9-3 当人さえ知らぬ正体
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ただ、普通に暮らしていた。
いつも笑い合って。何に不満を言うわけでもなく。
イリアと過ごす毎日は、それだけで幸せだった。
リシアは、満足していた。
幼い頃に捨てられていたという、自分。イリアは本当のお母さんでは無いけれど、身寄りのない自分をここまで育ててくれた、たった一人のお母さんなんだ。
好き嫌いが多く、変なものを食べればすぐに吐いてしまうような自分が、なんとか食べられる物を作ってくれていたイリア。
教会の管理という仕事を持ちながらも、暇を見つけては自分に構ってくれたイリア。
女の子なのに集落で着られている飾り気のない簡素な麻の服だけでは寂しいと、可愛い髪留めをこしらえてくれたイリア。
リシアが悪いことをすれば叱り、良いことをすれば、その何倍も褒めてくれたイリア。
大好きだった。心の底から、彼女を敬愛していた。
イリアは、優しかったんだ。聖母のように、神様のように。全てを包み込む慈愛の精神で、世界を眺めていた。
そんな彼女が、口癖のように言っていた言葉をリシアは覚えている。
『いつか、人々がグールに怯えることのない世界が来るといいわね』
ビアルダを時々襲う、グールという種族。
一年に二、三度しか現れないが、その度にいくつかの命が犠牲になっていく。
イリアは、それを本当に痛ましく思っていた。
しかしそれでも、グールだって命を持っている。彼らを全面的に排除しようと考える者をなだめていたのは、主にイリアだったみたいだ。
イリアも、どうすればいいかわからないようだった。
このままグールを野放しにしておけば、被害は増える一方。しかし、彼らを殺してしまうのも忍びない、と。
そんな時だった。
大量のグールが、この村を襲ってきたのは。
自分は、その時の事を未だに詳しく思い出せない。
最後の記憶は、家の壁を蹴破ってきたグールの姿と、「逃げなさい」と叫ぶイリアの声だ。
イリアは、最後の最後まで自分の身を案じてくれたのだ。
グールと共存できる方法を模索し続けていたイリア。
実力行使に出ようとした者を必死で引き止めていたイリア。
それなのに。
「あの集落の連中が、俺らを根絶やしにする計画を立ててやがったのを知ったからだよ。殺すつもりだった以上、殺されても文句は言えねえだろ」
ボスの風格を漂わすグールが、そう告げる。
違うのに。そうじゃないのに。そうならないように、イリアは一生懸命頑張ってたのに。
なのに、なんでお前らは、イリアを。
殺したんだ?
イリアは間違ったことをしていないのに。心を痛めて、それでもグールの命を奪わなくて済む道を探していたのに。
お前らの、ために。
この、恩知らず。
お前らがいなければ、イリアは死ななかった。
お前らがいたから、イリアは苦しんだ。
お前らなんか。
お前らなんか。
「……グールなんて、いなくなっちゃえばいいんだ」
そうだ。グールがいるから、不幸になる。
いなくなれ。消えろ。
最愛の母親を奪った、憎らしい種族。
イリアがいなければ、とっくに殲滅されてたかもしれないグール。
何故のうのうと生きていける?
悪びれることもなく、どうして命を奪える?
なんで、解決法を全く考えようとしなかった?
憎い。憎い。目の前の、カタチだけヒトの真似をした悪魔たちが、憎い。
――憎い。
感情がドス黒く染まっていく。
ドロドロとした何かが心の奥底から噴き出してくる。
熱い。でも、少し心地良い。
意識が薄れていく。視界がぼやけ、自分が自分で無くなっていく気すらしてきた。
きっと、実際にそうなのだろう。とめどなく溢れる殺意。それにリシアの精神はズブズブと沈んでいく。
代わりに、何かが浮かび上がってきた。
入れ替わるようにして、ソレが世界に体現する。
リシアの本質。本能。意識の中で眠っていた、自分自身すら知らない、リシアのもう一つの側面。
「グールなんて、いなくなっちゃえばいいんだああああああああああああッッッッッッッッ!!!!!!!」
叫ぶ。意思とは関係なく。
次の瞬間には、リシアの長い爪は大量に並ぶグールの頭を五、六個落としていた。
「ぎィっ……んああああああああッッッッ!!!」
リシアは、瞬間で次々とグールの首を跳ね飛ばしていく。グール共は、全く目が追いついていないようだった。瞬く間に死んでいく仲間を見て、その身を血で赤く染めながらうろたえることしか出来ていない。
刹那の時間で一定の虐殺を行ったリシアは、両手両足の指先から伸びる爪を天井に突き立て、クモか何かのように張り付き、眼下のグールの集団を涙で滲ませる瞳で捉える。
リシアの紺色の短い髪は、毛先だけ赤く染まっていた。
リシアの爪は、その小さい指よりも長く伸びていた。
リシアの可愛らしかった目は、真っ赤に充血し、獣のように瞳孔が縦に開いていた。
――リシアは、グールだった。




