08.私の逃走
冬の間だけ住み込みの掃除婦を募っている屋敷があると、とある紹介で雇われる運びになったのがアンとの最初の出会いだった。
アンの屋敷は気候が緩やかな時期は週に三日、集落の通いの婦人が清掃を担っていたらしい。冬になると通いが難しくなり、かと言って夫のいる既婚女性に住み込みを頼む理由にも行かず、毎年他所から住み込みの掃除婦を雇っているとの話だった。他所からなのは、顔馴染みの集落の未婚の娘だと折り合いが悪いんだとか。それなら掃除夫でもいいんじゃとも言ったが、集落に掃除夫はいないらしい。他所で雇う場合には掃除夫の年もあるそうだが、アンの屋敷は女性に人気だ。というのも、屋敷の主人が独身の美丈夫なのもあるが、アンが報酬の一部として良縁を占ってくれるのが何より好評だとか。
アンの屋敷の噂は掃除婦の間では有名で、あまり人と関わらないようにしていた私の耳にも入っていた。良縁に興味はなかったけれど、占いには興味があった。勿論、私の体質について聞き出したいが為だ。
けれど、それだけ有名ないい儲け話の求人倍率は大したもので、また、アンの身分と立場もあるから、ちゃんとした紹介が必要だった。到底、私のような名前もない流れの女がありつける話ではなかった。だからこそ、この出会いはちゃんと“裏”があるわけで——……。
◇
「“リサ”はどうだろう?」
どうだってなんだ。
住み込み生活二日目、私は早くも一冬では終わらないだろう仕事を産み続ける元締めを軽く睨め付け、首を傾げた。
「どう、とは話が見えません」
「鈍いなぁ。名前だよ、お前の。ないと言ったじゃないか。だから命じる時は適当に呼べと望んだのはお前だぞ」
「ですから、その“お前”でも事足りるかと……」
「足りないから言ってんの。んだよ、リサじゃ不満か? なんならヴィクトリカとかアントワネットとかこう、すげー響きのやつにすっけど……つーか、リサにしとけ! 俺が呼びやすいし必要だし、いーじゃん、俺主だし。なんなら今後も使えよ。そう名乗ればいい、な、リサ」
半ば押し付けるように言い渡された名前だったが、後にして思えば私が有無もなく受け取りやすいようにした配慮だったのかも知れない。
呼ばれなくとも困らないと意地になって、自称すら名乗らなかった名無しの私が必要だから使うんだと、理由を掲げて名前を貰う。
やり取りは素直じゃなかったけれど、本当に嬉しかった。その後も用向きには必ずアンが名前を呼び、時には下らない理由だったとしても私は応じることが嬉しくて、楽しくて仕方なかった。
それから暫く、掃除婦のリサは当初の目的を忘れて懸命に働いた。
この地方の冬は長く厳しく、しかも腐海無尽製造機のアンの所為で仕事はどれだけやってもなくならない。私は生きるに培ってきた掃除技術を大いに駆使することが出来たのだ。
長い冬、一つ屋根の下で暮らす中で、私はアンの為に生きたと言っても過言ではないだろう。始めは名付け親への忠犬的崇拝だった。それがいつしか私の女心が疼くように変化するのに時間は然程掛からなかった。
きっかけははっきりと覚えていない。ただ、アンに奥様がいたと知って傷ついたのは確かだった。宛がわれた部屋も、そのクローゼットの中の服も奥様のもので、アンは住み込みに来る掃除婦に貸しては少しの思い出に浸っていると知った夜は、こっそり涙した。
一晩泣いて、私はこの恋心は二度と表に出さないと誓った。そもそも、この呪われた手を持つ私が誰かを愛そうとするのが間違いなのだ。我が身を思い知り冷静になった。
私の手は呪われた手。いつだって血を啜ったように指先は赤々と紅を乗せたように染まっている。
私はみすぼらしい風体に不似合いな部分を隠すためと、万が一直接触れて相手の生気を不用意に貪らないために普段からずっと手袋を身につけていた。酷く空腹の時は布越しでも危ういが無いよりは幾分かは安全で、勿論アンの目にも触れさせたことはない。見られたところで呪いの手だと分かる人はいないけれど、昔、屋敷の婦人の紅を掠め取った濡れ衣をかけられたこともあり、人前に晒すことにいい思い出はない手だ。
それなのに此処での生活は私を困らせることばかり起きる。
雇用主のくせにアンはやたらと手を差し出す。
私が膝を付いて床を磨いていると、終わる頃合に「綺麗になったな。お茶にしようか、ほら立って、手を貸すよ」と差し伸べる。それ以外にも重い物を運んでいたら手を重ねて変わろうとする。しまいには雪掻き中に足を取られた私を、危ないからとついそこまで行くのに手を繋ごうとするのだ。
意識しないようにしているのに、触れぬようにしているのに彼は容赦なく踏み込んで来る。
私からしたら自殺行為にしか見えない。
いっそ手を取ろうかと誘惑にまで駆られる。
例え後悔しても、好きな人の手を取れる幸せはあまりにも甘美に思えたのだ。
その後もアンは今までのどの主人よりも優しく、私を人らしく扱ってくれ、いい時間ばかり与えてくれた。
月日は過ぎ、もうひと月で春も訪れようという時にその人は現れた——……。
* * * * *
目覚めに天井ではなく枕の端を視界に捉え、私は私にしては珍しい俯せの状態で起床をする。
起き上がろうと身を捩ると肩が痛んだ。……そう言えば矢に射られた記憶が残っている。
寝具から此処がアンの屋敷で、私に宛がわれた無き妻君の部屋だと分かった。だけど今が何時なのか、あれからどれだけ時が経っているのか分からず、不安ばかり募って首だけで周囲を探ろうとしてぎょっとした。アンがベッドを背もたれに床に腰を据え、私の手を握ったまま寝入っていたのだ。
なんて命知らずな! 彼は私の所業を見なかったのか。見ていて理解しなかったのか。恐ろしくなってすぐ手を引き抜く。幸か不幸か、負傷した手は包帯が手厚く巻かれていたから、案ずるほどなんでもなかったかも知れない。まだ寝こけたままのアンの一定して刻まれる寝息に大事無いと判断して胸を撫で下ろす。けれど、記憶が蘇って自分の悪しき力を思い出した私は慌ててクローゼットを掻き回して見つけた手袋をきっちりと装着した。
すべて思い出した今、もう此処にはいられない。
アン——……。名残惜しいけれど、私は此処を立ち去らなければならない。今度こそ、彼から離れるために。あの日のようにアンに助けられて舞い戻るなんてならないようにしなくてはいけない。
二度も恋した相手に後ろ髪が引かれるけれど、死因が私にはさせられない。
逃げるのだ。あの人を殺してしまう前に。あいつに利用される前に。
フード付きの外套を深く被り、屋敷を出る。行く宛などないがそんなのは今更だ。幸いアンの手料理のおかげか飢えは感じない。動ける内に遠くまで行ってしまおう。そうだ、馬。里に下りて馬を借りよう。なけなしの金銭で全力で逃げるのだ。
「やあ、リサ殿。おひとりでお買い物ですか?」
私は凶星の元にでも生まれたのだろうか。この両手もそうだし、逃げ出したら記憶喪失。運良く記憶を取り戻し、再び逃走を計ったら知り合いに遭遇だ。それも、とても無視出来ぬお方だとか。
「そ、そうなんですよ。ちょっとこっちで馬でも借りて大きな街で良いもの探したいなと……殿下」
エステル殿下。どうして一国の王子が、こんな辺鄙な、雪に閉ざされた集落に頻繁に顔を出すのよ! しかも国王が崩御されて、喪が明けたら戴冠式とか控えているんじゃないんでしょうか!
などと、口が裂けても言えない日陰者の人間は適当に話を合わせて会釈する。
赤毛の柔らかな髪は色艶良く手入れが行き届き、まだ幼くはあるが将来はもっと精悍な殿方になるだろう。温和な口調はきっと優しい王様になるだろう。
そんな人がアンの側にいるなら、きっと彼の行く末は無事だと己を安心させ「では」なんて、良妻演じてこの場を離れる。
つもりだったんだけどな。