2-1 サナ=フローラ
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ラウィは、とある村の入り口に立っていた。
カルキと別れてから丸三日。北へ向けて三日三晩歩き続け、地平線まで続く青々しい草原というずっと変わらぬ景色に、ようやく終止符が打たれたのだ。
太陽は既にだいぶ傾き、あと少しすれば空が鮮やかな橙に染まっていくだろう。
(つ、着いた……疲れた。本当に疲れた)
背中を丸め、眉をひそめて大きく息を吐く。棒のようになった足は滑らかな動きを拒み、骨の芯からジンジンと淡い痛みが走っている。
食事もロクに取っていなかった。周囲全てが広大すぎる草原だったのだ。木の実もなければ、川だってない。いざという時に作っておいた携帯用の干し肉も、初日に胃袋に収めてしまった。
吐くものなど何も無いというのに、あまりの空腹に吐き気すら催していた。そんな中、やっとの思いで村にたどり着いたのだ。
ラウィは、自分の背丈程度の高さに取り付けられている古びた木の板を見る。そこには、簡単に歓迎の言葉が書き記されていた。
『ようこそタイナ村へ』
何とも適当である。ボロボロに老朽化した材質も相まって、歓迎する気などさらさら無いようにも感じる。
しかし、『看板を立てられる』というだけで、この村の治安が透けて見える。きっと、この村はかなり平和なのだろう。
(今まで色んな村や国に立ち寄ったことがあるけど、こんなのは初めてだ)
ラウィは、姉を失ってからの五年間、ずっと旅をしていた。様々な地域に行き、情報を集めていたのだ。
その旅の先々で、ラウィが感じたこと。それは、どの地域も治安が悪いということだ。
盗賊などに怯え、自分たちの居住区が被害に遭わないよう、戦場にならないよう、それだけを願って生きているような人たちばかりだったのだ。
間違っても、不特定多数の他所者に見られる村の看板に、『ようこそ』など書いていられる状態では無かったはずだ。
そんな事を考えながらラウィは村に入る。そこは、見渡す限り田んぼや畑が広がっていた。辺りに人の気配は感じない。警戒する必要も無い、ということなのだろうか。
石ころでガタガタのあぜ道を疲労のたまった足で歩くラウィ。とにかく人を探そうと辺りをキョロキョロ確認するが、どれだけ歩いても人っ子一人見当たらなかった。
(何で村に入ったのにまだ歩かなきゃいけないんだよ……)
げんなりとした顔で、それでも暫く歩を進めると、ラウィの目に不自然な光景が映った。
(あれは何だろう?)
ラウィの前方には、あぜ道に無造作に置かれた木で作られた荷車があった。作物が大量に乗せられ、山のように積み上がっている。
まだ春が来てもいないというのに、こんな時期に収穫できるものがこの村には存在していることにラウィは驚くも、気になったのはそんなことでは無い。
その荷車は、まるで生きているかのようにガタガタと動いているのだ。不気味なことこの上無い。
ラウィは、好奇心の赴くままにその荷車に近寄る。その正体を確かめるべく、まず手始めに荷車の前方に回り込むと、
「……ん?」
「えっ?」
女の子がいた。その少女は、森林を連想させるような緑のワンピースを着ており、髪は明るい橙色である。幼い顔立ちだ。ラウィよりも歳はいくつか下だと思われる。そして、瞳は黒かった。神術師では無い。
その少女は、その可愛らしい眼をパチクリと瞬かせ、小さな口で声を紡ぐ。
「え、えっと……村のお客さん? 何しにこの村へ?」
「いや、何しにって言われると困るんだけど……」
ラウィはむしろ、この少女が何をしているのか聞きたい。何故荷車を引っ張る取っ手でなんかで遊んでいるのか、とそこまで考えて、気づく。
「もしかして、コレが重くて動かせないの?」
ラウィが荷車を指差しながら問いかけると、少女は少し引きつった笑みを浮かべると、恥ずかしそうにはにかみながら頷く。
「そうなの……想像より重くて……」
「あらら。まあこれだけの量だしね。じゃ、頑張ってね」
ラウィはそれだけ言うと、少女に背を向け村の中心へ再び歩き始める。すると、間髪入れずに女の子がラウィの服の裾を掴んできた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「え? どうしたの?」
「い、いや、その、ここで会ったのも何かの縁だし、その、手伝って欲しいかな、なんて……」
少女は、バツの悪そうに視線をそらして苦笑いを浮かべる。その頼みを聞いたラウィの返答は、とても淡白なものだった。
「え? 嫌だよ。重いんでしょ?」
ラウィに助ける義理なんて微塵も無い。何故なら、この少女が困ろうが自分には全く関係の無いことだから。
目の前の少女を助ける行為が、結果的に姉を救うことに繋がるなら、頼み込んででもやらせてもらうがそんなことはありえない。
ラウィは、自己犠牲の精神というものが全くと言って良いほど無かった。
だからこそ、自分が傷つく事を何よりも嫌い、危害を加えてくるものは全て敵であるという考えに至っているのだ。
『姉との幸せな生活を取り戻すため』
その達成に必要なことなら、身を削ってでも成し遂げるつもりではあるが、その他の事に関してはできるだけ労力を割きたくなかった。
しかし、ラウィのそんな身勝手な思考は、目の前の少女にも、また関係が無かったようだ。
「えーケチー! 手伝ってくれても良いじゃーん! これ凄く重たいんだよ!? 手伝ってよー。ねーねーねーねー!」
少女がラウィの服をしつこくつまんで揺らしてくる。その姿に、ラウィは思わずため息をもらした。
わがままだ。何故自分が動かなければならないのか。そんなに重たいのなら、誰か他の大人を頼れば良いだろう。よりにもよって、自分にすがるな。
そんなことを思って喧しい少女を見下ろす。
確かに少女の言うことは、幾分か身勝手ではあるが、ラウィのこの思考も自己中心的なものであることに気づいてはいなかった。
少女が困っているのだ。損得関係なしに手伝ってやれば良いものを、ラウィにはその思考回路は存在していないのだ。
やがて少女は痺れを切らしたのか、つまんだ服をパッと話すと、腕を広げて大きな声で一つの提案をしてきた。
「わかった! じゃあこれ手伝ってくれたら、美味しいご飯をご馳走するよ!」
「え、ほんとに? じゃあ手伝うよ」
即決であった。
ラウィは、少女の魅力的な申し出をすぐさま了承し、荷車の後ろに回りこむ。
「お、おぅ? ま、いいや、ありがとう! じゃあ後ろから押してくれる?」
ラウィの変わり身の早さに少女は多少面喰らった表情を見せるも、手伝ってもらえる事を純粋に喜んだようだ。ラウィは、荷車の後ろに回りこむ。
「じゃあ行くよっ。せーのぉ!」
少女の合図に合わせ、ラウィは荷車を力の限り押した。そして。
(お、重たっ!)
まるで岩でも押しているようである。ラウィの押す力をそれ以上の力で押し返してくる。地面をしっかりと掴み、全身全霊の力を込めて自分の体を前へ前へと押し出す。
「ぐっ……!!」
やがて、ギィ……と、車輪が軋む音と共に、荷車がゆっくりと動き始めた。そこで止めることなく、ラウィはそのまま荷車へと体重をぶつけ続ける。
「あ! 動いた! よーぉしっ」
少女は、気合を入れ直して荷車を引いているようだが、ラウィの感じる荷車の重さは全く変わらない。きっと、ほとんど自分が押しているのだろう。
本当に重い。普通なら、女の子一人で動かすようなものではないだろう。
改めてラウィは疑問に思う。
何故、この少女は一人で作業をしていたのか。どう考えても華奢な少女だけで動かせる代物ではない。
単純な好奇心が湧き、ラウィは荷車の後ろから少女に問いかける。
「ねえ! あのさぁ!」
「ねえじゃない! サナって呼んで! ついでにあなたの名前は!?」
「わかった。ぼくはラウィだ。ねえサナ! 何でこんなこと一人でやってたの?」
「うーんいつもはお兄ちゃんとやってるんだけど……昨日体調悪かったみたいだから今日はこっそり一人でやろっかなって思ったの!」
サナが元気に返答する。サナのこの無謀とも言える行動は、兄を思っての事だったのだ。
やっぱり、兄弟って良いな、とラウィは漠然と思う。
支え合い、助け合い、力を合わせて生きているであろうその姿に、五年前までの自分達を重ねる。
サナとそのお兄さんには、自分達の様な思いをしないといいな、とラウィは純粋に思った。
整備されていないあぜ道を、橙の髪の少女と蒼い髪の少年がガタガタと荷車を運んでいく。
そして。
ラウィが荷車を押し続けること数十分。ようやく、目的地らしき場所に辿り着いた。
比較的大きな建物だ。煉瓦で作られた頑丈そうな壁に、木製の大きな扉。どうやら二階建てのようで、見上げるような位置にも窓が取り付けられている。
似た様な建造物を、ラウィは他の村で見たことがあった。これはおそらく、役場というやつだろう。
「あー、着いた着いた! えっと、ラウィだったっけ? ちょっと外で待ってて!」
サナはそう言うと、足取りも軽やかに役場の中へと入って行った。おそらく、この荷車に積まれている作物に関する何らかの手続きがあるのだろう。というか、何で疲れていないのだ。
「あー……疲れた……」
対照的に疲労感満載のラウィは作物を踏んでしまわない様に荷車に腰掛ける。
ラウィは、カルキにも言われていた様に、それなりに引き締まった肉体をしている。貧弱な体では何も守れないと、まず自分を鍛えたのだ。
ラウィはまだ十四歳。鍛え上げられた大の大人には流石に敵わないが、それでもそこら辺の奴らには負けない腕力を持っていると自負している。
そのラウィが、今疲労困憊であった。三日三晩休まず歩き続け、何故か全力で長時間荷車を押す羽目になっている。
まったく。食事にありつけるからと、厄介なことを引き受けたものである。
(いつも一緒にやってるっていう、サナのお兄さんはすごい力持ちなんだろうな)
ラウィは空を見上げながら思う。雲一つない快晴であった。まだまだ肌寒い季節ではあるものの、今日はぽかぽかと暖かい。額からは、じんわりと汗が滲んでいる。
いや、暖かいのは今しがた肉体労働をしていたからか。とにかく、ラウィは蒼天の空を見上げながら、疲れの溜まった足をぶらぶらと遊ばせぼーっとしていた。
「もしや、旅のお方ですか?」
「え?」
不意に背後からかけられた声に、ラウィは反応する。首を身体ごと捻り、声の主を確認した。
暗い、深緑色の髪をした男性だった。黒を基調とした、何とも高級感を漂わせる衣服に身を包んでいる。そのすらっとした体躯は、男の持つ翠の美しい瞳も相まってラウィに清涼感を存分に浴びせてきた。
翠の瞳。翠の神術師。
本来なら警戒して然るべきその存在。しかし今のラウィにはその気は全くと言っていいほど起きなかった。
男性が纏う森林のような清爽な雰囲気には、敵意や悪意のような負の感覚が微塵も感じられなかったのである。
男はその翠の瞳を閉じ、恭しく頭を垂れてきた。
「突然お声をかけてしまい申し訳ありません。お見かけしない後ろ姿でしたので……」
「まあ、初めて来たからね」
「やはりそうでしたか」
顔を上げた男の顔は、口角が上がって朗らかな笑みが溢れていた。その爽やか過ぎる表情と陽の光で輝く翠の瞳は、ラウィを眩しいとすら感じさせてくる。
「タイナ村は、貴方を歓迎しますよ。そうだ。この事を村の皆にも知らせましょう」
翠の瞳の男性は、良い考えを思いついたとでも言わんばかりに、パン、と音を立てて両手を合わせる。
「では、私はこの辺で。明日の夜、楽しみにしております」
そのまま踵を返し、黒衣の男性は何処かへ向けて歩き去っていった。
(……何だったんだ?)
ラウィは荷車に腰掛けたまま、小さくなっていく男の姿を眺める。
明日も糞も、そもそもラウィはサナに夕食をご馳走になったら、そのままここを発つつもりである。疲れているが、そんな事は問題にならない。
長居するわけにはいかない。そんな暇はない。少しでも早くアルカンシエルに辿り着き、この身を高めなければ。
いちいちこんな所で立ち止まっていては、姉をいつ救えるかなど、わかったもんじゃない。
明日の夜に何があるかは知らないが、引き止められて勝手に歓迎されても正直迷惑なのである。
(……まあ、関係ないか。向こうも勝手にしてくるだけだもん。僕だって好きにすればいいんだ)
ラウィは思考を放棄した。自分が相手に合わせなければならない理由など何処にもない。
一つ息を吐いた。薄く白さを醸すその吐息は、風に煽られてすぐに消え去っていく。
蒼い髪の少年は、自分の瞳と同じ色の青空を、物憂げに見つめていた。