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02.私は甘いのがお好き。

 

 アイエネスさんは料理が上手だ。毎日のご飯も彼が手ずから用意してくれる。

 テーブルに二人分の敷布が向かい合って置かれ、空の平皿がその上に一枚ずつ。真ん中には籠一杯のパンに、チーズ、サラダボール、それからミルクが横一列に並ぶ。好きな物を好きな組み合わせでお食べなさいってことみたい。

 なんて贅沢な朝食。此処は天国かしらと唾を飲み込む私に、彼はくすりと微笑うのだ。


「簡単なものしか並べてないのに、リサの顔を見るとカリスマシェフにでもなった気分だな」


 悪い気はしないのだろう、嬉しそうなアイエネスさんの顔に私も嬉しくなる。

 食べることは好き。

 お腹も心も満たされるし、生きた心地になる。食べることが生きて行ける実感な繋がる。

 いただきますと手を合わせ、早速パンとサラダをお皿に取った。


「よく噛めよ。リサの胃はまだ強くないからほどほどにな」

「はぁい」


 まるでお父さん……お母さんかな。アイエネスさんの忠告に頷いて、気持ちより少なめの量でサラダを食べた。瑞々しい葉野菜に、煮豆、根菜。アイエネスさん手製のドレッシングはそれぞれの素材の味を打ち消さず、舌触りもいい。

 私、こんなに幸せでいいのかしら。

 どこか後ろ暗さを抱くも、食べることはやめられない。


「ーーリサは食べてる時が一番幸せそうな顔をしているな」


 食べてる最中に話しかけられるも、私はしっかり咀嚼して飲み込んでから拳を握る。


「食べると生きるは同義ですからね!」


 食べれる時に食べねばならない。

 力説すればアイエネスさんは喉の奥でくっと笑う。


「そうだった、前もそう言ってたっけ」

「……前って、記憶を失くす前のこと?」

「そ。やっぱリサはリサだなぁと再認識したわ」


 灰色の瞳を弓なりな細めてなんて緩みきった顔。

 心臓がちくちくする。どうしてそんなに嬉しそうな顔をするのよ。まったくもう! せっかくの食事の味が分からなくなっちゃったじゃない。

 声には出さないけど頬が熱くなるのが分かる。

 駄目よ、リサ。そんな顔に懐柔されないの。美味しいご飯を作る彼にそう簡単に絆されちゃ駄目。

 だって私の警鐘は鳴り止まないのだ。記憶はなくても本能を無視は出来ない。


「デザートにミルクプリンもあるんだが、食べたい奴は手を挙げろ」


 この人はなんて甘いひとなのかしら。

 無償の善意には食って掛かるべきだわ!

 そう己に言い聞かせ、私は右手を真っ直ぐ天に伸ばした。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 この三日、疑惑の自称旦那様と暮らしてみて分かったことがある。

 人間、やはり何かしらの欠点は持ってるものだって。


「……やっぱり酷い……」


 想定した通りの現状に目頭を摘む。

 この短い時間でも分かるくらいアイエネスさんは素敵な男性だ。優しいし、手先は器用で料理も上手。だけど、片付けは下手だった。よもや“片付け”と言う単語を忘れてしまったのではないかと勘繰るくらい。

 炊事場は朝食の為に使った道具が不安定に重なり、水桶に突っ込まれ、油が浮いている。調理ゴミの野菜の皮などもそのままだ。


「…………」

「そう睨むなよ。作りながら洗うのは苦手なんだよ。どうせ食べたらまた洗い物が増えるだろ? まとめて一回で済ませた方がいーじゃんよ」

「こまめに片す方が断然楽ですよ」


 呆れながら私は袖をまくり上げた。

 アイエネスさんの片付け方は実に要領を得ないので、脇から見ているとヤキモキするのだ。アイエネスさんは「綺麗な手が荒れてしまうよ」なんて気障ったらしいセリフを吐くけれど、私の手はちっとも綺麗じゃない。

 いいところのお嬢さんじゃないのね。赤切れだらけの労働者の手。指先だけはご令嬢のように紅を乗せているから妙に浮いている。

 私って本当に何者かしら。

 何処をどういう手順できっちり整頓出来るか容易に頭に描けるのだもの。


「ねぇ、今日はこの家を片付けてさせてもらえませんか?」


 朝の炊事場を片付けた後、居間のソファーでくつろいでいるアイエネスさんに窺った。彼は読みかけの本を傍らに置いて目を細める。嫌だわ。この見透かすような瞳。まるで私がそう言い出すのが分かっていたみたい。


「傷の具合はもういいのか?」

「擦り傷です」


 実際、怪我が原因で寝込んだというから鏡越しに背中の傷を確認したけれど、猫の引っかき傷程度だった。

 寝込んだのは多分大袈裟ではないだろう。昨日までは確かにちょっと体が怠くて、掃除をしようなんて言い出せなかった。でも今日からなら大丈夫。体は軽いし、むしろこの家を磨きたくてウズウズしている。

 窓枠、棧に溜まった埃。絡み合い、積み重ねられた洗濯物、無造作に置かれ、放置された雑多な物の数々。


 まだマシなほうね。


 そう思えたのはきっとこれ以上の状態を見て、知っていたのだろう。

 数日分の埃を上から下へと落とす。箒を履いて雑巾を掛ける。ちょっと高そうな壺や絵画の扱いも絨毯の手入れも知っている。

 もしかして私って主婦なのかしら。本当に彼の妻だったの?

 クローゼットは女物の服で一杯だった。急拵えで買い揃えた新品ではなく、着古された衣装類は確かに誰かが袖を通したもの。ーー私?

 信じてしまえば楽なのに素直に頷けない、この抵抗は何処から来るのだろう。

 次から次へと湧いてくるこの疑念こそ掃除してしまいたい!

 どうにもならない鬱憤の捌け口を求めるように私のハタキは仇を求める。


 ♢


「ああ……なんてこと……」


 私って字が読めないのだわ。

 居間の掃除を済ませ、書斎に取り掛かって愕然とした。アイエネスさんの持つ、積まれただけの書籍類を分類別に分けたくて手に取った時に気付いてしまったのだ。

 それはそうよね、私が貴族の令嬢とは決して思ってはいなかったもの。けどまさか教養もなかったなんて結構ショック。

 どうして字が読めるなんて思っていたのだろう、根拠のない自信を持っていた自分が恥ずかしい。

 肩を落とし、しょげても仕方ないと作業を続ける。

 何より悔しいのはこの本の山を分類別に分けられないことだわ。分類別、著者別に綺麗に本棚に並べたい。字が読めないのでは分別も付かないじゃない。

 それでも装丁から推測するシリーズ物を仕分け、数冊ずつ小脇に抱えて本棚の上の段から順に並べて行く。

 壁面に設置された本棚は天井に頭を擦り、背伸びをしても届かない。そういう作りだから本棚にはちゃんと梯子が掛けられている。棚に沿って稼働するので、実はこの移動が密かに楽しい。

 棚の一角に運んで纏めた本を、更に個別に持って左右に動いて並べるの。

 そんな風についつい派手に動いていたら笑われたのだったわ。

 自然に溢れた笑みにふと気付く。

 誰に?

 誰に笑われたの。自問しつつも答えは明白。

 決まっているじゃない、こんな立派な本棚を持っている人がどれだけいるのよ。

 私がこの家に住んでいたのは真実なのかもしれない……。

 もしかしてホントの本当に奥さん……なの?


「リサ、書斎を整理するならこの本も一緒に……」

「ア、アイエネスさ……きゃっ!」


 何かと私を手伝いたがるのを邪魔とみなし、居間に置いて来たアイエネスさんが急に書斎のドアを開けて顔を覗かせるから、私は派手に驚いて梯子から足を滑らせる。

 タイミングの悪い。彼のことを考えてなければそこまで驚くこともなかったのにと一瞬のうちに責任を転嫁した私の体はふわりと包まれる。


「焦ったー。打ち所悪くしてまた寝込む気ですか、リサさんよー」


 眼前にかかる吐息に体が硬直する。

 梯子が書斎ドアのすぐ手前だったのが幸いし、ほぼ真下にいたアイエネスさんが落ちる私を受け止めてくれたのだ。肩を抱かれ、膝裏に見た目以上に筋肉質な腕が挟まる。

 これって所謂アレよね……?

 結婚式で花嫁さんがお婿さんに抱きかかえられる格好。


「コラ、どうせまた梯子で遊んでたんだろ。いつか落ちると思っていたんだよ、まったくおまえは……」

「ごめんなさい! 謝るからちょっと黙って」


 他に言い方はないの!? つい焦って変な制し方をしてしまった。

 ぴたりと口を閉じたアイエネスさんの丸くなる目。気まずくなって彼の腕の中で身を捩る私。

 肩に伝わる彼の熱。掌、あったかい。

 顎を引いて見上げれば間近にある顔。灰の瞳に映る私が分かる。なんて顔をしているのよ、私。

 耳に吐息交じりの低い声が鼓膜を震わせる。声質は低いけど太くはない、ちょっと甘味のような響きを含んだセクシーな声。

 無理よ! そんな声を至近距離で聴けない!


「あの……すみませんが、下ろしてくれませんか……?」


 感謝より先に出る要求。なのに私を抱えるアイエネスさんの手に力が篭り、さらにぎゅっと身を包まれる。まるで飼猫に対し可愛さ余って過剰に表現する愛情みたい。つまり凄いハグ。


「アアアアアアアアイエネスさんんんんん!」


 舌が縺れる。動揺でちゃんと話せない。力が入らず抗えない。


「アン」


 耳元でアイエネスさんが囁く。

 あん?


「アンって呼んで。俺の愛称」

「ア、アンさ……」

「敬称抜き、ついでに敬語も外して普通に話せよ。そしたら開放してやるからさ」


 また耳に……! も、もう! 弱いの分かっててやってる! 狡い! 意地悪!

 そんな悪どい方法に屈しないんだから。

 私は抗って身を捩るけれど、背中に回った手が彼の胸にがっちり押し付けられろくに動けない。それどころか伝わる熱に体がとろけてしまいそうになる。

 伝わる体温のなんて心地いいこと……。私の心まで解きほぐそうとする。


「ほーら、言ってみろって。簡単だろ? 普通に堅苦しいの抜きでさ、力を抜いて身を委ねりゃいいんだ」

「なんかいやらしい言い方だわ」

「いやらしいよ。男の子だもの」

「馬鹿じゃないの」

「馬鹿だよ。だけど俺を馬鹿にするのはリサだ」


 それで俺をどう呼ぶの?

 耳を食むような距離で尋ねる。こんな搦め手は卑怯だわ。


「ちゃんと呼べたらご褒美におやつはプディングを作ってあげる」


 ーーどうしてこんな誘惑に抗い続ければいいというの。私は自分自身すらろくに知らない無知で無力な人間だというのに。どうやって彼に向かう気持ちを止められるというの。

 胸に鳴り響く警鐘に目を背けるわけじゃない。ちょっと歩み寄るだけよ。近付かなければ知り得ないこともあるはず。


 そんなの詭弁だわ。

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