1-2 カルキ=ワズラット
『姉ちゃん! 姉ちゃん!』
その少年は、姉が大好きで、よくなついていた。
『もーぉっ。服が伸びちゃうでしょー、離しなさい』
『はぁーい、ごめんなさい』
いつもそばにいて、優しくて、安心する。
『ほらほら、ご飯冷めちゃうよ。早く食べなさい?』
『もう食べてるよ!』
この人と一緒にいれるだけで、幸せだった。他に何もいらない。姉がいるだけで、少年は満足していた。
『あ、こら! ご飯の前に言うことがあるでしょ!』
『あ、そうだね! いただきました!』
生まれてこのかた、ずっと一緒に生きてきた。これからも、一緒に生きていくのだろう。そう思っていた。そうであって欲しかった。
『もう食べ終わったの!? しっかり噛んでって言ってるでしょーもぉー』
『あはは、姉ちゃん遊ぼうよ!』
この少年は、そんなささやかな願いさえ粉々に打ち砕かれてしまうことなんて、きっと知らない。この笑顔が、痛い。心に来るものがある。
『こらこら。お姉ちゃんの言うことはよく聞かんとな。わかったかい? ラウィ?』
ラウィと呼ばれたこの少年は、姉の後ろへ隠れた。知らない人と話すのが少し怖いのだろう。
『ダメよラウィ。sぬjgヨqさんにちゃんとお返事しなきゃ』
『……いやだ』
名前は何と言ったのだろう。わからない。というかそもそもの話、全てがわからない。
自分は今、何を見ているのだ?
過去? 記憶? 妄想?
それとも――
「……はっ!?」
ラウィは、大きな声をあげて意識を取り戻した。
ふと、辺りを見回す。どこかの草原だろうか、一面緑が生い茂っている。
しかし、ただぼうぼうと生えているわけではなかった。明らかに、人の手が加えられている。
草の高さは足首程度の高さまでで切りそろえられており、色とりどりの花は一箇所に纏めて咲いていた。
自分には、藁のようなもので編まれた、簡易的な布団がかけられている。
「……ここはどこだろう」
有り体に言ってしまえば、さっきのは夢だった。と言うことは、自分は寝ていたことになる。
何故? そしてここは一体全体どこなのか?
様々な疑問が浮かんでくるが、それらはすぐにかき消された。
「おお、やっと起きたかね。体の具合はどうじゃ?」
「!?」
ラウィは飛び上がる。一気に気持ちを警戒へと引き上げ、その声の主と距離を取る。
ラウィに声をかけてきたのは、先ほど、紫の瞳の奴隷商人を一瞬で昏倒させた、汚らしい身なりの老人だった。
その鮮やかな橙色の瞳に、ラウィは嫌悪感を感じていた。
自分と姉の、大切な、大切な居場所を跡形も無く破壊した、あの男を重ねてしまうからだ。
「おやおや。そこまで動けるのならもう安心じゃな」
「……」
この老人は、強い。今戦えば、あの奴隷商人のように、ラウィも一撃で屠られてしまうだろう。
ラウィには、そもそも戦う気などなかった。
逃げる。
アルカンシエルの情報を持ったあの奴隷商人は辺りにはいないし、こんなとこにいる意味は無い。
それに、単純にこの人間が怖かったのだ。
ラウィの頭は、どうやってこの場を切り抜けるか。そればかりを考えていた。
「そんなに睨まなくても良いじゃろう……何があったか知らんが、介抱したワシに感謝の一つも無いのかね……」
「……え?」
介抱。今、この老人はそう言ったのだ。
言われてみれば、奴隷商人に吹き飛ばされた時に出来た切り傷には、何らかの薬のようなものが塗ってある。
何だか体も軽い。あれだけの怪我を負った後とは思えない。ほとんど全快していた。
(……何が目的だ?)
ラウィは老人を見据える。
介抱してくれたことには素直に感謝したいが、状況が状況だ。すぐに気を許して良いか、まだ判断ができない。
「まあしょうがないかの。あんな事があったばかりじゃ。その警戒心も、身を守るために必要じゃろう。じゃが、全て否定的に考えておっては、見えるものも見えてこんぞ?」
「……あ」
冷静になって考えてみると、老人は、自分を助けようとしてくれていたように思える。
奴隷商人と戦っていた時、この老人が来なければ、きっと殺されていただろう。
この人を、敵と決めつけて良いのか?
いや、そもそもこの老人は自分に一切危害を加えていない。それどころか、気絶した自分を介抱までしてくれていたらしい。
この人は、敵じゃない。そう判断しても良いだろう。
なんでこんなにも警戒心を強めていたのか。
……頭に血が上っていたのか。
「……ごめん。ちょっと気が動転してて」
「良いんじゃよ。ところで、お前さん。あの中年の神術玉に対して何故無防備だったんじゃ? 神術師なら、あれくらい知っておろう」
ラウィは、思わず眉をひそめる。知らない単語が二つほど出てきたからだ。少し考える。
神術師。これはなんとなくわかる。神術を扱う人間のことだろう。
神術玉。これもおそらくだがわかる。あの紫の瞳の奴隷商人が最後に放ったあの塊の事だろう。
適当にあたりをつけ、老人に返答する。
「ちょっと、怖くて動けなくてね。その、神術玉? なんて初めて見たからさ」
「おや? お前さん、二つの組織のどちらかには所属しておらんのか?」
ピク、とラウィはわずかに反応する。
この老人が言っている、二つの組織。
おそらくは、アルカンシエルとシュマンの事だろう。老人の口ぶりからすると、何か知っていそうだ。
「うん、どっちにも入ってないよ。アルカンシエルは探してる途中だけどね」
「……そうか」
橙の瞳の老人は、少しだけ考えたあと、
「あそこは見つけるのが難しい。じゃが、お前さんは確かにあそこに行くべきかもしれんの」
「えっと、何か知ってるの?」
「ああ、アルカンシエルの本部。そのおおよその場所は把握しておる」
「ほんとうに!?」
ラウィは思わず声を大にする。
ようやくだ。ようやく、アルカンシエルへ向かえる。この時を五年間待っていた。
姉を探す。そのスタートラインに、ようやく立てるのだ。
「ああ、教えてやってもいいんじゃが、一つだけ、条件を言わせておくれ」
「条件?」
「そうじゃ。ワシはこう見えて子供好きでな。危ない目にあって欲しくない。じゃから、お前さんをある程度強くしたい。アルカンシエルへ向かうまでに、さっきの中年のような輩に襲われないとも限らんからな」
そんな事が、条件。
むしろ、こちらからお願いしたいくらいだ。
あれほどの強さを持った人間から教えを乞う事が出来るならば、それほど頼もしい事はない。
ラウィは、神術の扱いは自己流であった。
当然だ。五年前、紅い瞳のアルカンシエルの人間に会って以降、神術使い……神術師に、一人たりとも会わなかったのだから。
「わかった。こちらこそよろしくお願いするよ!」
願ったりかなったりな申し出に、ラウィは二つ返事で了承した。
既に、この老人に対する嫌悪感は跡形もなく消え去っていた。
自分は現金な人間だな、とラウィは思った。
自分に危害を加えるなら、敵。
そうでないなら、味方。
生まれてこの方、人とあまり接した事のないラウィは、人間を簡単に二分してしまっているのだ。
「ワシの名はカルキじゃ。カルキ=ワズラット。よく覚えておくんじゃぞ。お前さんの名は?」
「僕はラウィだよ。ラウィ=ディース」
ラウィはそう言うと、カルキという老人に近づいていく。
手を伸ばすと、カルキと握手をした。
「よし、早速じゃが、お前さんがどれほど出来るのか見てみたい。そもそもお前さんは、誰かに神術を習ったのか?」
「いや、まったく。完全な自己流だよ」
操作の仕方を覚えたのは、本当に突然であった。
ただ、ある雨の降った日。雨宿りできる場所も近くになかったラウィは、『水の方から避けてくれないかな』と軽い願望を抱いた。
それだけだった。
それだけなのに、ふと、イメージ通りに雨が自分を中心に避け始めたのだ。
また、その時のラウィは、さらにイメージを続けた。雨粒が、自分の周辺をグルグル回るイメージを。
完璧ではなかったが、雨粒はそれらしい挙動をしたことで、確信を持った。
それからというもの、ラウィは神術の修行に明け暮れた。二年もの間、暇さえあれば水を動かしていた。
おかげで、ある程度精密な動きは出来るようになったが、言ってしまえば、それだけだった。
戦闘において有利となるくらいまでに昇華する事は出来なかった。
「ふむ……自己流か。わかった。とりあえず、出してみなさい」
「え、何を?」
カルキは疑問に疑問を返すように、
「何をって……水じゃよ。とりあえず、水を出してみなさい。蒼の神術師じゃろう?」
ラウィは困惑していた。
水なんて、ラウィは出した事がない。そんな事考えたこともなかった。
何もないところから、水を生み出す。普通は考えつかないし、やろうとも思わないだろう。
それに、ラウィにはもう一つ困惑する理由があった。
今カルキが言った、蒼の神術師という言葉。
聞いた事がない。
神術を扱う者を、神術師と呼ぶ事もさっき知ったのだから、当たり前だが。
「ごめんカルキ。水なんて出したことも無いし、やり方もわからないんだ。操作した事しか無いんだよ。あと、蒼の神術師って言うのは?」
ラウィのその問いにカルキは、少しだけあきれた顔で、
「ラウィ……お前さん、よく今まで生きてこれたのう」
「え?」
「まあいい。よく分かった。お前さんには、何も知らない前提で話したほうが良さそうじゃな」
カルキは一度腰を下ろして、ラウィにも座るよう促した。
「そうじゃな……何から話せば良いか。ラウィ、今までどんな神術師に会ってきた?」
ラウィは、思考を巡らせる。
大した人数はいないはずだ。
五年前、家を破壊してきた、橙の瞳の男。
自分を瓦礫の山から救ってくれた、アルカンシエルの紅い瞳の男。
自分に襲いかかってきた、紫の瞳の奴隷商人。
そして、カルキ。
このくらいだ。
そのことをカルキに言う。
「ふむ、あまり多くないのじゃな。それなら、お前さんが生きてこれたのも合点が行く。運が良かったのじゃな」
運が良かった。確かにそれはあるだろう。
殺されかけた時、二回とも誰かに助けてもらっている。それ以外は、遭遇してもいないのだ。
助けが来なければ、既に二回、殺されていたはずだった。
その事実に、ラウィの背筋に冷たいモノが走った。
「神術師とは、眼の色によってその性質が変わってくるんじゃ。例をあげようか。まず、ワシは橙色じゃろ?」
カルキは、自分の瞳を指差す。
「瞳が橙色の神術師は、主に音を操る。あとはそれに付随した振動とかかの」
確かにそんな気がすると、ラウィは思った。
カルキの戦い方は、正直朦朧としていてあまり覚えていないが、五年前、自分たちの家を破壊したあの男は、確かに振動を操っていたように思える。
カルキは次にラウィを指差し、
「ラウィ。お前さんは蒼じゃ。操ることができるのは、水じゃ」
当然ラウィは知っていた。ラウィは二年、水を操る修行を続けていたのだから。
「あとはそうじゃな、紅い瞳だと、炎を。紫の瞳だと毒を、それぞれ操る事ができる。これらの神術師を、わかりやすくするために、便宜上紅の神術師、紫の神術師のように呼ぶんじゃ」
「なるほど。だから僕は、蒼の神術師ってわけだね?」
「そうじゃ。そしてこれらはすべからく、自分の手で生み出す事が出来るものなんじゃが……」
言われてみて、ラウィは思った。
今まで出会った神術師たち。彼らは全員、自分の手でそれぞれ自分たちが操る物を生み出していると。
「まあ、まだ神術が使えるようになってたった二年程度なのじゃろう? 焦ることはない。じきやり方もわかるじゃろう」
「……えっ?」
ラウィはカルキのその発言に、何か違和感を覚えた。
何が、と言われたらわからないが、ちょっとした引っ掛かりを感じたのだ。
(……まあ、いいか)
考えてもしょうがないので、とりあえず今は置いておくことにした。
「さてラウィ。お前さんは虹というものを見たことはあるかね?」
「え、ああ、あるよ。色が何色も繋がってて綺麗だよね」
「では、虹に使われている色を答えてみなさい」
「色?えっと、いっぱいあるからわかんないよ……」
紅、とか、蒼とかならわかるが、中間色を全て答えろというのは無理がある。はっきりとした区切りがあるわけでも無いし、細かな色の違いなど、ラウィには表現出来なかった。
「ははは。虹は一般的には、七色で表されておるのじゃよ。紅、橙、黄、翠、蒼、藍、紫の七色じゃ。覚えておいて損は無いぞ?」
「はぁ……そうなんだ。それが何の話があるの……って」
ラウィはそこまで言って気がついた。何故カルキがこんな質問したのかを。
虹の色を表す七色。その中には、ラウィが知っている神術師の種類、紅、橙、蒼、紫も入っている。
つまり。
「もしかして、その七色が、神術師の種類と一緒ってこと?」
「ご名答」
カルキは、静かに笑った。
「もちろん、それぞれの色の神術師にも生み出せ、操れる物が存在する。それはまあ、覚えるしか無いのう。なに、もうお前さんは四つも覚えておる。あと三つじゃ、それほど苦ではあるまい?」
そう言うとカルキは、ラウィに残りの色について教えてやった。
ラウィはその話を聞きながら、あることを思っていた。
自分は、無知すぎる。
こんなことを知らないで、五年もの間よく生き延びれたもんだ、と。
知っていれば、対処が出来たかもしれないのに。
知らないことの、危うさ。
それを身に染みて感じているラウィは、心の中でカルキに感謝した。
「そうじゃな……あとは、そうそう忘れておった」
カルキはおもむろに立ち上がると、
「覚えるだけではなく、やってみなければわからんこともある。ラウィ、着いてきなさい」
ラウィに背を向け、歩き出した。