出逢い
伸ばした手が虚空を掴む。虚空を掴む、というのはどういうことなのか。なにもない空間を行き場のない手が静かに閉じたり開いたりを繰り返す。その手にはなにも残らないのに錯覚で何かが掌に残ったと感じている。
掴み損なったこの手は何を求めて動いているのだろうか?きっとなにも求めてなどいない。ただの挙動でしかないのだ。それでも、きっと、なにかを、掴み、護りたかったのだろうと勝手に自己完結し、静かに目を閉じ現実から虚実へと逃げた。逃げる前にひとつ想いをのせて…
ー生きることは辛いことだ。
そんなどうでもいいことを思い直し、湊という男は意識を手放した。否応なしに迎える明日という現実に辟易しながら、せめて虚実では良いことがありますように、と願いながら。
30歳、独身、彼女なし。
定職に就いてるとはいえ、その仕事に対してやる気があるのかと言われればやる気などない。生きるために働いているだけであり、死ぬと分かれば即刻辞めるような思いで続けている。結局のところ…なんとなくで仕事をしている有象無象の一人である。とは言え、仕事である以上結果を残すためにある程度真面目にこなしてはいるというのが現状だ。今日も今日とて対価に見合った賃金を得るために、仮面を被りながら仕事をしている。
「楽しいですか、仕事?」
「仕事が楽しいと思ったことなんて一度もねぇよ」
後輩に質問されて当たり前のように答える。こんな大人にはなって欲しくはないものだと思いつつ、こんな大人になるんだろうなと思う。フィクションの世界とは違うのだ。ノンフィクションの世界は理想の遥か斜めを行ったところに存在している。本当に生きている全ての人間に対して敬意を表したい。君たちは凄いですね、と。割り当てられた仕事の内容と期限に目を通し、ざっくりと見通しを立てる。
「後半で充分間に合うか…」
気だるく思いながら今日は定時で帰ろうと心に決め、外野から文句を言われないレベルで仕事をしているふりをする。結果さえ出せば過程は求めない。その点に関して言えば実に恵まれていると思う。思考を仕事以外に切り替え、今日はどんな現実逃避をしようかと思いながら手を動かした。楽しくない、と言った仕事もそう考えると悪くはない。人生の楽しみ方など人によりに蹴りなのだから。個人が良いと思うのならばそれで良いのではないだろうか?
早々に仕事を切り上げ帰路につく。特段いつもと変わらぬ光景ではあるが、翌日休みであることを鑑みれば少しばかりは呑みたくもなる。酒をこよなく愛する身としては何処か適当に引っ掛けて行きたいと思うわけなのだろう。目に付いた居酒屋にふらっと、誘われるように入っていく。
「ほんと君は裏切ることはないねぇ」
ビールを片手に思っていた言葉が自然と零れる。これが自然体なのだ。張り詰めていた気持ちが弛緩していく感覚に身を委ねながら摘みを口にしていく。不意に周りを見回せば仲間と楽しく語らう人達。彼らは何に思いを馳せてお酒を口にしているのか。そんなことを考えながら手にしていたお酒を煽る。安酒であろうが酒は酒だ。気持ちも高揚していくのが自分でも良くわかる。
「ん?」
人間観察が趣味ではないが、独りで呑んでいれば自然と観察に落ち着く。そんな中に不思議な女の子を見つけてしまった。今思えばこの時点で湊は彼女に惹かれていたのだろう。普段誰かと深く関わろうとしない湊が思わず声を掛けてしまうのだ。
「独りで呑んでるの?」
その言葉に対してあからさまに怪訝な表情を浮かべるが特に気にすることなく言葉を待つ。酒が入っているのだ。今更引くことはできないだろうと、勝手に自分に納得しながら相手の顔を見つめる。
「ナンパですか?」
静かに返された言葉はありきたりで、返された表情は明らかな拒絶。分かっていたことなので特に気にすることなく湊は言葉を紡ぐ。
「形式上だけ見ればそうなるのかな?まぁ君に対して欲情したから声を掛けたわけではないけれどね。単純に面白そう、と思ったから声を掛けてみた。そんなところかな」
虚ろになっている彼女の眼を正面から見据え思ったことを口に出す。店の人間がどう思うかは分からないが、グラスを片手に反対のカウンターに腰を掛けていた彼女の横に腰を掛ける。行動に対しての特に拒否反応は見られないので気にすることなく手にしていた酒を煽る。
「下心はないって…随分とストレートな物言いですね。まぁ分かりやすくていいですけど」
笑いながら彼女はそばにあった煙草に手を伸ばし火をつける。肺に入れた紫煙が静かに口から零れていく。それに倣うように湊も煙草に火をつけ紫煙を曇らせた。自論ではあるが酒が友達なら煙草は恋人だ。どれもこれも裏切ることは無い、裏切ることが無い、裏切られることが無い。湊にとって無機物こそが愛すべき対象なのだ。
「なんで声を掛けたの?」
「人生に疲れていそうだったから」
質問にノータイムで答えを返す。元よりその質問は想定内だったのだ。答えのある質問ほど楽な質問はない。その答えに彼女の大きな目はパチクリと瞬きを繰り返す。ふふっ、と煙を吐き出しながら彼女は綺麗な笑みを零し、残っていたお酒を一息に飲み干すと小さな声でひとつの提案をしてきた。
「面白いことを言いますね。そうですね…うん。少し場所を変えて呑みませんか?お兄さんとなら面白い話が出来そうな気がする」
「こんな私で宜しければお付き合い致しましょう。それにしてもフットワークが軽いことで。見ず知らず、初対面の人間に対してその発言はかなり手慣れてますね」
冗談交じりに湊は答えを返すと彼女も間を開けることなく答えを返してくれる。
「そこは親に感謝するところであり、出来ないところでもあるかな」
お互いに店員に会計を頼み、二人で夜の街に繰り出す。それが彼女、深緒とのファーストコンタクトだった。