4-7 終末の淵
――
サナは走り続けた。
先ほどまで震えて言うことを聞かなかった両足は、その分を取り返すかのように地面を蹴り続ける。
サッチがほんの数秒で走り抜けた距離を、サナはその何十倍もの時間をかけて通り抜ける。
これは、サナが遅いのではない。サッチが速すぎたのだ。
だから、サナのせいではない。
――サナが役場に着く前に、「戦争」が始まってしまったことは。
ドォン……ッ!と、遠くから聞こえた爆発音のような物がサナの鼓膜を叩いた。
「! 嘘でしょ!?」
いくらなんでも早すぎる。
「戦争」という重い言葉の意味を理解していたサナだからこそ、それは簡単に起せる者ではないことも理解していた。
いや。
ベクターという男に常識は通用しないのかもしれない。
サナは、速度を上げる。
既に全力に近い走りを続けていたため、肺が空気を求めてゼヒューゼヒューと変な音を奏で、全身の筋肉は悲鳴をあげていた。
しかし。それでも。
足を止めるわけにはいかなかった。
何せ、サナが今いる位置から役場までまだまだ距離があるのだ。
役場に着いても父親がいるとは限らない。
父親がいたとしても、無事であるとは限らない。
無事だったとしても、これからもそうであるとは限らない。
サナは、焦っていた。
どうしても、父親とサッチの両親を重ねてしまう。
思わず涙が溢れる。
大好きな父親が、死ぬ。
そんな現実、受け入れられるわけがない。
だから、どんなに苦しかろうと、足だけは止めなかった。そんなことをしている暇はない。
嗚咽と息切れでもはやまともな呼吸もできていないが、走らなければならないのだ。
後悔したくなければ。
しかし、そんな息も絶え絶えに走るサナの姿を捉えた者がいた。
サナは、その存在に気づかなかった。
ゴッ! と、鈍い音がサナの体を斜めに傾がせる。咄嗟に近くの木の幹に手を付いて、転倒だけは防いだ。
「あ……ぐぅ……げほっ……!」
何が起きたのかわからなかった。
頭部に走る激痛。サナは思わず左手で押さえる。
「ッ!?」
ドロッ、と。
その手のひらには、赤黒い液体がべっとりと付いていた。
「ひっ、きゃぁぁぁぁぁぁあああああああッ!!!」
絶叫する。
頭部から流れ落ちる、血。
サッチの両親と、同じ。
死を予感させる、色。
「あ、あぁ……」
サナの意識は、激痛と恐怖で一瞬飛んだ。
しかしソレは、サナを無理やり現実へ引きずり戻した。
二撃目。
今度は右側から、鐘を打つようにサナの小さな頭が鈍器のような物によって殴りつけられる。
サナは今度こそ、地面へ力なく投げ出される。
四肢には、まるで力が入っていなかった。
サナは、虚ろな眼で自分を襲った存在を確認する。
くすんだ色の、汚らしい緑のブツブツした肌。
ずんぐりとした体型に、やたら大きい瞳。
尖った大きな耳を持ち、その手に太い棍棒を携えてサナを見下ろしていた。
サナは、ソレを見たことは無かったが、名前だけは知っていた。
世界のどこかに存在することだけは把握していた。
だが、この村に出現するなんて聞いたことがなかった。
(ゴブ、リン……)
ヒトとは違う種族。ゴブリン。
かろうじて言葉を話すが、総じて知能が低く、攻撃的な性格をした種族だ。
「ぐひ。ぐへへ。ころすコロス」
ゴブリンは地に伏せるサナに馬乗りになると、そのゴツゴツした拳で彼女の顔面を何度も殴りつける。
やがて、サナが抵抗しないことを悟ると、ゴブリンは狂気的な笑みを浮かべ、立ち上がってその大きな棍棒を振りかぶった。
いくらゴブリンが比較的小さい生き物だとはいえ、子供の中でもことさら小柄なサナと比べると十分に化け物であった。
そしてその力は、大人だろうと全く敵わない。
ゴブリンがその棍棒を思い切り叩きつければ、そこには血にまみれた肉塊が転がることになるだろう。
そしてそれは、現実のものとなる。
「ぐひゃは。ぐひひ。死ねーー!」
ゴブリンが、横たわるサナへ向けて棍棒を振り下ろす。
ぐしゃ、と。
何とも虚しい音が響いた。
それは、ゴブリンの頭が大きな石によって弾け飛んだ音だった。
血を撒き散らしながら地面に崩れ落ちるゴブリン。
その、もはや岩と呼んでいいか迷うほどの大きさの石は、紐によって繋がれていた。
紐でつなぎ振り回すことで、重い石に勢いをつけてゴブリンを攻撃したのだ。
「大丈夫か!?」
そしてすぐ、その石を放ったであろう男がサナに駆け寄る。
「さ、サナちゃん!? おい、誰か来てくれ!!」
男はサナのむごたらしい姿を見るや否や、大声で助けを呼ぶ。
見たことがある人だった。
確か、父親の知り合いのうちの一人だったはず。名前までは思い出せないが。
サナは流血が酷く、その意識は再び落ちようとしていた。
しかし――
「サナちゃん! しっかりするんだ! 向こうにお父さんもいる!」
――男のその言葉で、辛うじて繋ぎとめられた。
お父ちゃんに会いたい。
サナは、感じた事のないような激痛の嵐の中、そんなことを思っていた。
サナは、新たにやってきた医者のような男に簡易的ではあったが頭に手当をしてもらい、そのまま男に背負われる。
そのまま、なるべくサナに振動がいかないよう、慎重に、かつ早く走り出した。
「サナちゃん。大きな声で叫んでくれてありがとうな。おかげで気づくことが出来たよ」
自分を背負っている男が何か言っているが、サナはほとんど聞こえなかった。
彼女の意識を留めているのは、大好きな父親への渇望だけであった。
しかし、数分後。
その渇望は、絶望へと変化した。
「うそ……だろ……?」
サナを背負う男が消え入りそうな声で呟く。
「ランドル……?」
サナは、男のその呟きにピクッと反応すると、首を伸ばして目の前の物を見やる。
そこには。
サナと同じか、それ以上に血まみれとなっている、変わり果てた父親の姿があった。
壁にもたれるように背中を預けている彼の瞳は開いていたが、それはもはや何の景色も映していない事がサナにもわかった。
――わかってしまった。
「おどうぢゃん!!!」
サナは、男の背から飛び降りると、よろけながらも父親の元へ駆け寄る。
「おどうぢゃん!! 起きて! ねぇ、起きてよ!!」
サナは愛する父親の肩を掴んで大きく揺らす。
そして。
どさっ、と。
バランスを崩したその人の形をした何かは、自身の重さを支えることなく倒れる。
あっけなかった。
「え……あ……?」
サナは、頭が真っ白になった。
目の前のこれは何だ。
何がどうしてこうなった。
何故ならなければならなかった。
――何故。
目が回る。悪寒がする。吐き気がする。
ああ、これは、そうか。
世界が終わったのだ。
突然、地面が揺れた。
地震。それも、規模がおかしかった。
「うおわ!? 何だこりゃ!?」
「うわあああああ!!!」
「おい、地割れが起きたぞ! 気をつけろ!」
「とにかく、広いところへ避難しろ!!」
地響きが起こるほどの、桁外れの地震。
「あはは」
サナは、思わず笑った。
何故かはわからない。
ただ、自分の内から湧く感情。
それに身を任せた結果、笑うという行為に帰結したのだ。
楽しいわけではない。嬉しいわけでもない。
サナの精神は、壊れ始めていた。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははッッ!!」
サナは、その場から動かなかった。
地面にへたり込んだまま、何かに取り憑かれたように狂った笑いを続けていた。
ピシッ、ピシッ、と。
サナの周りの地面がひび割れていく。
しかし、サナはそんなことどうでもよかった。
終わったのだ。自分の世界が。全てが。
そして。
そんな壊れかけたサナを一人の青年が抱え上げる。
「……え?」
そのまま、どこかへ走り始めた。
その人は、自分と同じ橙色の髪をしていた。
(お、父ちゃん……?)
サナは、その人物の顔を確認することはできなかった。
規則的に揺れるたくましい腕の中で、妙な安心感とともに、サナの意識は暗闇の中へ落ちていった。




