少し幸せな黒髪少女
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「ふいーっ」
レーナ班に与えられた専用の空間。その談話室に存在する大きなソファに思いっきり体重を預けるサッチ。彼女は、身体中の熱気を放出するかのように、大きく息を吐く。
その濡れた長い黒髪は束ねられ、頬は上気しており、その全身は芯まで温まっていた。
二日ぶりの風呂は格別であった。いやきっと、この気持ちよさはそれだけでは無いだろう。
心の底から想いをぶちまけあったレーナ。自己満足ながらも自分が何かを与えることが出来たフィエロ。
サッチにとって誰かと一緒に風呂に入ることなど、何年ぶりだろうか。そんな事を、自分に心を許してくれている二人と楽しめた。
愚痴や相談だってした。愚痴の内容は主にラウィの非常識っぷりについてだが、それでも楽しく笑い合えた。
温泉は、身体だけでなく精神をも癒すと、誰かから聞いた。それはまさに、今のような事を言うのだろう。
(……気持ち良いな。あの時、勇気出してラウィについてきて良かった)
思わず口角が上がる。
『蝉』となってからの二年間。サッチは獣同然の生活をしてきた。
家は差し押さえられて出入りを禁じられていたため、風呂なんか入れるわけもなく、近くの川で水を浴びて済ませていた。
食べ物はその辺になっている木の実や果物を主に食べていた。背がほとんど伸びず、服の大きさに困らなかったのはせめてもの救いか。
そんな日々を送っていたサッチからすると、今の生活など贅沢極まりない。至福の時であった。
しかし、サッチはそれを享受するだけで終わらせるつもりはなかった。
(礼しなきゃな。改めて。アタシを連れ出してくれた、ラウィに)
サッチは、自らが尊敬する蒼い少年を思い出す。そういえば、ここに帰ってきてから、一度も見ていない。
外は既に暗くなっていたが、まだ眠るような時間でも無いだろう。また書庫にでもこもっているのだろうか。
(……待つか)
サッチは、腰掛けていた柔らかいソファにそのまま寝転がる。人が三人は座れそうなその長椅子は、寝る分にもその柔らかさを発揮してきた。
暖炉で火がパチパチと燃えている。外はまだ寒かったが、室内は温もりに満ちていた。現にサッチは、野暮ったい灰色のズボンと長袖の上着のみという随分ラフな格好で体を投げ出している。
サッチは自分の村を出発する際に、家中から衣類を片っ端から持ってきていたのだ。
(談話室か。二ヶ月前にこの隊が全滅する前はきっと、ここは活気で溢れてたんだろうな)
サッチは、何も無い天井を仰向けのまま見つめる。暖炉に照らされるその細い足を組み、物思いにふける。
サッチの生きる目標。みんなで笑いあえる人間関係。
きっとサッチは今回の任務で、そのほんの一部分を掴み取ることに成功した。それでも、まだまだ足りない。
この程度で、サッチは満足しない。まだ、一番大切な人の笑顔を見ていないから。
とある少年の、最愛の姉を見つけ出す。それを達成するまでは、絶対に止まることなど許されない。
その人とも、心の底から笑い合いたいから。その人こそ、一番幸せになって欲しいから。
「あーっ! らしくないらしくないっ!!」
サッチは、頭を掻く。未だ濡れたままのその髪は、彼女の両手を容赦なく湿らせてきた。
どこまでも、素直でない少女であった。
(それにしても、アルカンシエルと契約するってのは、色々と条件がいるのかね?)
今回サッチが任務に向かった、ジャンマド村。
決して裕福な村には見えなかった。確実に、サッチが暮らしてきたタイナ村よりさびれているだろう。
それでも、契約金やら依頼金やら色々と金が必要なアルカンシエルとの契約を結んでいる。
つまりそれは、多少の損失を覚悟してでも、契約する価値があるという事に他ならない。
(タイナ村も繋いでやりたいな。農地も豊富だし、契約したって大して困らねえだろ)
今度エロオヤジに相談でもしてみるか。そんな事を考えていたサッチの耳に、カチャ、と扉が開く音が届いた。
思わず入り口に目をやる。寝転がったままのサッチが見たのは、ようやく帰ってきたレーナの姿だった。
「おかえり。遅かったな」
「ええ、フィエロさんが何か飲むものが欲しいとのことだったので」
一緒にアルカンシエルの大浴場に行ったはずのレーナが遅れてやって来たのは、建物内の道がわからないフィエロを眠るユリウスの所まで案内するためであった。
サッチも付いて行こうとしたが、湯冷めしてはいけないからとレーナに止められた。自分だって風呂上がりのくせに、本当に優しい少女である。
レーナも、そのクリーム色の髪を後頭部の辺りに纏めていた。熱を持って頬が赤く染まっているレーナは、サッチが思わず息を飲んでしまうほどに妖艶で、綺麗だった。
「? どうしたんですか?」
レーナが、そんなサッチの視線に疑問の声を漏らす。
「いや、レーナってやっぱ美人だなってよ」
「な、なんですか急に。そんな事ないですよ」
「そうだな。美人ではねえか。なんか可愛い感じだな」
「……それって褒めてます?」
ジトーっとサッチをむすっとした表情で見つめてくるレーナ。そういうところが、美人ではなく『可愛い』と言われる所以だというのに。
サッチは思わず笑みが溢れた。本当に、レーナといると心が安らぐ。
「つーかなんだよその服。寝間着にしたって趣味がガキすぎんだろ」
レーナの服装は、丈が長くて指先しか見えないような袖をした妙にふわふわしたパーカーに、同じ生地の短パンであった。
その色は髪と同じクリーム色。その黄色い瞳や、今は少し赤みが差しているが基本的に白い肌も合わさって、なんか全体的に色素が薄い。
「こ、子どもっぽいですかね……」
レーナが恥ずかしそうに視線を斜め下へ泳がせながら呟く。サッチは横に倒していた体を立てて、ソファにしっかり座り直した。
「アタシらが着るようなやつではないわな。まあ、別に良いんじゃねえか? 好きなの着れば。似合ってるは似合ってるし」
「ありがとうございます、で良いんですか?」
「多分な」
レーナは口を膨らませて怒りの意を主張してきた。それに対しサッチは、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてやる。
「もう良いですっ。私は先に眠らせてもらいますからね!」
ぷんぷんと、頭から湯気でも出しそうな調子で、女性専用の部屋への扉に手をかけるレーナ。
「あん? もう寝るのかよ?」
「ええ、流石に疲れました。サッチも、あまり夜更かししちゃダメですよ?」
「わーってるよ。おやすみ」
「はい。おやすみなさい、サッチ」
ニコッ、と。最後に微笑みを向けてくると、その扉をレーナはゆっくりと閉めた。
再び談話室に訪れる静寂。
実を言うと、サッチも眠かった。しかし、ラウィの帰りを待ちたかったのだ。
ふわぁ……と一つ大きな欠伸を漏らすサッチ。目尻に浮かんだ涙を拭う。
(何やってやがんだラウィの奴……アレスは今頃エロオヤジに絞られてるとして、あいつはどこで何やってんだ?)
サッチは、再びソファに横になる。
腕を頭の後ろで組んで枕代わりにし、暖炉の炎でちらちら瞬く天井を見つめる。
そのまま、サッチの意識は彼女の知らぬ間に深い闇の底へ沈んでいった。




