12-4 崩れ落ちた世界
――
黄色い少女、ディスカは床に座り込んで呆然としていた。
一体何が起こったのか。理解できる事は、エンデルという豚野郎が目の前であっさり死んだ事と、自分の周囲で血生臭い惨劇が起きた事だけである。
真っ赤な床。転がる肉片。鼻を突く鉄臭さ。それらが、純粋だった黄色い少女の精神に深刻なダメージを与えるとともに、
(……あはっ)
――ディスカの心を、不思議と高揚させてきた。
思わず口角が吊りあがる。何故かはわからなかった。死体を見て嗤うなど、今までのディスカではありえなかった。何の変哲もない、十三歳の少女では。
簡単に言えば、心が壊れたのだ。余りにも酷い四つの死体に囲まれて。生理的に絶対近寄りたくない醜男からの強姦未遂のせいで。ここ数日の自分を取り巻く、目まぐるしく堕ちていく生活に対して。
そして、壊れたのは心だけではなかった。
「よし! アンタたち! さっさとここから逃げ出すよ! モタモタしてると、また捕まっちまう!」
先ほどディスカにアドバイスを送ってきた赤毛の女性がそう声を張り上げる。その表情からは、今までの陰険な雰囲気は微塵も感じられなかった。快活な笑みで、未だ怯える幾人の奴隷達に喝を入れている。
「あのクソデブ外交官を殺したヤツを差し向けたのは、どうやら隣国アギラルスみたいだ! とにかく、何とかしてこの国を出よう!」
「あ……この建物の外にさえ出れれば、門番に見つからずに国外へ逃亡できるルートを知ってます……」
「何!? 本当かい!? どこ行けば良いんだい!?」
「昔ちょっと裏世界で働いてまして……えっと、まずは墓地へ行って――」
赤毛の女性と、少し内気な猫耳亜人の少女が何やらペチャクチャ話し始める。どうやらこのリオストという国から逃げ出す算段を立てているようだった。
――勿体無い。
ディスカは、そう思った。何故か、思ってしまった。何が一体勿体無いのか。こんなクソみたいな国に、クソみたいな待遇。逃げ出せるなら、逃げ出した方が良いに決まってる。決まってるのに――
「ウチは、置いてってくれ」
そう告げた黄色い少女に、室内はシィン……と静まり返る。そして、赤毛の女性がズンズンと、鬼のような形相で詰め寄ってきた。そんな表情をしているというのに、撒き散らされている血を踏まないようにしている事に、ディスカは何故か笑えてきた。
「アンタッ!! 言うことを聞きな!! さっきも忠告を無視して危うく壊される所だったじゃないかい!!」
「――アンタも昔、そうだったんだろ?」
ディスカは目を細めて、薄い笑みを浮かべて赤毛の女性を見上げる。赤毛の女性は、口元を歪めて、しかし何も発言はして来なかった。
「それに、ウチはもう壊れたよ。ああ、全部ぶっ壊れちまった。だって――」
ディスカはゆっくりと立ち上がる。そして腕を大きく広げて天井を見上げ、クソ寒い冬の夜に暖かい風呂にでも浸ったかのように恍惚な笑みを浮かべると、
「ウチは今、こんなにも気分が良い!!」
自分を家畜以下の、玩具として扱ってきたエンデル外交官。彼を襲った、酷たらしく、何の脈絡もない簡単な死。それは、ディスカの妄想に限りなく近いものだった。
壊れた。ディスカの綺麗な心が。そして、黄色い少女を押さえつけていた、常識という壁が。
「な、何言ってんだい! 良いから、早く逃げるよ!」
「何を言われようとウチは逃げる気はねーよ。この国で、もーちょっと遊ぶ。ウチに構ってたら、みーんな逃げ遅れちまうぜ?」
その顔に焦りの色を織り交ぜる赤毛の女性に、ディスカは猟奇的な笑みで応えた。そのドロドロに濁った瞳は、かつての綺麗な黒目とは大違いであった。
「……ッ!! もう勝手にしなッ!!」
赤毛の女性は、奴隷の女性達の元へと駆け足で戻っていく。そして、彼女らを引き連れてゾロゾロと大広間から出て行った。
(……さて、と)
ディスカは至る所に飛び散っているドロドロの液体を何の感情もなく踏み越えて、スタスタととある一点へ向かって歩く。
エンデル外交官は、この部屋で沢山の女性と『お楽しみ』をする予定だった。奴が何を好み、どんな事をするのかディスカには詳しく想像できない。しかし、自分が今着ているような、フリフリの可愛らしい服を用意してくるくらいだ。替えの衣服くらいあると、ディスカは予想した。
部屋の隅で存在感を放っていた、やたら豪華絢爛な洋服ダンス。煌びやかに輝くその扉をディスカは乱暴にあけて、そして絶句する。
(何だこりゃ。あのデブ、ホントに趣味わりーな)
そこには、本当に様々な種類の衣服(?)が納められていた。そのどれもが、吐き気を催すほど気持ち悪いものばかりだった。
女性が川などで水浴びする際に着用する物。布面積の異常に小さい物。明らかに内面が透き通るであろう薄いレース。そして、動物の着ぐるみのような物まである。もう、本当に気持ちが悪い。
ポイポイっと。ディスカは、何の役にも立たなさそうなゴミをタンスから放り捨てる。そして、幾らかマシな衣服を発見した。
(……まあ、これでいーか)
ディスカは、血飛沫がこびりついていたフリフリの衣服を脱ぎ捨てる。血の染み込んだ靴と靴下もどこかへ投げ捨てると、今しがた取り出した衣服を着用した。
黒いベストに、黒いロングパンツ。それは、ディスカの線の細い肢体を存分に強調させるコーディネートであった。何故か仕舞われていた茶色いサンダルだけは、少しだけ違和感があったが。
ディスカは、自分の左腕を見やる。肩のすぐ下、二の腕の部分に刻まれたソレを、憎らしい眼つきで睨んだ。
エンデルの奴隷である証。この場所に連れてこられたその日に付けられた、焼印である。
一生消える事のない、過去の証。
(……これも、隠さねーとな)
ディスカは、洋服ダンスから大きな真紅の布生地を引っ張り出した。あのクソデブ野郎がこの布で何をするつもりだったかわからないが、ありがたく使わせてもらう。
その布生地を、ディスカはビリビリに引き裂いた。そして、適当な大きさに調節すると、それを肩に羽織った。簡易的なマントである。
「うしっ。行くか!」
ディスカは、パンッと両頬を叩いて気合いを入れる。そして、大広間から駆け足で外に出て行く。先ほど通った廊下には、数え切れない量の死体が転がっていた。ディスカはそれに頬を緩ませる。本当に楽しみだ。
どうやら、建物内のほとんどの人間が惨殺されているらしい。おかげでディスカは、簡単に建物から出ることが出来た。
青い空。白い雲。太陽が爛々と輝いていた。季節は、もう夏真っ盛りなのである。
(まずは、あの青いにーちゃんと、眼鏡のにーちゃんを探さなきゃ)
ディスカを窮地から救ってくれた二人の人物。彼らと行動を共にすれば、自分も強くなれるかもしれない。ディスカの根拠のない高揚感は、ここから来ていた。
そしてそれは、病に倒れた母親の遺言を守る事にもつながる。
(お母さん、やっぱウチ、もーちょっとコッチにいるよ。言いつけ守ってから死ぬから、もー少し待っててくれ)
黄色い少女は、真夏の太陽が照りつける中、大地を蹴って走り出した。