世界が嫌いな紅い少年
――
「さて、アレス。覚悟はいいか?」
「まじ勘弁してください……」
レーナとサッチが退室した後、溺愛する娘に冷や水をぶっかけてしまったアレスに、ナダスが迫ってきた。
アレスの足は長時間の正座で血流が滞っており、すっかりしびれてしまっていた。
これだけでも充分に苦行だというのに、これから自分はナダスに『おしおき』を受けるのだ。
ある日親に捨てられたアレスは、八年ほど前にナダスに拾われた。初めのうちは流石に元気がなかったものの、まだまだやんちゃ盛りだったアレスはすぐにアルカンシエル内で暴れまわるほどに回復した。
悪ガキ。特に、父親のような存在になってくれたナダスと、妹のようなレーナにはしょっちゅうイタズラを仕掛けていた。
そしてその度に受けていたのが、『おしおき』である。
内容は色々ありすぎて覚えていないが、例外なく号泣した事だけは脳裏に焼き付いている。
それでもアレスは、忙しくて中々構ってもらえないナダスに、叱られるという形でも関わりを持ちたくてそれを続けていた。
そして、十二歳になったある日。その回数はめっきりと減った。何てことはない。いつものイタズラのつもりが、ちょっとした不幸が重なって、レーナにケガをさせてしまったのだ。
その時はもう、信じられないほど叱られた。同時に、自分のやってしまった事の重大さに気づいた。
レーナだけは守らなきゃいけなかった。血のつながりは無いが、それでも妹であるレーナを、兄がケガをさせた。
流石にアレスは、その時ばかりはヘコんだ。三日ほど引きこもり、やっと出てきたと思ったら周囲に心配されるほどやつれていたらしい。
それから、アレスはイタズラをしなくなった。必然的に、『おしおき』も無くなった。
――今回のような、不慮の事故はたまにあるが。
アレスは、ガクガクと肩を震わす。口は乾き、怯えた目でナダスを見つめる。
もう自分は十六歳。大人と扱われても良い年齢である。
そんなアレスに久々に降りかかる『おしおき』。年齢も相まって、以前よりも激しいものに違いない。
そんな事を覚悟していたアレスだったが、ナダスは自分の頭にポン、と大きな手の平を乗せ、低くも柔和な声で語りかけてきた。
「嘘だよ。血まみれになってまで戦ってきたお前にこれ以上何かするわけないだろう。ほら、立て」
ナダスはそのまま、アレスの腕をとって引っ張ってくる。
アレスはわけのわからぬまま立ち上がろうとするが、しびれた足にはうまく脳みそが指令を出せていないらしい。立ち上がれなかった。
「あっ、はは……ナダスさん、足に力入りませんわ」
「ったく。しょうがねえな」
口ではそう言いながらも、嬉しそうにアレスを背中に担ぐナダス。そのまま、部屋の隅にある高級そうな生地のソファへ自分を運んでいく。
「重てえな。図体ばっかでかくなっちまってよ……」
「子供扱いせんでくださいや」
「何言ってんだ。お前なんかまだまだクソガキだよ。甘えんな」
どさっと、乱暴にソファに放り込まれるアレス。その隣に、ナダスも座り込んできた。
レーナと同じ、その黄色い瞳で、アレスをじっ……と見つめてくる。
「それで? どうしたんだ?」
「え?」
「え、じゃない。悩みがあるんだろう? ついでだ。明日じゃなくて、もう今吐いちまえ」
「……」
アレスは、リシアとグールを巡る一件で思った事を全て吐き出した。
この腐りきった世界で、それでも不幸に見舞われる人を減らすために頑張ってきたが、結局自分はリシアという少女を殺した。
どうしても、救われない者というのは存在する。ならば、自分がやっている行動は、全くの無意味なのではないか。
たとえ一つの不幸を防いだところで、アレスの知らないところではきっと、百や千の不幸が飛び交っているだろう。
自分が生きている意味がわからなくなった。このイカれた世界で生きるのが嫌になった、と。
ナダスは、アレスの話を黙って聞いていた。茶色を基調とした落ち着いた空間には、アレスの絞り出すような弱々しい声と、時計が時を刻む音だけがしばらく続いていた。
アレスが胸中を全てさらけ出すと、ナダスがアレスの額を小突いてきた。
「生きるのが嫌になった、ねえ。どうすんだ? 死んでみるか?」
ナダスの言葉は、とても厳しい物だった。
「さっきも言ったが、甘ったれるんじゃねえ。この世は不条理で出来ている。思い通りに事が運ぶことなんて、ほとんど無いんだよ」
「んなこと……わかってますよ……」
「だったら、何で全てを救う前提で話してんだ? 世界を救うヒーローにでもなったつもりか? 何でお前は、一つの不幸を減らしたことに誇りを持てない?」
淡々と、それでいて厳かな声色で次々と言葉を放つナダス。
「だから、お前はガキなんだよ。いつまでたっても。いい加減切り換えるって事を覚えろ」
「じゃあ……んすか……」
アレスは、ボソッと呟く。よく聞き取れなかったのか、ナダスがイライラした調子で聞き返してくる。
「なんだ、はっきり言え」
「……じゃあ!! 救えない奴らは諦めろって言うんすかッ!?」
涙で潤んだ瞳で、アレスが声を荒げる。
「自分に都合の悪い事には目を瞑って、こんなゴミみたいな世界でだましだましヘラヘラ笑って生きてりゃ、それで全部ええんすか!?」
「誰だって、そうやって折り合いを付けて生きてんだよ。ナマ言ってんじゃねえ」
「……ッ!! そんならもうええっすわ!! 失礼しました!!」
話している間に痺れから解放された足で乱暴に立ち上がる。早足で紅い絨毯の上を通り抜け、木製の扉を思いっきり引っ張り、無言で部屋をあとにした。
螺旋階段を降りながら、アレスは思った。
(幻滅やで。あんな冷たい人やとは思わへんかった)
確かに、ナダスの言っていることは間違っていない。この世界は理不尽で、その中で生きている以上、どうしても我慢しなければならない事は存在する。
だから、アレスは覚悟はできていた。例え生きるのが嫌になったとしても、少ししか救える者が無くっても、これからも同じように任務をこなしていくと。
でも、いくらなんでも、あんな言い方しなくても良いではないか。
アレスはイライラしていた。自分で認めている現実を改めて認識させられるだけで、何故こうも苛立ちを覚えるのか。
ダンダンダンッ! と足を踏み鳴らしながら石でできた階段を下っていく。
そして、アレスはようやく気づいた。
(……ああ、そうか……)
きっと自分は、慰めてほしかったのだ。
偉いねとか、頑張ったねとか、アレスは悪くないよとか。
結局、そんな上辺だけ優しい言葉をかけて欲しかっただけだった。
しかし、そんな物に意味などない。まったく、これだから子供扱いされてしまうのだ。
ナダスは、優しい。しかし、それは決して、甘いという事とは結びつかない。
アレスにとって無益な事をする人ではない。時に優しく、時に厳しく。必要とあらば、溺愛するレーナでさえ谷底に放り込むことすら厭わないような人だ。
アレスは勘違いをしていた。ナダスはきっと自分に、『乗り越えろ』と言いたかったのだろう。
アレスの悩みに、絶対的な正解などない。アレスがちっぽけな一人のヒトであり、世界が不幸をばら撒いている以上、そんなものは存在し得ないのだ。
『大人になれ』
そうする事で、今までの自分では助けられなかった者を、一人だけ多く救えるようになるかもしれない。
その救われた人が、また別の人を救ってくれるかもしれない。そうした連鎖が、世界を少しずつ変えてくれるかもしれない。
確かに、こんなクソッタレな世界、認められるわけがない。きっとアレスはこれからも、いろんな困難にぶち当たっては頭を抱える事になるのだろう。
しかし、もうそこでは止まらない。悩みに悩んで、その先へと進んでいく。
機械的に任務をこなすのではない。何かを感じ取り、それに自分が対応していくのだ。
一つ一つ。それは小さな事かもしれないが、確かに世界を変える力を秘めている。
その可能性の種を世界中に広げていくために、これからこの命を燃やしていこう。
それは、理想論かもしれない。酷く自分勝手で、醜いエゴを世界に押し付けているだけかもしれない。
だが、アレスは『世界』というものがどうしようもなく嫌いなのだ。だから、そんな事気にしない。自分の信じたモノを無理やり押し付けてやればいいのだ。
それが正義なのだと、確信しているのなら。




