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01.私は囁く。



 夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。


 一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。


 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。


 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければーー。


 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。













 * * * * * 


 朝告げ鳥も鳴かぬのに自然と目が醒めた。

 背中を押し返す柔らかいベッドに暖かい羽毛の毛布はとても寝心地が良い筈なのに、どうにもカラダが強張って眠りが浅い気がする。

 私は身を起こし、大きく伸びをしてベッド下に並べていた内履きを履いてまずは寝床を整えた。次に、部屋にある唯一の窓にかかるカーテンを開ける。布に塞がれていたガラスは冷たい汗を掻いている。その滴を袖で拭い、覗き見た外界はまだ薄暗い。夜明け前というより、今日も天気が芳しくないのだろう。空にかかる灰色の雲は厚い。


「今日も寒そう……」


 呻いて、見ているだけで凍える光景に肩を寄せて身震いする。けれどこの部屋はとても暖かく、まるで春のよう。肌を刺す冷気は嘘みたいに届かない。

 裕福な家なのね。防寒用の壁に、火鉢、冬を凌げるだけの燃料。どれ一つ欠かないこの屋敷はとても快適に思う。それなのに私の心はどこかこの与えられた環境に馴染めず、借り物扱うように身を強張らせてしまう。

 こんな態度ではいけないと分かっているのに、今日も私はこの部屋でかなりの存在感を醸し出すクローゼットの前に萎縮してしまうのだわ。

 観音開きの扉に両手を掛ければ、こんな数のドレスなんて貴族のご婦人しか持ってないんだわってくらい色取り取りの布地が春爛漫と咲き綻んでまるで庭園だ。

 どれも普段着用には見えずに悩んでいると部屋のドアを敲く乾いた音が響く。ああもう、せっかく早く起きても私はなんてトロいのだ。


「開けてもいいか?」

「構いませんが、寝起きの姿でとても見苦しいですよ」


 本当は拒みたいところだけれど、相手がこの家の主人なのだから婉曲に辞去してみるも遠回しすぎたようだ。「大丈夫」なんてこっちはちっともよくありませんという状況で私の小さな世界に新たな風が吹き込む。


「やーっぱ着替えに悩んでいたかよ。女ってのは選ぶのが趣味みたいなところあるけど、それとも俺により良く見せたいといいうそういう可愛げ?」

「ち、違います! どれも私には合わない気がして困ってたんです。昨日も言ったじゃないですか! もう忘れちゃったんですか⁉︎」

「昨日もその前もリサは何着ても似合うつったろ。もう忘れちゃったんですかー?」

「……忘れてません」


 揶揄い口調が意地悪なこの家の主人は、私の隣からクローゼットの中を覗くと一着の服を取り出して手渡した。


「今日はこれにしな。淡い色、好きだろ」

「……ありがとうございます」


 服を胸に抱えると主人は背中を向けて部屋を出て、ドアを閉める前に一言添える。


「着替えたら呼んでくれ。髪を編んでやるから」

「重ね重ねすみません」


 頭を下げれば彼は苦い顔で端正な顔を歪める。


「もう少し肩の力を抜こうや。俺、おまえの旦那様なんだからさ」


 そうは言いましても……。

 私は眉間に力を入れて肩を竦める。


「記憶がないのに伴侶と申されては誰だって困ります」

「はっ……。確かに正論だ」


 自称旦那様は少し笑って同意した。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 突然の告白に戸惑うことを承知で申し上げるなら、私には三日前より先の記憶がない。

 自身についての全てはもちろん、生まれ育った場所、親の記憶、きょうだいや友人の有無など、私の生きた足跡に関する記憶は一切合切すっぽりとだ。

 三日前の朝、今朝と同じベッドで目覚めた私に顔を綻ばせたのはこの家の主人アイエネスさん。

 彼は私の意識を確認すると、私の名前をまず問うた。

 そこで私は自身の記憶がないことに気付いた。自分の名前すら思い出せない私に、アイエネスさんは「おまえの名前はリサだ」と教えてくれた。

 その響きに、私の中の空の部屋で小さなランプに火が灯った感じがした。なんだか温かくてすとんと腑に落ちた感覚は紛れもなく私の名前なのだろう。

 アイエネスさんは記憶がない私を混乱させないよう、ゆっくりと説明を始めた。

 どうやら私は怪我を負い、寝込んだらしい。出血は大したことはなかったみたいだけど、菌が入ったみたいで高熱で一週間。記憶障害はそれが原因のようだ。

 言われてみれば、背中の右肩の部分が痒みを伴って痛かった。

 これで私の名前と記憶喪失の理由は分かりました。


「ではアイエネスさん、あなたは私とどういうお知り合いでしょうか」


 私の名前を知っているなら行きずりの他人ではないので、きっと身近な誰かだと思って尋ねれば彼は待ってましたと言わんばかりに破顔した。


「俺はおまえの恋仲の旦那様だよ、マイベターハーフ!」

「嘘だ!」


 両の手を広げたポーズに、私は助けてもらった恩も忘れて即叫びましたよ。

 だって、記憶にございません。

 いえ、記憶喪失だろ云々は置いといて、名前や症状の原因などは知らずとも納得出来たのだ。忘れていても思い出せていないだけで、記憶そのものが真っさらに消えた訳ではない。

 なんとなくだけど、正しい記憶はパズルのピースのように埋まるのではないだろうか。だから、私は事実でないピースを弾いたのではないか。

 確信はないので完全嘘とも否定出来ないんですけどね。もしかしたら夫婦喧嘩の最中に記憶失くして認めたくないのかも知れないし。


 ともかく、否定をしてこの家を出てもここ連日の吹雪の影響で外出はおろか、行く当てもない私はアイエネスさんのお言葉に甘えてしまっているのだけどね。

 療養という名の夫婦生活、でも夫婦別室なのは良かった。


「記憶のない奥様と枕を共にする無理強いはまだしないよ」


 一部不穏な響きが気になるけど、アイエネスさんとの生活は概ね良好。

 クローゼットの中身に少しぎょっとしたり、私の感覚との齟齬があったりするけれど「結婚して日も浅かったから、以前もそんな感じだったよ」と言われたら“そうだったかもしれない”なんて思えて来る。

 何が真実かどれが私の記憶を手繰る糸なのか分からない不安感。

 アイエネスさんだって素直に信じていいのか分からないものだけど、悪人には見えないのよね。


「リサの髪は柔らかい猫毛で気持ちがいいよなぁ」

「そんなに良いものじゃありませんよ。すぐ鳥の巣みたく目も当てられなくなるんですから」


 幾分か力を込めて伝えると、アイエネスさんは笑って「確かに見応えのある姿だった」と零すので、そんな姿を以前に見ていたのだと知る。言っておいてなんだけど、恥ずかしいな。


「でも、毎日こうして手入れをすれば美しい烏羽玉ぬばたま色の髪だろ?」

「……好きにしたらいいです!」


 この人ときたらどうしてこう恥ずかしげもなく浮いた褒め言葉が出るのだろう。耳にくすぐったくて反応に困るわ。

 ーー変わり者のアイエネスさんはこの三日、毎朝私の髪を梳いてくれている。

 シンプルだけど上品な白基調の鏡台に映り込む私の髪ったらなんて酷い。まとまりなくうねり広がり、おまけに重っ苦しい印象の黒い髪。

 その髪をどうしてか好んで櫛を通し、編み込み、まとめて明るい色のリボンを結ぶ。出来栄えを鏡で眺め、その器用さに感心する。やっぱりご自分ので慣れているのかしらね。

 アイエネスさんは背中中程まである長い灰色の髪を一本のおさげに纏めている。昨日、私も自分で真似をしてみたけど無理でした。編み方まで忘れたのか、はたまた自身の不器用さを忘れてしまったのか。

 きっちり梳るとそれなりに見れたものになる我が髪をつい食い入るように眺めていたら、冬の空を映した目と視線がぶつかる。少し垂れがちの色気の含んだ目元。

 不意に鏡越しで微笑まれて心臓が跳ねる。

 この自称旦那様、お屋敷も立派だが見目も十分よろしいのよね。身分もよろしいだろうに、どうして私が恋女房なのか。

 もう一度鏡を見て憂鬱になる。整えた頭髪と綺麗なドレスのおかげで身綺麗にはされているが、隠しきれない鼻に浮いた雀斑で野暮ったい顔に、骨張って薄い貧相な身体。自慢と言えば澄んだ色の碧眼くらいだけど、お世辞にも美人とは言えない私が誰かに嫁げるなんて想像出来ない。

 根拠はないけどどうしてか私にはその意識が根深い。

 私の中の隅の方で私が囁くの。

「おかしいわ。私が結婚なんて出来る筈ないのに」って。

 記憶のない私の根拠のない確信。

 今は仮初めの夫婦生活を送っているけれど、気を許しちゃ駄目よ。

 そう忠告する私に、私も頷く。

 今は雪で足止め食らっているからどうにも出来ないだけ。大人しく、従順にこの日々をやり過ごすのよ。そうでなければーー……。


「リサ、何寝ぼけてんだ。身支度整ったんだから朝飯にしよう、冷めちまう」


 ハッと我に帰ると。櫛を鏡台にしまったアイエネスさんが私に手を差し出していた。

 優男な見目に対して意外に骨太い手を暫し見つめ、私はその手を取らずに腰を上げる。


「ぼんやりしてたけど考え事? なんか思い出した?」


 差し出した手を拒否したことも気にも留めない彼の問いに、私は首を振る。

 蘇った記憶なんてない。だけど、不穏な心の声は聞こえて来た。

 アイエネスさんの後についてリビングへと向かう中、私はきゅっと胸元で拳を握る。

 心臓が痛くて苦しい。

 ドレスに皺が入らない内に力を緩め、自分の赤い爪を見つめる。

 この色は嫌なことを連想させる。

 反芻するのは先ほど胸の内を過ぎった私の声。


 どうして私、“死んでしまう”なんて思ったのだろう。


 もやもやとする気持ちを振り払い、自称旦那様の背中を仰いだ。

“この人は良い人よ”と言う私と相反して、“気を許しては駄目”と語気を強める私がいる。

 私は誰を信じて進めばいいのだろうか。

 先の暗い状況に息を零し、私は掌に滲んだ汗をそっと拭った。


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