06.私の好きな人
キスをされた。
アンの灰色の目が緩んで、少し春色めいた気がしたなんて自惚れ?
背の高いアンが私の腰を両の手で拘束し、見下ろす形で彼の鳥籠で囲われる。アンの灰色の髪がぱらりと私の顔にかかり、私が指先で手に取ると切れてしまった。
「ごめんなさい、痛かった?」
慌てて聞いたらアンは微笑んで私の手を取って、彼自身の頬を撫でさせた。
「いんや? でも触るなら俺に触れてくれ。気付いてないかもしれないが、お前から俺に直に触れたことはほとんどないんだぜ?」
そうだったかしら。意識したことないけど、アンがそう感じたならそうだったのかもしれない。
もっと積極的に私からも触れるべき?
確認するようにアンを見やれば、期待するように右手を差し出すから私は恐る恐ると彼の指先についと触れた。次の瞬間、私の手はアンにしっかりと握られていた。
——温かい。まるで身体の芯からアンの温もりで満たされるように私の血液が勢いよく巡って行く気がした。
なんて大袈裟な物言いとは言わないで。それだけ私には特別な触れ合いだったのだ。
好きな人と、アンと手を繋ぐだけでこんなに満たされるなんて考えもしなかった。
深呼吸をする。アンの温もりが体内に広がる。
私、この人が好きだと改めて感じた。
「そんな顔したら、その場で食われるぞ」
「え? あ……ぼんやりしてごめんなさい。せっかくのパンケーキ、一緒に食べましょ?」
私としたことがすっかり忘れていたパンケーキを前に我に返る。
フォークとナイフを手に取り、キツネ色の円盤を一枚取り分けたらアンは苦笑した。こんな時まで発揮する食い意地ではなかったかしら。それでもアンは気を悪くせずに、私が食べ終わるのをずっと眺めて待ってから再び手を差し出した。
「食べ終わったら出掛けようか。案内したい場所があるんだ」
アンの誘いに私は静かに頷いた。
◇
屋敷を囲む灰色の森。集落へ行く道と分かれ道の先に、拓けた空間にアンと来た。
今は雪に覆われているけど、きっと春になれば花畑じゃないかと思わせる広場。その中心に佇むのは明らかにそれと分かる墓標だった。
「——二番目の妻だ」
墓標の前に立ち、寂しげに振り返るアンの表情で私のこめかみがつきんと痛む。
“あの時”もアンはちょっと寂しそうに微笑って、墓標の雪を払って話してくれたんだ……。
『——二番目の妻の墓だ。お前に宛がった部屋があるだろ。あの部屋の前の主な。遺言で、女性が泊まるなら使わせろって言われてたんだ。他の部屋は殺風景だから、せめて広い景色が覗ける窓のあるこの部屋じゃないと可哀想だって……』
ああ、そうだ。その時私はこの人も私とは違う重荷を背負ってるんだと思ったんだ。
孤高の占い師。次元を越えた千里眼の灰の賢者——アイエネス。
「リサ、どうかしたか。顔色が悪いぞ」
心配したアンが私の肩を寄せて顎を持ち上げ顔色を覗いた。私は首を振って大丈夫と言って、彼女の墓前に膝を着く。
アンの二番目の奥様。此処で会うのは二度目なのね。
暫し手を合わせて黙祷し、私はアンと向き直る。
「以前も案内してくれたわね。でも随分間が空いてしまったのね。こんなに雪に埋もれてしまって気の毒だわ」
「……思い出したのか?」
「お墓参りの瞬間だけ。あの部屋、奥様の部屋だって教えてくれたわ」
「別に隠してたわけじゃないからな」
狼狽えるアンの言いように吹き出して、私は責めるつもりはないと述べる。
「記憶喪失の女に急に伝える内容でもないもの。急に記憶上初対面の人に話されても困ったと思うし。でも……」
今は話してくれるわよね?
私が知らないアンの話。私が忘れたアンの話。
知らないでしょうけど、私、ずっとあなたが知りたくてやきもきしてたのよね。
そう言ったらアンの頬が紅潮して緩むんだから、素直って大事なんだと気付かされた。
* * * * *
魔力を有する人間は数少ない。
アンは灰色の賢者と二つ名が着く大魔道士で、遥か先を見通す力でこの国の発展に貢献したらしい。
国が落ち着いてからは今みたいな隠居生活の中、求められては時折国政に口を挟むのだとか。
でもいくら凄い賢者様だからって、国のお偉い方々がアンのような若造の言葉に耳を傾けるものなのって尋ねた時、彼の答えに私は耳を疑った。
「百五十歳!? そんな、信じられない!」
「保有する魔力の量がどえらいんだな。多分、全盛期の肉体の若さを維持して今があるんだよ」
「違うわよ。いえ、若さにも驚いているけど、なんというか、あなた、実年齢と中身がちっとも見合ってないんだもの」
おとぎ話の妖精だとかは若い姿でもやたら年寄りめいてたりするから、そんなイメージがあるのよと口にしたらアンは盛大に笑うのだ。
「そりゃ仕方ないだろ。だって俺には守るモンがねーもの。妻も子もいない。求められるべき責任や義務を今まで殆ど負って来てないのに、それで成熟した精神が育つワケないじゃないか」
そんなものなの……?
でも、妙に達観していたりしてもそれはもうアンとは違う気がするからいいんだわ。アンはアンで。
「よくよく考えたら、やけに達観していたら若い娘に手を出すスケベジジイになってしまうものね」
「はっ。とうにスケベジジイなんだがな」
背中から抱きすくめられ、耳元でアンは囁いた。
「夫だって嘘ついてごめん。記憶がないと知って、再び意識してもらいたかったんだ」
「そういうことだったの」
それなら効果は抜群だ。疑心暗鬼で意識せざるを得なかったもの。
鎖骨の上に回されるアンの腕に触れると、やっぱり私の身体は芯まで温もり心地好くされる。
この腕に最低でも二人の女性が包まれたのよね。そう考えると嫉妬してしまい、私はふと気付いた。
「このお墓は二番目の奥様なのよね? 最初の奥様はどうしたの?」
アンの腕がすり抜け、正面切って尋ねたら彼はまた少し寂しく笑って肩を竦める。
「ふられた。まだ今みたいに力が大きく顕現する前の、十代のガキの頃に結婚した幼馴染みだった。別れたのは四十の頃、俺だけ二十代の姿なのに耐えきれなかったみたいで……責められなかった」
「そう……」
女だから分かる。好きな人よりどんどん老いていく自身が嫌だったのね。それも一つの道だったのだろう。
「二人目は五十過ぎの頃かな。こんな俺でもいいと言ってくれた女で、三十年くらい連れ添って病で死に別れた」
それからは一時の付き合いはあっても番わずに一人で七十年くらい。
「どの妻も愛していた。でも肩を並べて生きていけないのが辛くて、ひとりでもいいと思った。なのに俺はお前が欲しくなったんだ」
物憂げなアンの冬の瞳が私の右手を取って甲に唇を落とす。
「こんな俺だけど、お前の夫にしてくれないか……?」
冷えた唇から熱が伝わる。同時に僅かな震え。
強そうに見えるのに怯えているのか。そんなに私が失うのが怖いと言ってくれるのか。
私の胸の内は歓喜に震えた。
「俺を知って嫌になったか?」
不安げな問いに私は唇を噛み締めた。
嫌なわけない。私の心は最初から決まっている——。
「私は——……」
言いかけて突如アンが私を払い除け、後方に突き飛ばした。
驚いて倒れた半身を起こしぎょっと目を剥いた。私が今まで立っていた足元に一本の矢が突き刺さっていたのだ。
「これは、俺の妻と知っての狼藉か……?」
聞いたことのない恐ろしく低い声でアンが言い放つ先に、黒い布で顔を多い隠した屈強な男達が武器を携える姿が弧状囲む光景が広がっていた。
肌を刺す空気は冬の凍てつきと、私にはとても馴染み深い“死”だった。