場所ですものね。エリザベス様のお気持ちは、幼い頃から良く存じております。……お急ぎですのね?」


 いたずらっぽい顔で笑う院長に、同じ様に笑みを返す。


「ええ。大至急ですの」

「承りましたわ。他のお嬢様でしたら一週間は引き留めますけれど、ほかならぬエリザベス様ですものね。では、宣誓室へ参りましょう。ミランダ、用意して頂戴」


 挨拶もそこそこに懇願すると、流石に院長も驚いていたが、もともと彼女もエリザベスの気持ちはよく知っていたからすぐさま宣誓式を執り行ってくれた。

 ちなみに修道院や神殿は治外法権の駆け込み寺の様な物で、ここで宣誓を行ってしまえば国王とて無理矢理引っ張り出す事は出来ない。

 おまけに、今の院長は現国王の乳母だった女性で、夫と生まれて間もない子を同時に失った後に国王陛下が十歳になるまで育て終えてから修道院に入った女性だから、国王は余計に手を出せない筈だ。


 既に髪を切っていた事にはアンナにも院長にも、他の修道女たちにも驚かれたが宣誓式を終えてから丁寧に切りそろえ、可愛く整えてくれた。


「ああ……生まれ変わったような気分だわ!」


 修道女の黒い服を身に纏い、頭にウィンプルと呼ばれる黒い布を被ったエリザベスは幸せに満ちた溜息と共に籠から出したネロを抱き締める。

 父の追っ手はまだ来ていないから、殿下達はまだ混乱しているのかもしれない、と思いつつ、他の修道女達と共に新人修道女が最初に任される猫のトイレ掃除に取り掛かった。


 いつかこの修道院に入る事を夢見ていたエリザベスは、それが叶わぬ夢と思いながらも訪れる度にこうした雑務をさせてもらっていたから今更ためらいもしない。

 民家が無い森に面した壁が殆ど無く、他の面にも大きな窓を作られた部屋は風通しがいいから臭いもさして気にならないが、寄生虫がいる事もあるので口には布を、裾ははしょり、手袋をはめて敷き詰められた柔らかな土をシャベルで掬い上げて移動させて新しい土に入れ替えた。


 掬い上げた土は専用の箱に入れておけば近隣の農家の者達が持って行って、正しい手順で堆肥にして使い、出来上がった農作物から一部を修道院に寄進してくれる仕組みになっている。


 重労働ではあるが、愛する猫たちの健康の為であれば誰も手抜きはしないし、手抜きをする様な修道女はここではやっていけないのだ。


 汗を垂らしながら作業を終えるとすぐに清潔な井戸水で手足や顔を洗い、うがいをした頃には日が傾いてきて、修道院の中に入ると食事を知らせる鐘が鳴る。


「わたくし、こんなにお腹が空いたのは初めてですわ、カタリナお姉さま」


 テーブルに並べられた、素朴だが温かい料理を前にエリザベスは微笑みを浮かべた。

 姉と言っても勿論実の姉ではなく、修道女となった以上皆姉妹であり、年齢にかかわらず後から入った者が妹と扱われる故の事。


「あの作業は体を動かすものねえ。エリザベス様……いいえ、エリザベスは最後までやるのは初めてだったもの。疲れたでしょう?」


 以前から良く見知っているカタリナは、エリザベスが修道院を訪れる度に、貴族なら嫌がりそうな汚れ仕事も積極的に手伝っていたのを知っている。

 しかしやはり院側も遠慮があり、重労働は少し経験させるだけに留めてあったのだ。


「ええ。やっと最後までさせていただけましたわ! わたくし……いいえ、私、本当に嬉しくて。こんなに幸せな事、他にありませんわ」


 言いながら膝に乗ったネロとその弟にあたる黒猫を撫でる。彼らは既に夕食を食べているので人間の食べ物を欲しがることも無く、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「ふふ、本当に幸せそうね。私もここは天国だと思うわ。食べるにも困らないし、猫達は可愛いし、院長様もお優しいし。勿論暮らしているうちに苦労もあるでしょうけど、何でも相談して頂戴ね」

「ありがとう……嬉しいわ、カタリナお姉さま。私、ずっと皆さんをお姉さまと呼びたかったの」


 商家の娘だったが家が没落し、食うに事欠いた末に修道院に入ったのだと言うカタリナは穏やかに微笑んで、やはり膝に乗っている白猫を撫でる。

 他の修道女達とも穏やかに言葉を交わすうちに院長が入ってきて、夜の女神イールドとその愛猫、ルーニスへの祈りをささげてから食事が始まった。

 ちなみにアンナはお客様なので、別室で他の逗留客と美味しい食事を食べている。


 猫だけではなく人にも幸せな食事を、と言う方針の元、祈りが終わってからよそわれたシチューはじゃがいもに人参、キャベツと燻製肉に庭で育てているハーブや月桂樹の葉と塩を入れただけの素朴なものだが、エリザベスがいつも食べていた毒見済の冷え切った料理よりずっと美味しく感じられた。

 湯気を立てるじゃがいもを木の匙で半分に切り、少し冷めるのをまってから口に淹れれば、ほろり、と崩れたじゃがいものほくほくとした食感とあまみが口一杯に広がる。


 思わずうっとりと目を細めながら味わい、薄切りの豚の燻製肉を残りの半分と一緒に食べると、じゃがいもの甘みに燻製肉の塩味や風味が加わって震える程のおいしさだった。


 パンは三日に一度焼くという大きな塊から切り出したもので、表面はこんがりとした茶色に白い粉を噴き、断面は少し灰色がかった薄茶色だ。

 確かに柔らかくはないし、ライ麦のパンだから酸味はあるけれど、シチューに浸してよく噛めば野性的な味が趣深い。

 焼きたてが出る日は皮がパリパリとしていて美味しいのだと聞いて楽しみに思いながら、添えられたチーズをパンに乗せて食べると、ライ麦の酸味とこくのあるチーズの旨味が思いの外良い組み合わせで、目を見開く。


 ふと見回せば、他の修道女が幸せそうにワインと共にパンに乗せたチーズを食べているのが見えて、いずれワインを許される年齢になれば試してみようと決めながら香草の茶を飲んだ。


 食後には近隣の農家から貰ったと言う大粒の葡萄が一人五粒配られ、うすく粉を履いたような美しい緑の粒を皮ごと口に入れ、噛み潰すとじゅわりと染み出た果汁の、少し酸味のある甘さが口の中をさっぱりと洗い流してくれた。


 膝に猫を乗せたままの食事も温かい食べ物も、公爵家や王宮で供された料理を食べ終えた時よりもずっと幸せだと思いながら食事を終え、他の修道女たちに教えられながら洗い物や後片付けを手伝うと、眠るまでの時間は自由に過ごす事が出来た。


 どの様に過ごそうかと思いながら交流室に向かうと、他の修道女たちは部屋に置かれた本棚の本を読んだり、香草茶や紅茶、差し入れに貰ったものや失敗した売り物の菓子などを持ち寄り、猫を愛でつつ会話を楽しんでいて、早速それに混ぜて貰う。


 もともとエリザベスは猫好きの余り雑用をしたがる変わった公爵令嬢、しかも王太子の婚約者として修道院ではよく知られていて、皆顔見知りばかりだったから弾かれる事も無い。

 婚約破棄の事は聞いているのだろうに、誰もその事を聞いてこないのも嬉しかった。


 そもそも、この修道院にいる人間はすべて猫好きだから、あまり顔を合わせた事の無かった修道女とも猫の毛を櫛削りながら猫のすばらしさについて語ればすぐに意気投合出来る。

 社交界で腹の探り合いやマウントの取り合いばかりしていた無駄な時間に比べて、ここで猫を愛でながら過ごす時間はなんて幸せなのだろう、と溜息が零れた。


 何せ、ここではネロのお腹を心行くまで吸っていても猫に人間の言葉で話しかけても、誰も奇異の目で見たりしないのだ。

 むしろ向こうにいるカタリナの方がエリザベスより余程激しく乱れているが、やはり誰も気にしない。

 ここにいるのは全てが仲間。

 社交界はもとより市井にいてもちょっと奇異の目で見られてしまうほどの重度の猫好きしかいないのだ。


 なんて幸せなのだろう。

 愛しいネロの肉球をぷにぷにと揉みしだきながら、エリザベスは至福の溜息を零した。



◇◇


 まだ薄暗い夜明け前、起床を知らせる重い鐘の音にエリザベスは目覚めた。


 ベッドは狭いが、猫が一緒に寝る事が多いからという理由で布団はそこそこ良いものが敷かれているものの、今のエリザベスは身動き一つ取れない。


 首と肩の間にはふんわりした塊がある。これはネロで、公爵邸にいる頃も、真冬と真夏以外はこうして寝ていたから慣れている。


 しかし、今はまず右脇にもう一つの塊がある。

 見えないのでどの猫かは解らないが、その感触から布団の中に入り、脇下あたりでくるりと丸まっているのが良く解った。


 反対側にも猫がいる。しかもこれは二匹。上の方にいる一匹は小ぶりだからまだ若い子だろうか。

 こちらはだらりと伸びていて、やはり身じろぎ一つしない。

 もう一匹は手首の辺りにいて、あろうことかエリザベスの手首にぎゅっとだきついているし、喉がゴロゴロなっているのが振動で解る。


 胸の上にも一匹。布団の上にいて、こちらに向いたお尻は鯖猫と言われる灰色の猫で、とても愛らしいが尻尾の先で顔を撫でるのは勘弁してほしい。

 勿論とても気持ちよいのだが、万が一くしゃみをして驚かせてはいけないと思うと気が気ではない。


 更に、足の間にももう一匹、もしくは二匹いる。

 これは布団の上だが鯖猫に遮られて姿は全く見えなかった。


 もっと早い時間に起き出す朝の餌当番の修道女から餌を貰った後なのだろう猫達はこの上なく幸せそうに眠っていて、起こすのは忍びないにも程がある。


 ちなみにとても重いし苦しいのだが、猫好きにとって夢の様なこの状況に幸せと、起床せねば、という苦悩と双方に苛まれて只管じっとしていると、扉がノックされた。


「エリザベス、もう起床の時間だけれど……あらあら、やっぱりこうなっていたのね」


 ノックの後、反応が無いからと入って来たカタリナがくすくすと笑う。


「カ、カタリナお姉さま……! 私、懲罰を受けますわ! 受けますから、どうかこのまま……!」


 幸福に眩暈を感じながら懇願するエリザベスに、カタリナが首を傾げた。


「あら。でも懲罰は猫との接触禁止三日間よ?」


「起きますわ! で、ですけれど……どうやって起きれば良いのか……っ」


 ネロ一匹ならそうっと抜け出せばいいが、今の状況では猫を起こさずに抜け出す事など出来る筈が無い。


「どかせばいいのよ。大丈夫。ちょっと迷惑そうな顔をするだけですぐまた寝てしまうわ。……この子達の眠そうで少し迷惑そうな顔、とても可愛いのよ?」


 言いながらカタリナが胸の上に載っていた鯖猫をそうっと抱き上げ、脇へよけると鯖猫はぐんにゃりとした体をぐぐっと伸ばし、微妙に面倒くさそうな顔をして幾度か口をもぐもぐさせ、そのまま再び眠り始めた。


「か、可愛い……可愛いですわ……っ……! 私、心を悪魔にして頑張りますわ!」


 余りの愛らしさに眩暈を感じながら、そうっと腕を引き抜いて一匹だけの猫を横によけ、体を起こす。


 見てみれば足の間には大小の黒猫と白黒ぶち猫の二匹がいて、カタリナに教わった通りそろそろ足を抜くともぞもぞ動いて再び身を寄せ合い、眠りに落ちる様が悶絶する程に愛らしかった。


「はあ……朝から幸せ過ぎて……心臓が止まってしまいそうですわ……」


 激しい動悸に胸を抑えながら言うとカタリナがくすくす笑い、身支度を手伝ってくれる。


 自分一人である程度は出来るが、やはり昨日まで公爵令嬢だったエリザベスにはまだ難しい事も多いから、有難かった。

 アンナは修道院に滞在しているが、エリザベスが早く慣れる様に、と手伝いは禁止されているので今ごろ客室でのんびりと猫を抱いて寝ているのだろう。彼女もエリザベス程ではないが猫好きだ。


「今日あたり、公爵様達が押しかけてきそうだけれど……院長様が弾き返してやると笑ってらしたから安心なさいね」


「ええ。信頼しておりますわ。お父様とは、お父様が落ち着かれたら改めてお話してこれからもわたくしの為に寄進していただけるようにお願いします」


 エリザベスの為に、と言えば父と兄は今後も寄進してくれるだろうが、贅沢になんの未練も無いのでその寄進は修道院の運営と猫の為に使う。

 これまでも自分の裁量で可能な限り寄進してきたから、それを続けて貰えるよう説得せねば、と思いながら、エリザベスは朝の礼拝に向かうべく、晴れやかな気持ちで部屋を後にした。


 その後、泣きつく父と兄をどうにか説得したものの、猫嫌いのくせに押しかけて来た元婚約者や幼馴染達を何度も追い返す壮絶な争いが巻き起こったり、何故か文句を言いに来たマーガレット嬢を猫の魅力に目覚めさせたり、新たに現れた猫好きの貴公子に口説かれたりと賑やかな日常が待っている事を、エリザベスはまだ知るよしもなかった。



同時に二話目を投稿しています。よろしかったらお読みください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 御著、他作も読ませていただきました。<(_ _)> 言葉選びや日本語がきれいで読みやすいと感じました。プロットから勧善懲悪で作り込まれていて、ざまぁ確定とわかっていてもワクドキしました。 …
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