悪夢
スコルアの王宮、その最上階の一室に姫君の寝室がある。そこには姫君シェルスと、その世話係の聖女リュネリアが時折会話しながら姫の治療にあたっていた。このレインセルの聖女とはジュール、マシルに問わず大聖堂の管理を任されており、数少ない中立的な立場である。しかし王族すらお飾りだと豪語する幹部が居る為立場は弱かったが、王室のある最上階に自由に出入りすることが出来た。先日行われた会議でもジュール、マシル双方の幹部たちでさえ最上階に踏み入る祭は王室の護衛兼、世話係である聖女の許可が無ければならない。ただし例外が一人……マシルのトップ、ナハトである。
彼女はマシルの最高権力者と言っても、その大半の管理をゼシル(意地悪爺さん)に丸投げしていた。
何をしようにも文句を言われるので、「じゃあお前がやれよ」と言ったらそうなってしまっただけなのだが。
そんな形だけの最高権力者のナハトだが、世界最高の才能を持つ天才、神に一番近い魔術師、バケモノ魔術オタクなどと言われるほど魔術に置いては右に出るものが居なかった。それは治癒魔術などの聖女が主に使用する物も含めてである。その為彼女は聖女にも羨望の目で見られ、王家が住まう最上階への出入りを常に許可されていた。
姫君が救出されて1週間ほど経っており、ハナトは連日姫の元に馳せ参じていた。別に聖女の治癒魔術が頼りないからという理由ではない。暇つぶしというわけでもない。ただ、一年間もの間、拷問を受け続け暗い地下牢に閉じ込められていた姫を思っての事だった。
そして今日もナハトは姫君の元へ向かう。マシルの大聖堂から渡り廊下を渡り最上階へ、途中出合う聖女全員に祈られるようにお辞儀される……ナハトは今だに慣れない……と目を伏せ軽く会釈しつつ躱していた。
姫君の寝室に到着しドアをノックする……リュネリアが対応したが、いつもと様子が違っていた。
いつもならすぐに中に入れてくれるのだが、なぜか部屋の外に出てドアを閉めナハトと対面する。
「ナハト様……いつもありがとうございます……」
と、リュネリアも祈りを捧げるように両手を組んで目を伏せる。
「どうした、何かあったのか?」
相変わらずぶっきらぼうにナハトはリュネリアを気遣う?ように様子を伺った。
「いえ……少し疲れて……いえ、すみません……姫様があんな目にあったのに……私は……」
大体察したナハトは姫君は寝ているのか?と尋ね、リュネリアが頷くとその手を引いて王宮の聖女が寛ぐ場として設けられた一室に入った。
「座れ、お茶でも煎れよう」
リュネリアは素直にソファーに座り、ナハトが自分の分とリュネリアの分の紅茶を煎れリュネリアとテーブルを挟んで対面し座った。
「姫の様子はどうだ、だいぶ落ち着いたか?」
姫君は夜中に悪夢に魘され、食事をしようにも牢屋の中ですすっていた泥水のような食事を連想して、喉が通らないなど精神的にさいなまれている状態だった。
「はい……お食事も少しずつとられる様になられて……」
しかし逆にリュネリアの目には濃いクマが出来ていた。世話係は彼女一人ではないが姫が特に心を許しているのがリュネリアだった。それゆえに姫は話してしまうのだろう、牢獄で何があったのかを。
「なんだったら忘れさせてやろうか?少しは楽になるぞ」
大体の想像がついていたナハトの申し出にリュネリアは驚きながらも、首を横に振った。
「姫様がお辛い目にあったのです……私がこの程度で根を上げるわけには……」
「いや、その考え方は止めた方がいいぞ、姫の体験は明らかに地獄だ。地獄には色々バリエーションもあるがその中でも最悪の物だ、とくに我々女性にとってはな」
ナハトの言葉にリュネリアは口を塞ぐ。嘔吐を覚えた。姫から聞かされた牢獄での体験談はまさに地獄だった。自分だったら一年なんてとんでもない、3日で死を選ぶ……と。
「こんなことを言ってはいけないのでしょうが……」
涙を浮かべるリュネリア。ナハトは言ってしまえ、と紅茶を啜りながら、ぶっきらぼうに対応する。
「姫様は……強すぎます……なぜあんな体験をして……自決を選ばれなかったんでしょうか……」
不思議でたまらないとリュネリアはついに大粒の涙を流しながらナハトに訴えるように言った。
ナハトはあいかわらず紅茶をすすりながら……
「まあ、こういっちゃなんだけど……姫君はその辺の騎士より逞しい……」
「そういう問題ではありません!!」
机をたたきながらリュネリアはナハトに食いつくように言い放った。そのまま謝りながらすぐにまた俯く。リュネリアの反応に驚きもせず、ナハトは無くなった紅茶のカップを置き、
「姫君は……騎士が助けにくる可能性は無いと最初から捨ててかかってたんだろうな」
リュネリアは顔をあげ、ナハトが何を言い出すのだと半分睨むように聞いていた。
「なぜなら自分はお飾りの王家のお飾りの姫君だから……と思っていたんだろう、実際そうかもしれない、我々マシルの幹部の大部分はそうだ、王家の事などお飾りとしか見ていない、意地悪爺さんみたいにな」
「ナハト様も……ですか?」
リュネリアは今にも死んでしまう蚊のような声で尋ねる……
「私は違う……と言いたいが、姫が拉致されて一年間、何も動けなかったのは私も同じだ」
それはリュネリアにとっても同じことだった。あの拉致から一年間、戦争が勃発するという警告を受け姫君の事は一切口外禁止となりバルス島への干渉も一切禁じられた。ジュールとマシルの会議でそう決まったからだ。姫を助けに騎士団を派遣すれば戦争が起きる、その戦争で民の大半が死ぬ……と。
それでも一週間前、姫は助けられた。その場に居たすべての人間を殺して……
「ナハト様……私は聖女失格です……イリーナ様のしたことは虐殺です……剣を持たない人間を一方的に……」
続けろ、とナハトは促す。
「それでも……それでも……私は……姫様の話を聞いていると、思ってしまうのです、殺されるのは当然だと……姫様をこんな目にあわせ、それを娯楽にする人間など皆死ねばいいと……私は……」
泣きながらリュネリアは語った。
「リュネリア、イリーナはこのレインセルで最も醜いなんて言われてるが……私からしてみれば騎士道を掲げてカスのような主に従い続けるバカよりよっぽどマシだと思うぞ。今のお前がまさにそうだ、聖女も人間だ、そう思うのは当然なんだ、私だってそうだ、イリーナが帰ってきて報告を聞いたときは正直胸が空いた。またあいつはやりやがったかと大笑いしたかったくらいだ。でもそんな事したら後々めんどくさいからな……色んな意味で……だからお前も少しはそうやって吐き出せ、話くらいならいつでも聞いてやる」
言いながらナハトはリュネリアの頭に手を置く。そのまま暗示をかけてリュネリアを眠らせる……
聖女であることを誇りに思い、それゆえに人間の醜い部分を受け入れる事が罪だと考える聖女。
ナハトはリュネリアを抱きかかえベットに寝かせる。
「たまには夢の中の夢で眠るがいい、お前の心はかつてない程に青く澄み渡る」
リュネリアの耳元で暗示となる言葉をつぶやく。そのままリュネリアは深い眠りに落ちた。
姫君は悪夢に魘され目が覚める……またあの夢だった。体中に残る傷跡、魔術でも消せない、一生残るそれを姫はなぞる様に触る。ムチで、刃物で、時には熱せられた鉄を体に当てられた。眠りたくない。眠ってしまえばまたあの夢を見る……またあの地獄を思い出す……眠りたくない……このまま朝が来るまで眠りたく……
「姫様?」
ヒョコっとナハトが顔をいきなり目の前に出してくる。姫はビクっと全身を震えさせて、いきなり現れたナハトに驚く。
「ナ、ナハト様……いつからそこに……」
「リュネリアがトイレからなかなか出てこなくて……それで交代しました」
最悪な理由をねつ造しながらナハトはリンゴの皮をナイフで剥き、そのまま小さく切ったリンゴを姫に差し出しながら……
「食べられますか?ちなみにこのリンゴは意地悪爺さんからのお見舞い品です」
姫君は意地悪爺さん…と聞いて、ゼシルの顔を連想してしまったことに少し吹き出してしまった。
「お、姫様、ご機嫌ですね……良い夢でも見られましたか?」
夢……と聞いて一気に気が重くなる……拷問の記憶、汚い牢獄での生活……
「夢は……みたくありません……」
ゆっくり体を起こし、リンゴをナハトに食べさせてもらう……口の中で甘い味、そのまま喉を潤すリンゴの果汁が素直に美味しいと思えた。以前は何を口にしても、あの泥水を連想するだけだった。
「リュネリアは……私のせいですね……」
「姫様のせいでトイレから出れなくなったとは考えにくいですが……」
まだねつ造を語り続けるナハト、シェルスはナハトの方に顔を向け
「ナハト様……リュネリアを休ませてくれたのですね……ありがとうございます……」
軽いジョークで姫を笑わせようとしていたナハトは軽く流され、少しショックを受けながら
「いえいえ……お安い御用ですよ、姫様。何か他に私に出来る事はありますか?」
シェルスは考える……色々ナハトに話せば解決するかもしれない、目の前に居るのはこの国で最高の魔術師なのだから……
「一つだけ…私の願いを聞いてらえないでしょうか……」
「はい、なんなりと……」
ナハトは大げさに頭下げて騎士のように振る舞う、だがシェルスの口から出た「お願い」に耳を疑った。
「私を……もう一度あのバラス島に連れていってください」