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05.私は御機嫌ななめ

 

 雇われの掃除婦。

 私があの屋敷と関わるきっかけらしい。何処か記憶に引っかかりも残るけれど、嘘ではないと思った。私の掃除技能は主婦より、それを生業にしているものだと何処か自負している。

 掃除婦のリサ。

 この肩書きがすとんと収まりが良くて、良すぎて胸が痛い。

 だけどリサ、悲観的にならないほうがいいわ。掃除婦から見初められてのお輿上げという、大衆ロマン小説のような展開が起きたのかもしれない。

 ……でも正式な夫婦ではないのよね。前向きに考えすぎても辛いだけだ。

 分かりかけていたと思っていた私自身からまた遠去かり、途方に暮れた私が再びアンのお世話になるのを一瞬(はば)かられたけど、厳しい冬を越すためにはこの話は聞かなかった事にした方がいい。少なくとも、アンが私を妻と言ってくれている間は、何も知らない前の私を知らないふりをしよう。

 この白い冬は、あまりに生気が足りない。無事にこの冬を越すのにはアンの懐は丁度いい宿なのだから。

 忘れていた。忘れていたけど思い出した。私の人生に期待えお持ってはいけないことを——。




 * * * * *


「なーんかお前、機嫌悪くない?」


「本当の私はあなたの何?」と、怖くて聞けずに一夜。アンが訝しげに尋ねる。


「別に、普通ですよ?」


 嘘じゃないですよ? 私が怒る要素なんてひとつもない。

 凍死を気にせずに安心して眠れる寝床。明日に困ることなく満腹まで食べれる美味しい食事。生きるに事欠かないだけ以上のものを与えてくれる人にどうして怒りを覚えるものか。

 怒ってませんよ? 今日も美味しいスープ、ごちそうさまです。

 朝食を済ませ、いつも通りアンが

荒らした台所を片して広いお屋敷を掃除する。だって私は掃除婦。 この屋敷を磨くのが私の役目だ。

 外の雪のように、積もる埃を振り落とす。部屋の数だけ磨く場所はいくらでもある。溶かした雪解け水で床を拭いて、時折冷たさに凍える指を温めては手を休めると溜息が溢れた。

 両手を擦り合わせるとかさついた肌がざらざらとヤスリのように削りあっているみたいだ。

 荒れた両手に爪の紅が歪に映る。

 心なしか色が仄かに薄くなっている気がするけど、手入れをしていなから当然だ。そもそも手入れをするにもあの部屋には道具なんてなかったっけ。

 よくよく考えれば化粧っ気のない私と荒れた手に不似合いな爪の紅の違和。些細なものでさえ気にしてしまうのは、そんなことでも考えていないとアンのことばかり考えてしまうからだ。

 ——ほら、思い浮かべてしまった。

 籍を入れていない自称夫。

 灰色の長い髪を一本の三つ編みにまとめ、同じ色の瞳の美丈夫。素敵な人なのに女っ気はなく、どうして雀斑散らかす鳥の巣みたいな寝癖の鶏ガラ女を妻と呼ぶ。

 それから未来を見通すという不思議な力を持っていて、王宮仕えの謎な経歴の人。

 記憶喪失の私と同じくらい、私は彼のことを知らない。

 知っているのは器用に髪を編むのと、料理の腕と掃除下手なところくらいか。

 ……怒ってなんかいない。本当に怒ってはいないのよ。ただ私は……。


「リサ、ちょっといいか」


 不意に部屋に顔を覗かせてアンが状況を窺う。普段から掃除中にアンがいると邪魔だと邪見してしまうのでこの態度か。私が手を休めているのは好都合だったのだろう。アンは私の手招いた。


「手を洗ってダイニングにおいで。休憩にしよう」


 微笑むアンに逆らえず、私は意のままに動いた。浅ましいことに私はとても鼻が効くのだ。


 ◇


 分かっているの。分かっているのだ。

 私のご機嫌が斜めだと思っているこのヒトが拵えた賄賂であると分かってはいるのだ。

 ふんわりと弾力ある膨らみを重ねて出迎えるキツネ色の魅惑の山。


「これってパンケーキ?」

「女の子は甘いものが好きだって言うだろ?」


 いい歳した大人の男が小首を傾げるなんてあざといわ。見目が良いから余計にぐっと息を詰めてしまう。

 そもそも怒ってなどいないのに、こうやってご機嫌を取らせるくらい私は酷い顔をしていたのかという自責の念が湧いてくる。同時に、それだけアンも思い当たる疚しいものを抱えているのだと感じてしまう。


「……私は食べ物さえ与えれば許してくれる甘い女だと思われてる?」

「逆だよ。むしろ手強いと思ってる。花やドレスや宝石はいらないだろ?」

「私を飾っても意味ないもの」

「俺は同意しかねるけど、リサが一番笑ってくれるのって食べてる時だからこれしか浮かばなくてな……」


 そんな困った顔をされても私が困る。

 お皿に積まれたパンケーキの山。

 飽きが来ないように添えられたドライフルーツと生クリームに蜂蜜に砕かれたチョコレート。私は自分よりこのパンケーキを飾れたら幸せよ。

 行儀が悪いと知りつつもチョコレートの欠片を小鉢から直に手に取って口に運んだ。


「……甘くて美味しい」

「だろ。昨日買ったやつ。あの里、辺鄙だがいい品揃えるんだよ」


 単純にも軟化した私にほっとしたのか、アンの頬が緩む。それから頭を下げた。


「悪かった。やっぱり昨日のアガサが言ったアレが原因だろ?」

「私とアンが事実上の夫婦じゃないって話でしょ」


 それも気になるとこだけど、本質はそこじゃない。でも私と老人の話を知らないアンは少し焦った様子で力強く頷く。


「正式な夫婦じゃないのは認めるが、俺は決してお前を騙そうとしたわけじゃないのは信じてくれ。既に知っての通り、俺は一応王宮のお抱え占い師だ。国王には義理がある。お前は忘れてるかも知れないが、最近、国王が崩御され、国民は喪に服している。王族とその近親者はその期間は婚姻の類は一切禁じていて、俺は義理立てからそれに準じているんだ。俺は心底、お前を妻にしたいと本気で思っていて……いや、とにかく悪かった」


 再び下がる頭。私はアンの旋毛を眺め、どうしてか胸が締め付けられた。

 そうじゃないのに。アンが謝る必要はないのに。そう心が叫んで胸が痛んだ。


「私が許すか許さないか。どうして自分の力を使わないの? 占い師なんでしょ、先が見通せるんでしょ」


 そしたら私が何に憂いているかすぐ分かるのに、こんなご機嫌取りみたいな真似したり頭なんか下げる必要もないって分かるのに。


「私にそこまでしなくていいのに」


 アンがやっていることは無駄だと込めて半ば呆れて零せば、アンは顔を上げて私を睨んだ。


「するだろ! 俺はお前に申し立てもせずにお前のことを無理に暴いて覗き見みたいな真似して傷つけるようなことはしたくないし、機嫌が悪いと思ったら出来うる限り媚びへつらうさ!」

「ど、どうしてそんな必要があるの。だって私はただの掃除婦でしょ!? 一冬の為に雇ったただの掃除婦にそこまでする必要ないのに馬鹿みたいっ!」


 言ってしまった。アンの強くなる語気に釣られて教えられたくない秘密を暴露してしまった。

 仮初でも夫婦が良かったのに。掃除婦なんて現実を突きつけられても辛いだけなのに……。

 取り消せない言葉に今更ぐっと息を詰めても遅い。アンは「それを知ったのか……」と小さくボヤいてちょっと納得したように頭を掻いた。


「掃除婦って知って、どう思った? どう感じた?」


 なんでそんなことを聞くのよ。そしてどうして少し嬉しそうに見えるの。

 不穏に感じて一歩引けば、アンは脈絡もなく食卓に並べた生クリーム入りのボールを手に取って指で掬って舐めた。


「甘っ。ちょっと砂糖入れすぎたかなー。リサ、どう思う?」


 それって味見してもいいって促されているのよね?

 もう行儀なんて気にせず、会話にも詰まったから遠慮なく生クリームを指で掬い取ると、不意にその手首をアンに取られそのまま私の指は彼の舌で舐め取られた。


「やっぱり甘いな」

「し、知らない! だって私は味見してな……」


 最後まで反論出来なかったのは、今度はアンの指に掬い取られたクリームを私の口に突っ込まれたからだ。

 私より太く節の固い指が口内を犯す、まるで倒錯的な状況に目が回る。クリームなんてすぐ舌の上で溶けてしまった。味なんて認識出来ない。それなのにアンの指はしつこく私の口の裏側をなぞるから、嚥下出来なかった唾が溢れて顎を伝う。

 やっと解放された時は襟元に唾液の染みがはしたなく作られていた。羞恥で耳が熱いのが鏡を見ずとも分かる。

 足にも力が入らなくなって、抜け落ちそうになるとアンは脇下を抱えて支えてくれた。それが私の全身を熱くさせるから溜まったものじゃない。


「アン、恥ずかしいわ。離して……」

「嫌だよ。やっとこんなに触れられたのに今更手放せるかよ」


 より力強く抱き締められると、アンは囁きながら聞いてきた。


「……なあ、お前の気持ちはあの日のお前に追いついたか?」


 ——記憶喪失前の私と比べてってことよね。そんなの、まだ記憶が不完全な私に比較しようがないけど、今はっきり分かることはある。


「そんなの今の私に分かりようもないけど、ただ、あなたの妻じゃなかったことが悲しいわ」


 正直に伝えた。そうでもしないと今のアンは解放してくれない気がしたのだ。

 頭が沸騰する思いで答えたら、アンはこれ以上ないくらいに顔をくしゃくしゃに歪ませて「俺はその言葉が嬉しい」と言うと、了承も得ないでキスをした。

 あとの言い訳を述べるなら、私の答えが了承サインだったのだとか。


 

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