07.私のうまし糧
ブリザードのような殺気が肌を刺す。
痛い。死ねと、朽ちろと視線が私に訴える。
この人達も私を知っているのだ。私を排除すべきと知っているのだ。
「お前ら、俺を敵に回す覚悟は出来ているんだろうな」
怒気を含めながらアンが腰の剣を抜く。しかし黒マントの刺客らは無言で一斉に矢を私めがけて放って来た。
「口封じは要らない! お前らの主に伝えろ。秘密は閉ざされている! もう彼女につきまとうな!」
矢を剣で薙ぎ払い、アンが怒鳴る。
やっぱり狙いは私なんだ。その理由をアンも知っている。
私は何者? ただの掃除婦じゃないの?
不意に私の肩の傷が疼く。私が記憶を失った時に折った傷。
——そうだ。私は逃げていた。そして射られたのだ。幸いにも雪に足を取られて転んでしまったから矢尻は肩を掠めるだけで済んだけど、きっと毒が塗られていたのだろう。掠っただけの傷口が酷く熱を持ち始めて意識が保てなくなって、そして……。
頭が割れるように痛い。
蘇った記憶の一部に一瞬世界が歪んで見えた。
目の前ではアンが短刀を抜いた刺客の一人と応戦していて、他は私に近付こうとまごついている。アンが私の壁になっているんだ。彼の動きが私を上手く隠していて彼らは私に近付けないし、的も絞れない。
そうだ。アンは一度に複数の未来が覗き見えるんだった。
——そんな話、いつ聞いた?
前の私が教えて貰ったのよ。
彼は私の質問に色々答えてくれたわ。自身の能力のこと。何処まで視えるか。未来が、運命が、分岐が、並行世界が……。
あらゆる世界が覗ける千里眼。
彼には色んなものが視える。きっと今の私への守備も刺客らの視界を、その先の行動を読んで動いている。一見無敵で、その内敵を撃退してくれそうだけど長引いては危険なのを私は知っている。
アンの能力は対多勢には向かない。死角がある。いくら彼がこの場にいる私含めた全員の未来が視えても綻びが出来るのだ。
彼は言った。自分自身の未来は視えないのだと。
もしこのまま私を守り続けてアンが傷付いたら、私は私を殺したくなる。
アンは私が守らなければ……。
どうやってなんて考えない。痛む頭を抱えて立ち上がる私の足は情けないほどにふらふらで、歩くのすら覚束ない。
こんなんでどうやってアンを守れるのだ。武器もなく。力もない。
それでも私が勝手に動いてアンの壁から出たことで刺客の一人が動き出した。私を狙って動き出す。私は格好の的だ。まともに動けない。でもそれでいい。私は狙いやすい餌に見えたらいいのだ。
私の中の私が言っている。
獲物は相手の方だ。私は手の届く範囲で待てばいいのだと教えてくれる。
「リサ!」
アンが私を呼んだ。私は彼の声を聞き流し、目の前の刺客を待ち構える。
長ったらしい黒い布が邪魔だわ。ほら、肉を食べる時は動物の毛皮を剥ぐでしょう。ヒトの衣装なんて毛皮と一緒だ。……でも、煩わしいだけでそのまま齧り付けるのよね。
私に近付いた男がナイフを抜く。遠くから弓矢で射抜くんじゃなくて良かったわと思ったけど、弱っている生き物を見たらどうしてだか直接とどめを刺したがる習性がヒトにはあるのよね。
ええ、私は弱っているわ。
とても、とってもお腹が空いているの。
ずっと、ずっと。満腹なんて感じたことのないくらいお腹が空いているの。
興奮で荒くなる鼻息まで聞こえる距離に男が立っている。
アンの声が響いた気がしたけどもう何を言っているかよく聞こえない。
男がナイフを私めがけて振り下ろされる。
鈍色の刃物。こちらも雪を抱えた冬空の色をしているけど、アンの瞳の色と比べたらなんて冴えない輝きかしら。
私は自然と笑ってナイフ向かって手を伸ばす。正確にはその柄を握る手、その先の掴みやすい手首だ。
まさか刃物に直接向かってくるなんて思わなかっただろう男が一瞬怯み、ナイフは私の掌の端の肉だけを抉った。
痛いなんて思わない。私の牙の方が相手の喉笛を捕らえたのだから。
捕まえた手首から私に流れ込むナニカ。
そのナニカの正体は知らないけれど、生きることとは他者の命を貪ると同意なのだから、私がこの手を通して得ているものはきっと生き残るための糧なのだ。
私の手を通して捕食されるものは蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のように、食虫植物の蜜袋に迷い込んだ蝿のようにだんだんと弱っていく。
男もナイフを落とし、膝を着く。代わりに活力を得た私は立ち上がり、血で濡れた手を男の外套で拭い、丁寧に頭を下げた。
「……ごちそうさま」
「ば、化け物め……朽ち果ててしまえ……」
足元で恨めしそうに呻く声に、私は残念そうにしてみせて肩を竦める。
「生まれてからずっと、私は死だけを望まれてきたわ。だからごめんなさい。あなたの命を奪ってでも私は生きてやるの」
そうだ。蛙が虫を補食するように、その蛙を蛇が呑むように、その蛇を鷹が啄むように私はヒトから生気を貰う。
そうやって食い繋いで来たんじゃない。
なにも命まで奪ったりはしない。ちょっとだけ、ほんの時々ちょっとだけ分けて貰って生きてきたのよ。だからいつだって私は空腹で、痩せっぽちの貧相な姿で飢えていた。
化け物だなんてあんまりよ。それでも私は生きたかっただけなんだから。
……ほんと、あんまりだわ。
顔を上げて見た光景は、私に向けられる畏怖の眼差し。
何があったかなんて捕食された当人以外知りようもないように思えるのに、生き物の本能か大抵私のコレを見た人間は怯えるのだ。
でも、今日はいいや。アンがこれで守れたなら、私は人間を捨ててもいい。
そうよ、アン……。今、どんな顔をしている? 怯えた目をしているのかしら。
アンの方向だけ怖くて見れず、私はただ曇天の空を見上げて佇んだ。
なんて重苦しい色なんだ。だから冬は嫌いなんだ。生きた心地がしない。春なら野に咲く花の生気だけでなんとか食いつないで行けるのに……。
舌打ちでも出そうな最悪な気分。
そんな時、グッと押し込むように何かが肩に突き立った。
我が身を振り返れば後方に矢羽が覗く。
離れた場所から叫び声のような声が聞こえた。内容は上手く聞き取れないけど、きっと聞く必要のない内容だ。
おそらく矢に射られただろう私は、そこから広がる痛みにだんだんと朦朧としてせっかくの気力を早々に失ってしまった。
立っているの、きつい。
膝を着くと、倒れてしまう前に背中を抱きかかえられる。確認しなくてもその温もりが誰かなんてすぐ分かった。
「リサ……!」
大きな声で呼ぶ声。
そうやってまたあなたに名前を呼んでもらうなんて、幸せだわ。
心の底から温もりが広がるのを感じながら、私は静かに目を閉じた。
血が流れすぎたのかしら。とても寒いの。
* * * * *
寒い。衣服もボロだし、身体に肉はないし、お腹は空いているし、誰も私を呼んでくれなくて、いつも身も心も寒かった。
元々、私という個人に名前はない。
私は私で、物心ついた頃から「おい」だとか「そこの」「チビ」「うすのろ」とかその場しのぎに便利な呼ばれ方をされていた。
親の顔は覚えていない。貧しかったのだけははっきりしていて、お腹が空いて目の前に見えた足に擦り寄ったら蹴られたのははっきり覚えている。
父親はいなく、私に目を向けなかった母親の足しか覚えていないのだ。
その頃には私は生き物に触れることでちょっとした空腹を埋める術を覚えていて、だから余計に疎んじられた。
母親はいつの間にか居なくなっていて、住む場所を失った私はとにかく掃除婦として働いて食い繋ぐようになった。
ただでさえ貧しく、普通の食べ物のでは飢えは凌なかったので、草花の生気で紛らわす。己の異形さを自覚してからはなるべく人に触れぬように気をつけたけれど、それでも全くの接触を回避するのは難しく、バレては逃げてと生きる場所を転々と模索するばかり。
どこに行っても私はみすぼらしい名無しの掃除婦。
だからあの人が不便だからと言いながら付けてくれたリサって名前、例えようのないくらい歓喜に震えたなんてきっと知りもしないでしょうね。