9-6 悪意に満ちた世界での善意
「アレス!!」
ぼーっと虚空を見つめるアレスに、声がかかる。ラウィだ。雑魚グールを全て蹴散らした蒼い少年が、紺色に赤さを混ぜ込んだ髪の少女と共に駆け寄ってきた。
ほぼ無傷での生還である。リシアの力も借りていただろうが、アレスはラウィに訓練をつけて良かったと、心から安堵した。
「アレス、終わったんだね?」
「ああ、二人もお疲れさん。助けに行けへんで、悪かったな」
血肉という真っ赤な絵の具がぶちまけられた空間で、紅い少年は微笑む。しかしその笑みは、何だか少し哀しげであった。
そして。
突然、地面が落ちた。
「!?」
ラウィの顔が驚愕に染まる。
アレスの先ほどの大爆発。それが、地下に掘られただけの洞窟には耐えられなかったのだ。
崩落していく空間。それに伴い、数多のグールの死体と共に、三人も更に下層へと飲み込まれていく。
「ッ! リシアッ!」
自由のきかないしばしの空中浮遊。そんな中アレスは、背後で小さな爆発を起こさせた。その反動でリシアの元へ向かうと、未だ獣のような瞳をしたままの彼女をしっかりと抱き寄せる。
直後。階下の床に到達した。ドスッとか鈍い音を立てながらも、しかし神術膜を纏ったアレスとラウィはダメージを負う事はなかった。
アレスは、リシアに回した腕をほどく。どうやら彼女も、怪我を負う事は無かったようだ。
そのまま立ち上がる。床は、若干水分を含んでいた。地下水が滲み出ているのだろう。おそらく、ここは最下層なのかもしれない。
薄暗い。それに、高い湿度が温度以上にアレスに冷感を与えてきていた。広い空間だ。かなりの距離を落ちたのかもしれない。
「ここは、何なんや……?」
アレスは思わず呟く。こう薄暗くては、何もわからない。
炎を発生させようかと思ったアレスだったが、ここで足元で淡い光を放つ、小さな石コロを発見する。黄色のイールドだ。おそらく元々この大部屋を照らしていたものだろう。
アレスはそれを拾い上げると、念を込めて一気に輝かせた。
「なっ!?」
無意識に声を上げてしまう。地面に、人の頭部が一直線に並べられていたのだ。
これまでとは比べ物にならない程の腐臭が鼻腔を掻き回している事をようやく自覚する。腐り落ちているものもあり、白骨化した頭部すら存在している。
これが、グールなりの『感謝』。
命を頂く種族の、最低限の尊厳を守るため。今は崩落した天井にまみれて土を被ってしまっているが、それは紛れもなく、墓地だった。
頭部の後ろでは、少し地面が盛り上がっている墓も存在した。その上には、簡素ではあるが十字架が突き刺さっていた。木製の十字架には、死体の性別と、おおよその年齢が書き記されている。
その膨らんだ土の下に何が埋まっているか、想像に難くない。
既に骨となっている頭部もある中で、とても綺麗な顔がずらっと並んでいる区画を、アレスは確認する。
数は百ほど。アレスにとって、いや、この場で現在生きている三人にとってその数字はどうしようもなく心を圧し潰すものだった。
白すぎるほど白い頭部。その全てが、安らかにその瞳を閉じていた。そして、漏れなくその地面はせり上がっていない。埋められる予定のものは、きっとまだ冷凍室に横たわっている。
そして、アレスの背後から、震える幼い声が聞こえてくる。
「い、イリア……」
毛先が赤くなったままのリシアが、一人の初老の女性の顔を見て呟いた。おぼつかない足取りで、それに近づいていく。そして、ペタンとへたり込んだ。
「……」
アレスは、何も言うことが出来なかった。ラウィも同様のようで、視線を斜め下へ向け、唇を噛んでいた。
「あぁっ……! イリア! イリアぁっ!! うわあああん!!」
リシアのその長い爪の生えた手のひらは、だらんと脱力していた。どこかわからない空間を見上げ、絞り出すように嗚咽を漏らす。
――守れなかった。
首のない死体が並べられた冷凍室を発見した時から間接的にその事実は分かっていたが、それでもやはり、現実を直接認識するのとではわけが違う。
アレスは、助けると約束した人物を、救えなかったのだ。
リシアの、その獣のようになってしまった瞳から流れる涙を見て、アレスは言い様のない感情に包まれる。
もちろん、これはアレスの責任ではない。アレスは、出来る最善の事を行ってきた。それでも、間に合わなかったのだ。いや、元々間に合う余地などなかったのかもしれない。
だけど、それでも、アレスが誰かの大切な人を生きて帰せなかった事実に、変わりはない。
(……俺は偽善者やな。綺麗事ばっか並べて、リシアに説教じみた事までして、意志を汲み取るだの何だの言うてリシアをこんなところまで連れてきて、酷い現実を見せつけとる。一体何がしたかったんや、俺は)
アレスは、ぎゅっと拳を握る。力を入れすぎたアレスの、先ほど髪の長いグールに引き裂かれた腕の傷口から、止まったはずの血液が再び溢れてくる。
心中で自虐するアレスに、意外な人物から声がかかった。それは、今の今まで泣きじゃくっていた、リシアである。
リシアは、涙のせいなのか、『狂獣化』の影響なのかもはやわからない、充血した目でアレスを見つめ、言葉を発した。
「アレスの、せいじゃないよ。ぐすっ。アレスもラウィも、ボクのわがままをきいてくれた。だから、そんなにじぶんをせめないで。ボクはもう、なかないからっ」
優しい台詞。子供っぽい声で、だからこそ、正直な気持ちと思わせてくれる音色で。
暖かい、人間のような心。他人を慈しみ、赦す精神。
やはり目の前の小さな少女は、グールなどというクソッタレな生き物ではなかったのだと、アレスに思わせてくれた。
「ボクね、おもったんだ。イリアは、きっと知ってたんだよ。ボクが、にんげんじゃなくて、グールだってこと」
その、心が紛れもなく人間である少女は、しかし自分をグールと言い切った。それは、彼女の強さに他ならない。
現実から目を背けず、しっかりと向き合う、リシアの立派な生き様であった。
「イリアはね、ずっと言ってたんだ。『グールにおびえることのないせかいが、くるといいね』って。きっと、ボクがにんげんより長生きだから、ひとりでも生きていけるようなせかいに、なってほしかったんだよ」
涙を流しながら、それでも自慢の母親の凄さに微笑みながら、言葉を紡いでいくリシア。
人間が、グールを恐れない世界。それはつまり、リシアが迫害されることのない世界を意味する。
それを、イリアという女性は願った。
逆に言えば、毎年数人の人間がグールに襲われるビアルダ集落で、グールであるリシアは格好の標的なのである。
リシアが集落の人間の事をほとんど知らなかったのは、人間より成長の遅いリシアが人々に不審がられないようにするための、イリアという母親の苦肉の措置だったのだ。
それだけではない。
教会地下にあった天然の冷凍庫。死体を保存していたのであろうあの空間を、アレスは思い出す。
そこに納められていた、肉の削がれた死体。最初はグールの仕業だと勘ぐっていたが、おそらくあれは、リシアが食したものである。
集落の長なのだというイリア。彼女が、リシアが食べることの出来る食材をそこから調達していたのだろう。一人だけ別の料理だったリシアの夕食。あれはつまり、そういう事だったのだ。
それは、どれほどの苦しみだっただろうか。
人間の、死体。それも、おそらく同じ集落の顔見知りであったであろうその遺体を、その肉を、食料として抉っていくのは。
そんな生活を、五十年。もはや、想像を絶する。
しかし、イリアはそれでも、愛する娘のためにその道を選んだ。その手が血に染まろうとも、罪に全身が浸かろうとも、リシアのために刃を振るった。
アレスでは計り知れなかった。大切な誰かのために、そこまでする女性の気持ちなど。
アレスの紅い瞳から、透明な液体が頬を伝う。それが何故溢れてきたのか、アレスにはわからなかった。
「ねえ、アレス?」
そして、そんな棒立ちのアレスに、リシアが少女とは思えないほど暖かな笑みで、一つのお願いをしてきた。
それは、心優しき少女からの、最後の『依頼』だった。
「――ボクを、ころしてください」




