不思議な一日
01
伸ばした手が虚空を掴む。虚空を掴む、というのはどういうことなのか。なにもない空間を行き場のない手が静かに閉じたり開いたりを繰り返す。その手にはなにも残らないのに錯覚で何かが掌に残ったと感じている。
でも今朝は違った。
確実にその手に温もりが残っていた。虚空を掴もうとした手に誰かの手が重なる。不快感はない。優しく掴まれた手を優しく握り返す。
「…状況確認から始めようか」
「それについては大いに同意しようかな…」
独りごちた言葉に出会ったばかりの深緒が言葉を返す。別に確認するまでもない。終電のない彼女に寝床を、自宅を提供し朝になり目を覚ましたという結果だけなのだ。流石に下心はないとはいえ、シングルの狭いベッドに二人並んで寝ることは過ちも起きかねない。湊は床で雑魚寝を提案したが深緒がそれを許さなかった。狭いベッドに反発するかのように背を向け合いながら寝ていたが起きてみれば身を寄せ合うように寝ていたというのが結果だ。
「おはよう」
「…おはよう」
深緒の挨拶に一瞬、間が開きつつも応えを返す。果たして何年ぶりだろうか。斯様な状況下で誰かに日常的な挨拶を交わしたのは。お互いに着の身着のままで寝ていたので皺だらけのスーツになっているが気にも止めずにベッドから抜け出し冷蔵庫に手を伸ばす。
「微糖とブラック。お好みはあるかい?」
「缶コーヒー?まぁ微糖で大丈夫よん。ありがと」
出会ってから一日とて経っていないのに会話がフランク過ぎるのはお互いのキャラクターの問題なのだろうか。ベッドに腰をかけ直した深緒に手にしていた缶コーヒーを投げ渡す。
―カシュッ
プルタブの開く音が小さく部屋に響き渡り、口にしながら思考を回す湊。意外と冷静に見えるが内心では焦っていた。状況が状況なのだ。正確な年齢など分かってなどいないが、状況検分にあたりギリギリのラインであることにかわりなどない。
「んーー」
飲み干した空き缶をテーブルに置き硬くなった身体をほぐすように伸びをする深緒。置いてあった煙草に手を伸ばすが灰皿がないことに気が付きその手を引っ込める。そんな様を見て湊は傍らに放ってあった電子タバコを渡す。
「悪いね。当店は禁煙店となっておりまして」
「iQOSはOKなら素直に喫煙店にすればいいのに」
受け取ったiQOSを加えながら深緒は言葉を零す。
「布団がヤニ臭くなるのは嫌なんだよ。我が家のルールだ。文句言うな」
ハイハイ、と適当に相槌を打ちながらぷかぷかと煙を吐き出す。その様はどこか絵になっており、なんで彼女が家にいるのか、改めて不思議な感覚に陥る。
―本当に何をしているのだろうか。
やり場のない視線を窓の外に向けて溜息を零す。自分の行動に対して理解が及ばないことに吐き気を催しながら手元にあったスマホに手を伸ばし時間を確認する。時刻は昼を回ろうとしている。幾分腹が減るタイプではないのだが彼女はそうではあるまいと思いつつ再び冷蔵庫に手を伸ばし食材の確認をするが、確認するまでもなかった。乱立された珈琲と酒の壁。冷蔵庫の中身が湊の生活を物語っていると言っても過言ではあるまい。更に溜息を零しつつ冷蔵庫を閉め、寛いでいる深緒に声をかける。
「リクエストがあれば何か作るけど?」
「お昼?へぇー料理とかする…」
トテトテとキッチンへと歩んできた深緒は改めてキッチンを見回し、これはこれは、と言葉を漏らす。
「まぁ趣味レベルの技術だけどね。人様に食べさせたことなんて数えるくらいだからご期待に添えるかは分からないし、ココ最近は料理してないからな」
期待なんかしないでくれ、と言外に意思を込めて言葉を突きつける。どちらにせよ買い出しには出なくてはいけない。果たして、よく理解もしていない彼女を置いて買い出しに行くのもどうかと思う。だからといって一緒に行くのもどうかと思う。
…さて、どうしたものかと悩ませていると、深緒からせっつかれる様に声を掛けられる。
「悩んだところで無為に時間を浪費するだけだよ?即断即決即行動!」
財布を握り、湊の手を握り、しわくちゃなスーツ姿で玄関へと向かい、放られていたサンダルに足を入れると勢いそのままに扉の外へと駆け出していく。その行動にあっけらかんとしながらも身体がそれについて行くのだから不思議なものである。
「しっかり握り締めた財布が俺のってのがまたなんとも言えないな、現実主義者」
「貴方の家の備蓄になるのだから当然でしょ?」
やれやれ、とため息を零しながら先を行き手を引っ張る形の深緒に追いつきその横に並ぶ。そこまでくればあとの流れなどは手に取るように操れる。横に来たことで掴んでいた湊の手を離す深緒。そしてその手を引っ張られる形から握り返す形に変える湊。その行動に深緒はきょとんとした顔で湊を見上げ、俯き、前を向いて湊の手をぎゅっと握り返した。生憎と湊に彼女の顔は見えない。果たしてどんな顔をしてるのだろうか。
不思議な二人の日常が幕を開けた一日は、とても青空が澄み切った雲ひとつない快晴の日だった。
二人で買い物を済ませ、当然中にはアルコールも含まれているが多分に気にはしない。休日なのだ。昼からお酒に手を出したところで文句を言われる筋合いなどない。買った材料を拡げて手早く下拵えをこなし、パスタを茹でる。酒を飲むのであれば炭水化物に手は出さないタイプではあるが空きっ腹に酒を入れてろくな思い出もないので酒を飲む前に腹を膨らませる。
「くぅぅー」
横では呑気に缶酎ハイに手を出していたりもするが気にもしない。茹でたパスタをフライパンで和えるように混ぜてサクッと完成。
「ほれ、できたぞ」
2つ分の皿を持ち、言葉でテーブルを開けろと指示を出す。パスタとは実に便利である。手間暇かけずに簡単に調理ができるのだから。横で頬張るようにパスタを食べている深緒を見ながら口にはあってるようでなによりと静かに感想を持ちつつ湊も食を進める。進めながら改めて考えもする。
―なにをしているのか、と
綺麗に完食された皿をキッチンに投げ捨て、漸くと言った感じで置いてあった酒に手を伸ばす。
「これからどうしようか?」
「言葉の理解に苦しむね…」
どうするもなにもない。なし崩し的に彼女は家にいるがこれ以上に発展などないのだから。この飲み会が終われば深緒との関係も終わる。とりとめもない話をしながら空は夕闇に暮れていく。
「どうしようかな」
深緒が独りごちる。その意味を見いだせずに流すように言葉を聞き、次を促すように沈黙を保つ。話は聞いてる。聞いてるからこそ何を言いたいのかを促す。促しながら彼女の言葉を解析し、更にその先にある答えを幾重にも導き出す。やるならば上手く操作をするべきかと冷静に、酒が入っていながらも、冷静に判断を下す。だからこそ答えの出さない深緒の次の言葉が、当たり前の言葉が浮かび、口にする。
「なにが?」
湊は当たり前のように先を促すように言葉を紡いだ。無論裏があるからこその言葉だ。現状の維持を求めている訳では無い。単純に明確な答えが欲しかっただけなのだ。疑問を言葉にすれば人は答えざるを得ない。先に進むためには言葉が必要なのだ。そんな投げやりな疑問に対して深緒はひとつ深い溜息を出すことで答えを出した。
「はぁぁ」
答えにならない答えは迷いがあるということなのだろう。迷いとはなにか。それに推測を重ね更に答えを分岐していく。
「なにがあったのかは知らないけれど、帰れる場所があるのなら帰った方がいいよ。今日のは特別で特例で例外で。本来であればあっては行けない事象なのだから」
そばに置いてあったiQOSに手を伸ばし咥えながら目の前に座る少女に言葉を紡ぐ。その言葉に、きょとん、とした顔をし、次の瞬間には、くしゃっ、と顔を破顔させる深緒。
「あはははっ!別になんにもないよ」
その笑顔を見ると心が痛む。
心が痛む?
何故?
自問自答が繰り返される。最適解はなにかと独りで深く深く潜っていく。
「君はさぁ……楽しい?」
「楽しい?」
「人生が楽しいか?」
ガチリと歯車が廻る。見えない歯車が回ったのを湊は感じた。それに違和感を覚えつつ湊は問に対して答えを思考する。
「私はどこに行けばいいんだろうね」
「帰る場所がないのか?」
寂しげに放たれた言葉が湊の感情を揺さぶる。家が無いわけではあるまい。帰るべき場所はあるのだろう。それでも彼女の言葉に思うところがある。それはなんだったのだろうか。
「よくある話だよ。両親の離婚で、再婚で。よく知りもしない家族がひとりふたりと増えた。たったそれだけ」
伸ばした手でアルコールを掴み、プルタブを開ける。くいっ、と缶の中身を呑みながらに深緒は話を続ける。
「環境の変化なんて当たり前なんだけどさ。それに上手く対応できてない私がいる。連れ子も可愛いし、新しい父親も凄くいい人だし、自分の目で見ても他人の目で見ても幸せな家族だと思う。思うけれど……」
此処は私の居るべき場所ではない。
深緒は言葉を紡ぐ。それを静かに耳にしながら湊も新しいアルコールに手を伸ばす。本当によくある話だ。子供の頃ならいざ知らず、大人になると判る疎外感。いや、内容的にはつい最近の出来事なのだろう。子供の頃ならば今現在、そこまで重くはならない。
「居たくないわけじゃないの。でも居たい訳でもない。バランスを取っているつもりだけれど不均等に崩れ落ちていく感覚」
深緒はiQOSを手に取り深呼吸するように息を整え煙にもならない煙を肺に溜め込み吐き出していく。ゆらゆらと揺れる煙を見つめながら意識が遠のいていくのが目に見えて判る。
「私は此処に居ていいのかな?」
膝を抱えながらニッコリと笑みを零した彼女。その笑顔が尊くて美しくて自然と見蕩れてしまった。
「此処に居て良いと思うよ」
ニュアンス違いの答え。深緒の求めている答えでないことは分かっていながらも自然とその言葉が口から吐き出された。吐き出した瞬間に、場違いな答えだなと思いもしたが発せられた小さな言葉を聞いて、間違いじゃなかった、湊はそう思うことができた。
ーそっか。
ー居ていいんだ。
膝に顔を埋めて、小さな嗚咽混じりに吐き出された言葉。居場所はどこにでもある。望めばそこに居ていいのだと。そしてそれは甚だしく勘違いなんだと。居場所は誰かが決めるものでは無い。自分で決めるものなのだと。
判るのだろうか?
いや
判らないだろう。
啜り泣く声が静かに部屋に響き渡る。そんな彼女に手を伸ばすことも出来ず、声をかけることも出来ず、静かに缶を傾けることしか出来なかった。
………………
再び時間は巡る。適度に呑んでいたとはいえ蓄積された疲労が消える訳では無いのだ。疲れれば寝るし、時間が来れば目が覚める。
「またこのパターンかい」
目を開け、横にいる不可思議な生物について録に理解をすることも無く現状を把握する。昨日は昨日であり、今日は今日だ。互いに仕事はあり、故に仕事に行かねばならない。
ーそれでもまぁ。
横に眠る深緒を見つめ、無意識にその頭に手が伸びる。スヤスヤと眠る寝顔に思わず溜息をつき、小さく言葉を漏らした。
「さぁ朝だ。起きよう」
ポンポンと頭を叩き、深緒を起こす。小さい反応を示す彼女を眼に入れながら頭の中で昨夜から思い続けていた言葉を反芻する。
ー世界観が壊れてしまいそうだ。