03.私の知らないあなた。
私、彼が好きかもしれないわ。
早鐘を打つ心臓に手を当てて思う。
夫婦だと言うのだからなんら不自然なことではない。
「リサの寝癖は芸術的だよな」
「リサ、このスープの味見を頼む」
「おい、リサさんよー。味見にお椀いっぱいはいらないだろうが」
「リサちゃん片付けお願いね!」
「リーサ! 今晩は夫婦らしく眠る? ああ、枕を投げるわけね、ノーなのね」
朝から晩までアンの会話は楽しい。アンに呼ばれる名前はとても耳心地が良い。
急速に惹かれていく。それって私の気持ちが元の場所に落ち着こうとしているのかしら。
私の中の私は相変わらず煩い。日々、警鐘を鳴らし続ける。
どうして坂道を転がるボールのような心を止められるというのだろう。
私、今、とても幸せなの。
記憶がないくせにって言われても、人生で一番幸せ。断言できるわ。
* * * * *
「里に下りようか」
夫婦生活一週間目。アンが朝食後のお茶を一口飲んだ頃合いに言い出した。
「里って、人の住む集落?」
「それ以外にどんな里がある?」
「だって、この屋敷の周りに全然人気がないんだもの。人里離れた辺境の地と思ってた」
「新婚夫婦のスイートホームを辺境の地に構えるやつがあるか。ちょっとだけ不便な場所にあるだけだっての」
確かに、隔絶されてるけど……とぼやいた言葉は聞き逃さない。ほら、やっぱり辺境の地なんじゃない。
宛行わられた二階の自室の窓から、毎朝眺める景色に民家はないのだ。一面雪に覆われ、街道はなく、灰色の森が屋敷を囲う。アンの家は十分辺境の地の館である。
「辺境の地だから立派なお屋敷なのにお手伝いさんが一人もいないのね」
「失敬な。通いの子くらいいたさ。ロバに乗れば大した距離じゃないんだ。ただ冬になると住み込みで雇わないとすぐ荒れるってだけで……」
「今年は特別ってこと?」
「今年はリサがいるからな」
「私、掃除婦?」
そんなつもりはなかったのに、余程落胆の声をしていたのかも。アンは大きな手で包むように私の頭を撫で、一通りくしゃくしゃにしてからニヤリと笑う。
「いじけるなよ奥様。夫婦水入らずに他人はいらないだろ。俺が料理、リサが掃除で夫婦分担でやれるよう手狭にしてあるんじゃねーか」
「手狭ねぇ……」
一般的な町長くらいのお屋敷だと思うんですけどね。
私の旦那様はちょっと謎だ。……悪いことで稼いでるようには見えないんだけどね。
「ーーで、せっかくの上天気に俺の奥様は可愛い旦那とお出かけしたくないんですか?」
「可愛い旦那様?」
「そこで疑問符浮かべないでくれるか」
わざとらしいのにダイニングテーブルに突っ伏して、あからさまに落ち込んで見せるアンの旋毛を見つめて吹き出す。
丸い頭が子供みたい。遠慮がちにそこを中心に撫でればアンが顔を伏せたまま目線を寄越して瞳で笑った。
「初めてリサから俺に触れてくれたな」
そう言う恥ずかしい事実を自覚させるセリフを吐くの、やめてもらえませんかね。
♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎ ♦︎
ギュッギュッと粉を固めるように雪面を踏み締めて歩く。
森を抜けた先にあると言う集落を目指しているけれど、半刻歩き続けてもまだ目的地に辿り着かない。
「もう! こんなに足場が悪いのにそこまでして行かなくちゃ行けないの?」
つい口を吐く愚痴に、顔面を覆う白い息から逃れるように振り返ったアンが子供を見る目で私に向いた。
「確かに、一月分の蓄えは十分あるけどな、思いの外俺の奥様がお菓子好きで、旦那様は腕を奮いたいと考えるわけですよ。チョコレートとかなぁ、香料も欲しいしなぁ」
「……それは素敵な提案ね!」
やる気の出る目的に俄然力が湧く。
ケープの襟を正し、指先の余る手袋を引っ張って防寒具を整える。
「ところで、本当に手を貸さなくてもいいのかね」
「ただでさえ歩き辛いのに、手を繋いで密着するなんて危ないわ」
「現実的なお言葉に無理が通せないな」
溜息吐いてアンは腰に下げた剣を抜くと、スッと頭上の枝に向けて一線を放つ。目にも留まらぬ居合抜きの後、剣が鞘に収まる音が乾いた空気を震わせる。
足元にはドサリと太めの枝が落ちて来た。アンは斬った枝の細かい枝を折ると太い芯を私に手渡す。
「これ、杖に使うともう少し楽だぞ」
「器用なのね」
「ま、多少の心得くらいはあるさ」
枝の馴染み具合を確認して、納得したのかアンが再び歩き出す。それに続く私の足取りも第三の足のお陰で大分捗った。
「……帰りは馬を借りような、一頭」
空いた右手で宙を切り、いかにも残念そうにするんだからきゅんとくる。
引っ付くの、嫌ではないの。ただ、触れてしまうと加速するモノが止まらない気がして怖かった。
坂を転がる玉はどうやって止まる?
壁にぶつかって砕けるまで?
ーー集落に出るまでの残り幾許の道程、相対する私の左手も宙を掴んだ。
♢
「大きい集落なのね」
「土地が余ってるからな。酪農と染色、織物を主流に食ってる。朴訥だけど人柄が大らかで気前良くていい村だよ。あ、この村の織物のリサの服を作ろうか」
本当にこの地が好きなのね。声の質で分かる。
あれが何かとか、あそこのエールが美味いだとか、あの家の猫は七三分けの黒斑だとか。アンが声を弾ませる。私は彼の案内で数歩斜め後ろをついて行く。
雪埋もれる白化粧の村の家々の甍の波は極彩色で華やかだ。今は雪が積もっているけれど、その隙間から覗く瓦の一部がまるで雪解けの花のよう。
「枯れない花っていいよな」
同じことを考えた?
驚いて目を丸くすると、アンはしてやったりと悪戯顏。
「以前、お前が言ってたんだぞ、リサ」
「記憶をなくしても私って根本は変わらないのね。同じ感想を抱いたわ」
なんだか進歩のない人間みたい。
ちょっと拗ねるとアンの手が私の頭に乗っかる。
「お前は花が好きだったよ。だから花のない冬は苦手だと言ってた」
「まるで少女趣味で素敵な好みだけれど、私、自分がそんなに夢想家な気がしないわ」
「食い気だもんな」
自然と頬が膨らんだ。仰る通りですけどね!
花だって食べると腹持ちが良ければもっと好きって思ってしまうし。
それにしても……。きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回しながらアンの後ろに着けば、いかに彼が慕われているか分かる。
「アン様、お久しゅうございます。これ、うちで採れた杏を煮詰めたものですが、いかがですか?」
「ああ、いい匂いだな。帰りに受け取ろう」
壮年のご婦人が小壺を抱えてアンに駆け寄る。
「アン様、この度家内が身篭りまして、安産の祈願を願いたくて……」
「それはめでたいな。奥方の負担も少ないよう、暖かくなったら吉日に改めて伺おうか」
帽子を握り、雪焼けした男性が奥様らしき女性を連れ添ってアンの元に寄って来た。
「アン様ー。オレ、余った枯れ木で木刀削ったんだ! これで剣術を仕込んでくれよー!」
「基礎は教えてやるがまずは体を鍛えろ。あと、ちゃんと家の手伝いをしないと教えたやんないからなー」
村の少年までアンを慕って駆け寄る。
アンは彼らとひとしきり言葉を交わしては別れを告げる。
「アン様はこの村の長か司祭様なの?」
「からかうなよ。この地に腰据えて長いから顔が広いだけだよ」
考えたら私、アンがどんな仕事に就いているか分からないのね。
妻だと言うのに本当に至らない。
アンが村人と話している時に、彼のこともこの村のことも、自分のことすらも知らない私は少し離れた場所でぽつんと立って輪の中に交われない。
「アン様、その方は……?」
アンと話していた若い娘が私に気付く。
「新しい掃除婦?」
つきんと胸に痛む響きに一歩後退ると、アンが私の手を取って握り締めた。
ぎゅっと指と指の間に彼の指が入り込んで絡む。手袋越しに伝わる温もりに涙が滲みそう。
指先、掌から伝わる体温が血管を通じて心臓に渡って胃の底の方に溜まっていく感覚。
満たされるというのかしら。
ただ、満たされるとちょっと不安で
、戸惑いがちにアンを見上げれば彼は私の心を解きほぐすようにふっと微笑んで手を離して肩を抱き寄せた。
「この女、俺の連れ合い。人見知りだから恐がらせないようにな」
そんな声高に言われると耳が熱くなる。
村の人達はアンと並ぶ私を眺め、すぐに目を細めた。
「そうかそうか。アン様の嫁っこかー。細っこい娘だねー、ちゃんと食べてるかい?」
スカーフを頭に巻いた小母さんが、大きなお尻を向けて「ちょっと待ってな」と彼女の自宅の方に向かう。奥に引っ込んだ小母さんはすぐに戻って来て平籠に蕪や葉野菜を私に持たせた。
「これでスープでも作って体をあっためな。こんな細っこいとこっちの冬は辛いわよ」
「あ、ありがとうございます。あの、私、お返しが何もなくて……」
「いいっていいって。あたしら、アン様にはたくさん世話になってんだ。奥様が元気で支えてくれるのが大事なのさ」
ありがたいお節介。返せる物などない私にかける温もりのある言葉に、また胸がぎゅっとなる。
こんな時、どんな顔をしたらいいのか分からず、私は会釈するだけで、背の高いアンの後ろに隠れた。不甲斐ないわ。
つんとする鼻の奥をすすって顔を上げれば、こちらを見ている少年と目が合った。
淡い赤毛の綺麗な、身なりが整った美しい少年だ。
少年は私ににこりと白い歯を見せて微笑むと、足を早めてこちらに近付く。少年に連れ添っていた長身の人も慌てて後を追って来た。
「ごきげんよう、アイエネス。そちらのレディを僕にも紹介して下さいよ」
「エステラ、今来たのか」
二人は顔見知りのようで、アンは友人を迎える態勢で両手を広げて軽くハグをして挨拶を交わす。
「先に来てましたよ。あなたがなかなか来ないから、外に出てきたんです。まさか子供みたいにはしゃいで新妻を自慢して回っているとは思いませんでした」
「はしゃいでいて悪かったな」
唇を尖らせ、少年を小突くアンの様子から余程親しい間柄みたい。
まだ十五、六歳の少年と二十代後半ぐらいのアンとは歳が離れているのに、どういう付き合いだろうか。
私の旦那様は謎が多い人ね。
「ねえ、アイエネス。奥様が不安げにこちらを見ているよ」
「そうだったな」
再会の挨拶をそこそこにアンは私の肩を抱いて、赤毛の少年と対峙させる。
「エステラ、俺の新しい家内のリサだ。リサ、こっちの坊主はエステラ。なよっちいいいトコの坊々ぽいが、この国の王子だ」
「お……⁉︎」
王子って、あの王子様? 失礼だけど、こんな普通の集落に王子?
いえ、それよりも私の旦那様は王子様と知り合いなの?
アンって本当に何者?
ぐわんぐわんと処理の追いつかない頭を抱えて、隣に立つ旦那様を見上げれば、彼は人差し指を自分の唇に持って行ってにかっと笑う。
「大丈夫。実は第一王子とか、国王の隠し子だとかそんなオチはないから」
まったく笑えない冗談だわ。