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物的証拠

      冷たい洞窟の土の上に   3


 

 切り立った崖の底に、雑木林が見えた。思わず足がすくんだ。その時だった。

 「奇跡は2度も起こりません。もう1度飛び込んだら、死にますよ。」

  背後から声が聞こえてきた。

 「あの時、誰もあなたが生きているなんて、思いませんでした。でも、救助犬が吠えたから、あなたが生きているとわかった。それで、大急ぎでヘリコプターを飛ばしてあなたの救助に向かったんです。」

 私の後ろに加藤が立っていた。

 「それでも飛び降りるというのなら、今すぐ、公務執行妨害で逮捕します。」

 「そういうの、別件逮捕っていうんじゃないの。」

  私は崖から少しだけ離れた。

 「どうしてもう1度、ここから飛び降りようとするんですか。この下に、一体、何があるんですか。」

 私は答えずに歩き出した。加藤もついてきた。

 「木下さん、あなたはトリカブトから毒を抽出して、あの2人に飲ませ、殺害した。だから飛び降りた。そうでしょう。」

 「今度は誘導尋問なの。」

 「状況証拠は真っ黒です。」

 「でも、物的証拠がない。自白もない。だから逮捕できないのでしょう。」

 私は建物の表に回ると、駐車場に向かった。確かめたいことがあった。加藤はぴったりとついてくる。駐車場を通り越して、しばらく山道を下った。それから脇にそれて、緩やかな斜面を滑り降りると、水の流れる音が聞こえてきた。この先に小さな滝があるのだ。岩肌から水が噴き出して、岩を穿ち、小さな滝壺ができている。その滝壺のそばに、イチヤク草が生えていた。 

 「まさか。」

 と、加藤が言った。

 「ここでトリカブトの根っこを洗ったのか。使った鍋も、ここで。」

 「ここは私のパワースポットなの。」

 間違いない。あの時、私が止血に使った葉は、これと同じだ。イチヤク草は種子と菌で繁殖する。あの洞窟のそばのイチヤク草は、ここのイチヤク草が繁殖したものだろう。   

 この滝のそばには、よく動物の足跡が残っていた。もしかしたら、ここからあの崖下に行ける獣道があるかもしれない。この辺りは傾斜が緩やかなのだ。私は斜面の木々の間を探し回った。

 そしてようやく見つけた。スキーのパラレルのように、巻きながら下に続いている細い獣道が。私は這いつくばるようにして、少しずつ足場を探りながら、獣道を辿り始めた。

 ずいぶん長い時間、腰を曲げて降り続けた。腰が痛くてたまらなかったが、伸ばすことができない。だが、その獣道もようやく終わり、とうとう、崖の底に辿り着くことができた。私は腰を伸ばし、叩き、思い切り背伸びをした。それからデイバッグの中からおにぎりとスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。私は後ろにいた加藤に、それを差し出した。

 「はい。あげるわ。」

 加藤は受け取ろうとしない。

 「公務中ですから。」

 私は構わず加藤に押し付けた。

「脱水もシャリバテも危険だわ。」

「ありがとう。では、お金を払います。」

 加藤はそう言うと、ポケットから財布を取り出した。

「そうか。賄賂になるのか。」

 私はそう言って、加藤からお金を受け取った。それから自分の分のドリンクとおにぎりを取り出した。

おにぎりはおいしかった。スポーツドリンクは乾いた喉に染み渡った。あの洞窟まで、まだ距離はかなりあるはずだった。私は再び歩き出した。

 雑木林の中に、石だらけの細い道があった。きっとここは大雨が降った時、水の流れる道なのだろう。ごろごろした岩ばかりで、歩きにくい。しかもゆるいのぼり坂だ。1時間ほども歩いた頃、ようやく見覚えのある、あの場所に着いた。めざす洞窟はすぐそばにあった。

 私は振り返ると、後ろにいる加藤に向かって言った。

「ここから先は、ついて来ないで。」

「それはできません。」

と、加藤が言った。

「木下さん、あなたはここで死ぬつもりでしょう。」

 加藤は私の前に立ちはだかった。

「この事件の物的証拠は、あの洞窟の中にある。だからあなたはどうしても、もう1度、ここに来る必要があった。その物的証拠とは、おそらく、あの時使った毒の残りだ。そしてあなたはその毒を飲んで死ぬつもりなんだ。」

「どいてよ。」

「木下さん。」

 加藤は言った。

「僕はあなたに謝罪したい。あの日、僕は安藤の後をつけました。安藤は広瀬と一緒になって、あなたを追い詰めていた。僕はあなたが殺されるか、自殺するか、時間の問題だと思っていました。

 なのに、僕はあの時、駐車場で躊躇っていた。安藤は上司で、僕は組織の人間で、だからあそこに踏み込んで、安藤を批判することができませんでした。もし、あの時、僕がすぐに憩の家に飛び込んでいれば、事件は起きなかった。僕にはあなたの殺人を防ぐことができた。」

 私は黙って聞いていた。

「木下さん、自首してください。僕は警察を辞めて、証言台に立ちます。そしてあなたの情状酌量を求めます。」

「いらないわ。」

 と、私は言った。

「情状酌量なんかいらない。反省も謝罪もしない。2人殺せば死刑なら、死刑になって構わない。あなたが苦しむことはないわ。だから来ないで。しばらく私をひとりにして。」

 私はそう言って、加藤を振り切って洞窟に向かって歩き出した。

「木下さん。」

 加藤が叫んだ。

「どうして、あなたは助かったのですか。どうして奇跡が起きたんですか。」

 私は足を止めた。

「木下さん、あの時、奇跡が起きたのは、ご主人があなたを護ってくれたからだ、そう考えることはできませんか。」

 加藤のことばは私を打ちのめした。

「どうしてそんなことを言うのよ。」

 振り返って、私は叫んだ。

「ずるい。卑怯よ、そんなことを言うなんて。ひどい、ひどすぎる。」

 私は力の限り叫んだ。

「来ないで。絶対に、来ないで。」

 私はそう言うと、洞窟に駆け込んだ。

夫が私を護った、まさか、そんなことがあるはずがない。そんな、映画や物語のような話を、私は信じない。そんなこと、あるもんですか。

 だけど。

 あの時、崖から飛び降りて、意識を失いかけた時、いきなり、体の落下が止まった。気が付くと、私は葉の生い茂った梢にひっかかっていた。梢はゆっくりとたゆみ、私を斜面に落とした。私は斜面を転がって、崖の底に着いた。

 夫が私を護った、ですって。

「ばか。どうして連れて行ってくれなかったのよ。」

 そうつぶやきながら、私は水鉄砲を取ろうとして、岩陰に手を伸ばした。

 ない。あの水鉄砲がない。私の指は、空を探るばかりだった。

そんなばかな。私は焦った。私はデイバッグから懐中電灯を取り出して、岩陰を照らした。すると、岩と土の間に、わずかな窪みがあった。その窪みの底に、水鉄砲の筒先が見えた。  

 そうか、こんな窪みに落ち込んでいたから、あの時、警察に見つからなかったのだ。

よかった。私は水鉄砲を取り出すと、抱きしめた。これでやっと、あの日に還ることができる。水鉄砲の中には、十分な毒が残っている。

 私は土の上に身を横たえて目を閉じた。水鉄砲を胸に置いて、手を合わせて祈った。あの時と同じように、穏やかな時間が流れていく。冷えた土の感触が心地よい。

 いつの間にか、私は不思議な幸福感に包まれていた。

私は夫の腕のぬくもりを全身に感じていた。冷たい洞窟の土の上で、私は夫の体に温かく包み込まれていた。私の鼓動に夫の熱い鼓動が重なり、ひとつになって脈打っていた。夫の心臓が私の胸の中にあった。

 私は起き上がって、ひざを抱えて、夫の鼓動を聞いた。胸に手を当てて、夫の鼓動を確かめた。夫の鼓動をすくいとって、指先にキスをした。その指先で涙を拭った。

 私は毒を飲むことができなかった。

 私は水鉄砲を土の上に置いた。それからデイバックの中から、ホームセンターで買ったおもちゃの水鉄砲を取りだした。その水鉄砲に、毒を少し移し、引き金を握った。私は夫の形見の水鉄砲をハンカチに包むと、デイバックに入れた。それから洞窟の外に出た。


 加藤は私の顔を見ると、ほっと溜息をついた。

「よかった。生きていてくれて。」

 私は加藤におもちゃの水鉄砲を渡した。

「はい、物的証拠。この中には、トリカブトから抽出した毒が入っている。そして引き金には、私の指紋がついている。」

 加藤は怪訝な顔をしていた。もしかしたら、加藤は私がホームセンターでこの水鉄砲を買ったことを知っているのかもしれなかった。けれど、加藤は

 「そうですか。」

 と、言って、ポケットからビニール袋を取り出して、その中に水鉄砲を入れた。

 「木下さんに、話しておかなければいけないことがあります。」

 加藤が言った。

 「安藤さんがストーカー対策室長だったという事実は、なかったことになりました。ストーカー対策室長が、被害者が逃げた場所に、加害者を連れて行ったということが世間にばれたら、警察の威信にかかわるからです。つまり、警察は自分たちの非を知っていて、それを隠ぺいしようとしている。」

 「つまり、安藤さんが、ストーカー対策室長として、広瀬の事務所に行ったことも、なかったことにしたいわけね。」

 「そうです。」

 加藤はそう言って頷いた。それからびっくりした顔で、こう言った。

 「どうして、それを知っているんですか。」

 「広瀬は有頂天になっていた。安藤を味方につけて、もうこれで怖いものはないと、思い込んでいた。きっと万能感に浸っていたのよ。

 広瀬は何度も憩の家に忍び込んだ。そして、『来たぞ』という痕跡を残して私に見せつけた。その中には、SDカードもあった。SDカードには、動画が保存してあった。」

 「今度は、盗聴ではなく、盗撮ですか。」

 「でも、撮られたのは、私ではない。」

 「え。」

 「盗撮されたのは、安藤よ。広瀬は自分の事務所に安藤が来た時に、動画を撮影していたの。もちろん、そこには広瀬の声も入っている。『どうだ、おまえが頼った警察を、俺は操っているんだぞ。』広瀬はそれを私に見せつけるために、SDカードを置いていった。もう、証拠を残しても、平気だと思い込んでいたんでしょうね。」

 「その動画は今、どこにあるんですか。」

 そう言いながら、加藤は憩の家の2階の木下の部屋に、SDカードがあったことを思い出した。

 「動画はもちろん、ウエブ上で保存してあるわ。でも、それだけではない。

 あの日、2人が憩の家に来た時、私は2階にいた。私はパソコンを開いて、動画サイトに広瀬の動画を投稿した。それから1階に降りた。つまり、もう、動画はネットで公開されているの。」

 意外なことに、加藤はそれを聞くと、くすっと笑った。

 「そうだったんですか。」

 「戻るわ。」

 そう言うと、私は歩き出した。

 

 私は一歩ずつ洞窟から遠ざかっていく。けれど、私はいつでもあの洞窟を胸の内に鮮明に描き出すことができる。あの、岩影の隠しポケットも、土の感触も、決して忘れることはない。もしも奇跡があるとすれば、私が護られることがあるとすれば、それは私があの洞窟とつながっているからだ。

私はもう、いつでもあの洞窟に行くことができる。あの、冷たい洞窟の土の上に。



    完

 

 





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