9-7 ボクが生きた意味 ★
『自分を殺してほしい』
そうアレスに頼んだ少女は、そんな事を言っておきながら、その獣のように変貌してしまった瞳からボロボロと涙を流していた。
「あ、あれ? おかしいな。もう、泣くつもりなんてなかったんだけど」
努めて笑顔で。それでも、嘘のつけない心が瞳から漏れ出してしまっているかのように。
「あはは、かくごをきめた、つもりなんだけど。あまくないみたいだね」
ゴシゴシと、袖で涙を拭うリシア。その指先からは、赤黒く固まった血液でコーティングされた長い爪が伸びていた。
口角を吊り上げたままで、リシアはアレスに問いかけてきた。しかしその声は震え、細い瞳孔からは塩気のある水が溢れて止まらないようだ。
「あ、あはは……」
頬を上気させ、顔面をぐちゃぐちゃに濡らし、それでも笑顔だけは絶やさないリシア。
そしてその顔が、ほんの一瞬だけ曇った。
「ねえ、ボクは、うまれてきちゃいけなかったのかな……?」
心は人間そのものでも、やはり肉体はどうしてもグールのものであるリシア。
他の種族を食らうことでしか生を繋げない種族。そんな生物、確かにいない方が世界は住みやすくなるかもしれない。
しかし。それでも。
「……そんなことないで」
アレスは、リシアのその考えを真っ向から否定した。
「うそ。だって、アレスたちがこれから、なにをするのか、なにをしなきゃいけないのか、ボクにだってわかるよ」
だが、リシアもアレスの発言に反論してくる。この短い髪の少女は、自らの運命をしっかりと理解し、受け入れようとしていたのだ。
第一級危険生物である、グールという種族。
アレスがアルカンシエルという組織に所属している以上、それは駆逐対象となる。
世界の治安を維持するため。ご大層な理由を盾に、アレスは少女の命を奪う事を強いられているのだ。
「……うそやない。どんな奴やろうと、生まれてきちゃダメやったなんて事は、絶対に無いんや」
アレスには、この程度の事しか言うことができなかった。本当に、美辞麗句を並べ立てるしか能の無い自分に嫌気がさす。
それは、アレス自身にも刺さる言葉だった。
親に捨てられてからアレスは、自分の生きる意味を探し続けた。ナダスに拾われ、彼とアルカンシエルの為に全てを尽くすと決意したが、その結果が、目の前の哀れなほど優しい少女を殺すという行為に帰結している。
自分は今まで、何のために行動していたのか。尊敬するナダスの下で、汗水たらして働いたのは、こんな救いようの無い結果を生み出すためなんかじゃなかったはずだ。
なのに。どうして。
二ヶ月前。同じ班の大勢の仲間を亡くした時もそうだ。自分は、命を刈り取る事はできても、守る事などほとんどできない。
アレスはもう、このどうしようもない世界で生きるのが嫌だった。それでもせめて、散ってしまう命を減らすために、文字どおり我が身を削って任務に没頭してきた。
そして、自分が『生まれてきてはいけない人物などいない』とリシアに諭した以上、アレスはこれからもこの世界で生きていかねばならないのだろう。
クソッタレた、この世界で。
「ボクは、もうっ、二人をたべたくてしかたないんだ。おなカがっ、すいたンだよ」
リシアが、音量の安定しない声でそう告げる。その血に濡れた長い爪は、プルプルと小刻みに動いていた。
『狂獣化』の影響で荒ぶる食欲や破壊欲を、理性で必死に抑えていた。やはり彼女は、ただの優しい人間なのだ。
「アレス、おねがいだから、ボクをころして。ボクが、だれかをたべちゃうまえに。ボクが、『にんげん』をかんぜんにやめちゃうまえに」
気が滅入るほど鮮やかな赤に染まるその毛先。充血した瞳に、細長い瞳孔。血に濡れた全身。長い爪。
何処からどう見てもグールのそれでしかないリシアの姿。それでもその表情は、『人間』でありたいと、必死にもがいていた。
少女はきっと、ここでその生を絶たなくても、もう誰かを食す事は無いだろう。
強い心。強靭な精神力。しかしだからこそ、それが彼女を苦しめることになる。
飢え、弱っていき、長い時間をかけてゆっくりとガリガリに痩せ細って死んでいく。そんな悲惨な未来をリシアに歩ませる事は、アレスには出来なかった。
スッ、と。
アレスは、その右手を静かにリシアの首へ向ける。カラダだけはグールの、彼女の命の源へ。
「アレス!」
ラウィから声がかかる。その蒼い少年が何を思ったのか、アレスには手に取るようにわかった。
――自分と同じ気持ちに、決まってる。
「とめないで、ラウィ」
リシアから、制止を呼びかける声がかかる。それにラウィは、ギリギリと歯を食いしばっている。当の本人に止められてしまったのだ。これ以上、ラウィにとやかく言う資格は無かった。
「ねえ、さいごに、おしえてよ」
「……なんや」
「ボク、えらいよね? ボクが、これからたべられるかもしれなかった、たくさんの『ヒト』を、救ったんだよね?」
それは、確認だった。この世に生を受けた以上、意味を持って死にたい。そう言わんばかりの、リシアの最後の問いかけだった。
「……ああ。自分は、立派や。安心せぇ。俺が自分を、苦しまないように、しっかりと殺したる。だから、リシアは、何も心配せんでええんや」
「ボク、がんばったよね……まにあわなかったけど、イリアのために、たたかったよね?」
「……ああ。ずっと世話になった母親のために、リシアは戦った。あっちで、アホみたいに褒めてもらいや」
「ボク、ボクッ……!」
リシアの顔面がくちゃくちゃに歪む。唇を噛み、鼻水は垂れ流され、それでもリシアは、話す事を止めようとはしない。
「ボクッ! ここで、しっかり生きたよね? なにかがまちがってるこのせかいで、のろわれたこのカラダで、それでも、ここで生きたよねっ……!?」
もはや、涙など抑えられるはずがなかった。
「あぁ……ッ! リシアが生きた証は、無くならへん。俺たちが絶対に忘れへん! だから、心配、すんな……」
「あはは、な、なんで、アレスまで泣いてるのさ……ばかみたい」
リシアが、安心したような笑みを浮かべる。悟ってると言っても良い。それでいて、その眉は少し困ったように垂れていた。
「あーあ、もうすこしだけ、生きてたかったなぁ……イリアとアレスとラウィとボク。もっとみんなであそんでみたかった……」
リシアが、彼女に腕を伸ばす暗い顔のアレスと、顔を伏せ無言で唇を噛み締めるラウィを優しく見据える。
それは、これから死にゆく少女の顔とは思えないほど、安らかで、なんの汚れも無い笑みだった。
どうしても震えてしまうのであろう声で、それでも、しっかりと芯の通った声で。
獣のように開いた瞳孔で、それでも人間である少女は、紅と蒼の少年に向けて呟いた。
「ラウィ、アレス……」
「――ばいばい」
そして。
その人間だった少女は、愛する母親の墓に力無く崩れ落ちる。
小さな英雄は、永く、また短すぎたその生涯を終えた。
それだけだった。
結局これは、誰一人として救われない物語だったのだ。
二人の親娘は、顔を寄せ合い、安らかにその瞳を閉じていた。




